もう、人間じゃない
「…………え?」
常盤は訊き返すが大蛇は二度目の説明は無いとばかりに鋭い視線で彼女を射抜いている。
先程は助けてくれた青年。その時は同情の念が込められた眼差しであったのに、現在ではそんなものは微塵も残らず消えてしまっている。
かたかたと震えだした常盤は訳が分からず、思いの丈を言葉にする。
「……ちょっと待って下さい。いきなり何を言うんですか? 討伐? 下僕? 意味が分からないですよ。助けて貰った事は感謝してますが、それとこれとは別です。何で初対面の人に討伐だとか下僕だとか変な事言うんですか? そんな単語を言った理由を話して下さい。それとも、ただの悪戯ですか? からかってるんですか? もしそうだとしたら陰湿ですよ。助けた後に絶望を与えるなんて二流、三流の創作物でよく使われる事じゃないですか。そんな」
全部は言えなかった。動揺してしまっていたのだろう常盤の腹に無情にも大蛇の尻尾が叩き付けられる。
「がぶっ!?」
川岸まで跳ね飛ばされ、岸に敷き詰められていた石に前面から叩き付けられるように落下した。裂傷、打撲、関節に異常をきたし、内臓はいくつか破裂、鼻と肋骨、右足、右肩、左手首の骨は折れ、前歯は欠け、唇は裂け、右目の眼球は飛び出て潰れた。常盤は味わった事の無い灼熱の中で踊らされてるかのように焼けるような激痛を味わい、身悶えする事も出来ずに地面に平伏す。
意味が分からなかった。
先程は止血もしてくれたのに、どうして自分をこのような目に陥れているのかが常盤には分からなかった。理由を言われていない。理由があれば納得する訳でも無いが、あるとないとでは気構えや覚悟と言ったものが持てる。
「もういい」
溜息を吐いた大蛇は外していたチョーカーを舌で首元に持って行く。すると大蛇の首のサイズに合うようにチョーカーは伸長して巻き付き、身体が再び発光する。光が弱まると、ジャージ姿の青年に戻っていた。
「どちらかも選べないなら、俺は討伐するだけだ」
眉間に皺を寄せ、射抜くような冷ややかな視線で常盤を射抜くと、青年は一気に距離を詰め、無抵抗の常盤の腹を情け容赦無く爪先で蹴り上げる。
「べぼっ!?」
宙を舞った常盤は再び石の絨毯へと突き落とされる。この際、折れた肋骨は肺に突き刺さり、彼女は口から血を吐く。肺に血液が流れ込み、呼吸が出来なくなる。息が苦しい。溺れているような感覚。必死に息をしようと咳き込む。しかし、外界から酸素を上手く肺に流し込めない。対外へと排出する二酸化炭素も全てが喉を通って吐き出されるのではなく、肺に開いた穴から漏れ出し、傷口を撫でるようにして外へと排出させられる。咳をする度に口と傷口から鉄臭のした液体を飛び散らせる。
青年は咳き込む常盤の首に手を掛け、片腕だけの力で持ち上げる。苦痛に歪みながらも、抵抗する為の体力も気力も削がれてしまった常盤に青年はナイフのように鋭い声質で告げる。
「これで終わりだ」
指先に力を籠め、締め上げる。いや、締め上げるなぞ生温い。青年は常盤を首を起点として頭部と胴体を分離させようとしている。息も出来ず、もがく事も出来ない常盤の首の骨が小気味のいい音を響かせて折れた。
(……あ…………)
首から下のありとあらゆる感覚が消えた。
延髄を損傷し、脳に電気信号を送る事が出来なくなった事で常盤はもう完全に体を動かせなくなった。
干された洗濯物のようにだらり、と力無く肩、腕、指先、背中、腰、腹、足は重力に任せるように下に引っ張られる。そんな感覚さえも消え去っている。
(お……わり……?)
痛みも感じなくなった身体。冷たさも感じなくなった身体。それを受け止め、心の中で弱々しく呟いた。
(…………嫌……)
蝙蝠頭に血を吸われて死にそうになった時と一緒で。
(……嫌)
体力も気力も削がれた状態だが。
(嫌っ)
生を全うする為に。
(嫌っ!)
抗うと決めた。
(……――、――――――)
瞬間。先程思った言葉が脳裏に浮かんで行く。
(……――、――――為―)
不可解な事に、言葉が浮かぶと同時に美耶の身体に力が漲ってくる。
(……―す、――――為―)
感覚の無くなっていた胴体に感覚が戻っていく。
(……―す、―き――為に)
右肩が折れて本来なら動かせる筈もない右腕で自身の首を締め上げる青年の右腕の前腕部分を掴む。
そして。
(……殺す、生き残る為に)
常盤は青年の右腕をへし折る。まるで割り箸を捨てる時のように、棒状の菓子を砕くように、いとも容易くへし折る。
「ぐっ!?」
青年は手を離し、常盤がまだ地面に足が着いていない状態で蹴りを入れ、即座に自分との距離を開かせる。青年は自身の右腕に力が入らない事を確認すると、だらりと下げたまま常盤を睥睨する。
蹴り飛ばされた常盤は空中で回転し、難なく着地をする。
不思議であった。肺に溜まっていた血液はそれ自身に意思があるかのように全て血管へと戻っていく。呼吸が安定する。痣が消える。細胞が急速に分裂を繰り返して傷が治る。肌に血色が差す。血管が塞がる。歯が生え変わる。骨が癒着する。眼球が再構成される。脊椎が再生する。それ等の感覚が常盤には手に取るように、詳細に分かる。
視界が完全にクリアになると、彼女の身体は意思とは関係なく動き始めた。
彼女の味わっている感覚はまるで液晶の画面に映る映像をただ何の干渉もせずに見ているだけのようなものだった。
たったの一歩で青年との距離を無くすと、そのまま顔面を鷲掴むように右手を開いて突き出す。青年は咄嗟に首を左に曲げて頭の位置をずらして回避をする。
常盤は突き出した右手を引っ込める事なく、爪を立てて青年が首を曲げた方向へと風を切るように薙ぐ。しかしそれは青年には当たらず、代わりに青年が放った振り上げた左拳が常盤の右腕に直撃する。
ごきりっ! と骨が破砕する音が聞こえるが、痛みを感じる事無く、常盤は左手で青年の頭を掴んで地面に叩きつける。
「がはっ!」
土砂が飛び散り、双方に降りかかる。常盤は背年の頭を掴んだまま更に叩き付けようと片手だけで青年を持ち上げる。下方へと力を籠めようとした時に、青年が彼女の鳩尾に爪先の一点集中の蹴りをお見舞いする。
「っは……!」
一瞬息が詰まり、それによって一時的に力が緩んだ。青年はそれを見逃さずに続け様に脇腹に向けて脛で蹴りを入れた。常盤が完全に手を離すと、左手で彼女の右腕を掴んで捻り上げながら自重を頼りに共に地面へと向かう。
音を立てて共に倒れると、青年は即座に常盤の腕を背中に回して互いに無傷同士である左腕を左腕で拘束する。これで青年は優位に立てる筈だった。
しかし、すぐに形勢は逆転された。
常盤の回復能力は異常であったのだ。左腕を拘束された時には右腕は既に完全回復を果たしていた。
傷の癒えた右腕で青年の足を掴むと、力任せに引っ張る。青年は左腕に集中していた為に対応が出来ず、引き摺られるようにして地面に背中を打ち付ける。
常盤は即座に青年に馬乗りをすると、彼の首に華奢としか言えない両の手で首を包み込み、徐々に絞め上げる。気道を塞ぐように。脈を断つように。確実に息の根を止めるように。躊躇いなぞ無く。彼女は青年の呼吸を止めに掛かる。
「……っが……」
苦痛に表情を歪め、青年は呻きながらも、常盤の喉仏に目掛けて左の人差し指と中指で刺突をする。
ずぶり、と肉を掻き分け貫く。貫いた感触が指先に伝わると、青年は直ぐ様引き抜く。引き抜く際に指を少し折り曲げ、周りの肉も抉り取るようにした。
常盤は青年を即座に離し、自分の首を押さえる。そうしなければいくら空気中から酸素を吸っても肺へと流れ込まないのだ。それでも全てが肺へと向かうのでは無く、喉仏があった場所に開いた穴から漏れ出す。
と、ここで一つ違和感を覚えた。
傷口から流れ出ている筈の血液が肺に溜まるような感覚が無い。先程肺に肋骨が刺さった時に感じたあの溺れたような感覚が無い。
いや、それ以前に、傷口からは液体が流れ出ているような感触が無かった。掌に伝わってくる感覚は加湿器から出る霧状の水滴を触っているかのようなものだった。
常盤は恐る恐る傷口から手を離し、手に付着しているであろう血液を確かめる。
しかし、常盤の掌には血液は一滴たりともついてはいなかった。
何も付着していない。
代わりに、視界の下方から煙のような物が一筋だけ薄らと上がってくる。
その煙は灰色であり、常盤は不可解さに目を見開くと、もう煙は立ち込めなくなった。煙が消えたタイミングは彼女の喉の傷が完全に癒えた時と同じであった。
常盤は即座に自分の右手首を左手の爪によって切り裂いた。理由は分からないが力は彼女の想像以上に上昇しているので綺麗に切り揃えられた女性の爪でさえも簡単に肉を切断する事が可能だった。
常盤の傷口からは血液は流れなかった。灰色の靄が流れ出た。
先程見た煙と同じ色。
それはつまり、先程の煙は喉の傷から排気された靄であったという事。
「……………………え?」
ここで、常盤の身体は彼女の意思で動かせるようになった。そうなると、急に体が重く感じた。恐らく、先程の動きはリミッターが外れた際の動きなのだろう。それでも、異常である事に変わりはないが。
常盤は立ち上がり、頭を締め付けるように抱え、天を仰ぐ。降り注ぐ雨粒が開け放たれたままの口や鼻、瞬きを忘れて開きっ放しになった瞼の内にある眼球に触れても気にならなかった。
(…………私は)
常盤は自分の血を吸った蝙蝠頭を思い出した。
あれは目の前で咳き込んでいる青年が大蛇となった時に殺された。絞め殺された。
その際、蝙蝠頭の肉体は大蛇に巻き付かれ、骨が砕かれ、肉は裂かれた。
また、口からは黒い靄が吐き出された。
色こそ違えども、見た目としては蝙蝠頭が吐き出した靄と同質のように思えた。
つまり。
(……私は)
常盤椿と言う人間は。
(私は)
人間だった者は。
(…………化け物に、なっちゃったんだ……)
先程襲われた異形と同等の存在へと成り変わったのだった。
人間でなくなったが故に、異常なまでの回復能力を得た。
化け物になったが故に、異常なまでの力を得た。
常盤の中にあった爆ぜてしまった大切な何かとは、人間を人間足らしめる人間に人間として見て貰う為の人間の持てる儚げな力。
その代わりに彼女の中で目覚めた何かとは、化け物を化け物足らしめる化け物として扱われてしまう化け物の持てる悍ましい力。
そして、意思から離れていたとは言え、常盤はその力を存分に振るい、目の前の青年を殺そうとしていた。
青年に殺されかけたのは事実。正当防衛とでも言えば罷り通るかもしれない。
しかし、それでも常盤椿という人間だった者は本心から殺しなぞしたくないと思っている。例え相手が大蛇に変化する異形だとしても。相手に殺されそうになったとしても。
が、現実は青年の腕をへし折り、首を絞め、窒息死させようとしていた。
本能の赴くまま。
自分だけが助かるように。
殺されないようにと。
殺しかけた。
「…………っ」
常盤はそれを認めたくないが為に。
「……あ」
常盤は肺に空気を許容量限界まで溜め。
「ああアアァァァァああああああ嗚呼あああああ嗚呼あああああああアアああああああぁぁああああああああああああああああ嗚呼ああああぁァアアアあああああああああァァァァあああああああああ嗚呼ああああああああああああああああアアアアああああああぁぁぁぁあああああああアアアァァアアアああああああああああああァァアアああああああああああああああああああああああああああァァアア嗚呼ああっ!!!!!!!!!!!!」
叫び果てた。
哭いた。
喉が壊れる程に。
壊れても、直ぐに再生される。
どうして?
どうして自分は人間でなくなってしまったのか?
どうして自分は化け物になってしまったのか?
何時かはあの蝙蝠頭のような変化をしてしまうのだろうか?
望んでも無いのに。
願ってもいないのに。
どうして。
どうして?
分からない。
自分だけでは分からない。
自分の理解を超えている。
自分の事なのに、自分では分からない。
それが煩わしくて、空しい。
常盤の意識は自己を否定しようとするあまり混濁とした闇へと堕ちてしまった。
「ああああああああ嗚呼ああああ嗚呼あああああああああああああああああああああああああああああアアアアアアアアああっ!!!!!!!!」
雄叫びを上げながら、常盤は青年の首元へと齧り付く。
まるで先程の蝙蝠頭のように。
まるで先程自身にされた事を再現するように。
常盤は青年から血液を摂取しようと犬歯で傷をつけ、吸い付く。
「ぐっ!」
青年からは吸い出されたのは血液ではない。舌の上に錆びた鉄のようで生臭い液体の味が伝わってこない。代わりに喘息を直す為に医療器具で吸入をしているような感覚があった。
常盤には見えていないが、青年から吸い出されているのも彼女や蝙蝠頭と同じように身体を巡っている靄だ。色は黒でもなく、灰色でもなく、穢れを知らない純粋な白であり、ある種の神々しさを感じさせる。
そのような靄を吸い続けている常盤の身体に目立った変化が訪れた。
血色の戻っていた肌は赤みを失い、血を吸われていた時よりも蒼白色へと移り変わる。水分を含んで張り付いていた黒い長髪は風に吹かれたように靡き、根元から毛先に向かうように冷やりとした感覚を与える不気味な淡い藤色になるように色素が抜かれていく。青年に突き立てた犬歯は少しばかり伸長して牙と呼ぶに相応しい物に成長する。瞳は日本人特有の焦げ茶色から傷一つ無いルビーを埋め込んだような麗しい紅色へと彩られていく。
もう人間ではない常盤の変化。もし、他人が今の常盤を見れば指を差し、恐れ戦いてこのように言うだろう。
――吸血鬼、と。
「こ、の……っ」
体内を巡る白い靄を大量に吸い取られている青年は常盤の腹に足の裏を添えて、現在発揮出来る全力を持って蹴り飛ばす。吹っ飛ぶ事は無かったが、押す事には成功し、突き立てられていた牙は抜けて自由になった。
一瞬よろめき、視線が地面に向いた常盤の首筋に鋭い一撃が繰り出された。
それは青年が常盤の意識を刈り取る為に行ったものである。手刀などという生っちょろい攻撃ではなく、身体を空中で数回回転させて遠心力を得て放たれた延髄切りだった。
延髄切りをもろに食らった常盤は瞬間的に目を大きく開き、視界の外側から内側へと黒い波が侵食していくようにして意識が途絶えた。