全ての始まり
暑さが日に日に増して汗がだらだらと流れる八月某日。
この日は二週間ぶりの雨という事で体感気温は少しだけ下がったのだが、湿度が九十パーセントを越え、除湿器の無い室内にいると肌がべたべたし、結果的に晴れの日の方が過ごしやすい状態となっている。
強い雨が降りしきる中を一人の少女が傘も差さずに走っている。
彼女の名は常盤椿。肩甲骨辺りまである長い黒髪は雨に濡れて背中にへばり付き、目尻が少し上がって活発そうな印象を与える顔は向日葵のような眩しい笑顔がとても似合うのだろうが、現在は恐怖の色で塗り固められている。そんな彼女はジーンズにノースリーブの出で立ちであり、腰には薄手のカーディガンが巻かれている。
常盤は逃げている。
何からか?
それは彼女にも分からないでいる。しかし常盤の生物としての本能から逃げろと告げられそれを実行している。
本能が告げる事は間違いではない。脳で考えて考え抜くものとは感覚が違うが、無意識下で生き残る為の最善の策を掲示しているのだ。それは祖先が体験してきた数々の困難、命の危機がDNAに刻み込まれているからなのかもしれない。
だから常盤は逃げている。
誰かに助けを乞えば現状は変わるかもしれないが彼女が走っている場所は河川敷であり、雨で水嵩の増した河川に近付く愚か者はいない。雨脚も強く、世間で言う夏休みなので誰も好き好んで外を出歩こうとは思っていない。彼女は逃げている間、不幸にも誰にも会わないでいる。
河川敷から出て、近くの住宅街にでも赴けば匿って貰えるかもしれない。少なくとも、自身に降り注がれている危険は去っていく可能性が高い。
しかし、河川敷から出ようと坂を上って道路脇の歩道を走っていても、何時の間にか河川敷に戻って来てしまう。
何度やっても。
別の道を行っても。
最終的にこの人気の全く無い河川敷へと戻って来てしまうのだ。
「きゃっ!」
常盤は泥濘に足を取られて転んでしまう。前面が泥だらけになっても逃げようとする意思は変わらずに足に力を入れて立ち上がろうとするが力が入らずかくんとその場に伏してしまう。
無理もない。彼女は自身の体力の限界を超え、一時間近くも全速力に近い走りで逃げていたのだ。それにこの雨だ。水滴が気化する際に体の熱を奪ってしまい、余計に体力を削られていたのだ。今まで走っていられたのは立ち止まらなかったからだ。少しでも止まってしまえばリミッターの外れていた身体は過負荷に耐えきれずに崩れ落ちてしまう。正に現状がそれだ。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
息も絶え絶えだが逃げようと地を握り締めて這いずろうとする。しかし彼女には地を握る力も残されてはいなかった。
不意に、常盤は後方に視線を向ける。
雨で視界が遮られているが二十メートル先にはっきりと何かが立っていると分かる。それはシルエットとしてではなく、俗に言う第六感なる未知な感覚によって把握している。
それが確実に、一歩ずつ彼女に近付いていく。
逃げようともがくが無駄な足掻きで距離が縮んでいくだけだ。
何かが強い雨脚の中でも視認出来る程度まで近付いてきた。
「ひっ!」
常盤はより一層顔を引き攣らせ、呼吸が苦しくなった。
それは人間ではなかった。
いや、輪郭としては人間のそれだ。体のパーツの殆どは人間そのものだ。しかし人間ではない。
常盤はそれの右手に相当する部分を見つめる。
そこには本来あるべき右腕が存在していない。代わりに蝙蝠のような皮膜のついたうっすらと毛の生えた黒い翼が存在している。右腕に被せている訳ではない。本物の翼がそこにはあった。
恐る恐る、彼女は視線を上へとずらし、顔を見た瞬間に全身が凍りついた。
――蝙蝠。
比喩でもなく、まさに蝙蝠の頭部であった。耳をぴくぴく動かし、瞼を上下運動させ、鼻を引くつかせ、開いた口からは唾液が雨水に混ざって滴れ落ちている。
蝙蝠頭のそれは顔を醜悪に歪めて笑った。
「……血」
それは言葉を発した。それの声にはガラスを引っ掻いたような耳鳴り音が付随している。
「…………っ」
常盤は離れようとするが、全身が凍りついたようにピクリとも動かなかった。恐怖で全身が金縛りにあってしまったのだ。瞬きすらも出来ず、眼球は雨粒を受け続ける。
「血ヲ、寄越セ」
一歩一歩近付き、人間の形を残している左腕で彼女の肩を掴む。その力は凄まじく、肩の骨がきしみ折れるのではないかと心配させられる。
「や……っ」
必死で零した拒絶の言葉はそれに伝わらなかった。
それは雨に濡れて冷えた常盤の左肩に歯を突き立てる。
「ぁあ……ぁ…………」
左肩から血液が逃げていく。体内に張り巡らされた血管を循環し生きる為に必要な栄養素、酸素を運ぶ役目を持つ血液はそれの口に流れ込み、食堂を伝って胃に収まる。喉を鳴らし、呑んでいく。
血液が失われていく現状から、常盤は夢なら覚めてくれと切に願う。しかし、貧血状態に陥っての脱力状態が夢ではなく現実であると無情にも訴えてくる。
人間は体内を流れる血液を三分の一失うと死ぬそうだ。彼女もそういった知識は漫画や小説、ゲームで知っていた。それが本当の事かは分かっていない。彼女自身は迷信かもしれないとさえ思っている。しかし、現実血を失っていく自分の身体が重くなり力が入らなくなる独特の感覚は疲れた時や眠たくなった時とは全く違うものだと分かる。そしてこの状況が長時間続けば動かないただの肉塊へと成り果てるのだと予測した。三分の一でなくとも、それに近い数量を失えば死が訪れるのはこの独特の脱力感から本能的に悟った。
今、どれ程の血が失われたのだろう? もしかすると、既に三分の一が失われ、死んでいるのかもしれない。血液が減る毎に脳の回転が遅くなっていく為それさえもどうでもよくなってしまっていき、視界も狭まっていく。嗅覚が衰えていく。聴覚が疎かになっていく。触覚が麻痺していく。
彼女の意識は暗く冷たい微睡みの中へと誘われていく。
常盤はゆっくりとその身を微睡みに浸かっていく。
微睡みの中へと身を置いてしまえば最期だ。もう二度と這い戻る事は不可能。考える事も、この苦痛からも、脱力感からも解放される。
しかし、それでいいのか?
回転力は失われつつあるが、常盤の中に残った思考が一筋の光となって微睡みに完全に落ちる事を食い止めている。その思考はこの現状に対する唯一の希望。生を終えずに全うする為に必要なプロセス。
彼女はその思考を元に行動に出る。
例え、体に力が入らなくても。
例え、もう助からないとしても。
例え、既に死んでしまっていたとしても。
それでも、彼女は現状に抗った。
生命の危機に瀕していた御蔭か、常盤は両手を震えながら持ち上げ、蝙蝠の頭を掴み、噛み付いている咢を左肩から離そうと必死に左右に揺さぶる。しかし哀しいかな、この揺さぶりはあまりにも脆弱。ただ震えているだけに等しい衝撃だった。
彼女は例え震えているだけの行為でも諦めずに抗った。
現状を認めたくなかった。
認めてしまったが最後、もう自分を微睡みから引っ張り出す事が不可能になってしまうから。
再び微睡みに沈んでいく。掴み取った一筋の光がするすると手の内から抜けていく。
もう、これまでなのか?
そう思ってしまうと、彼女の中で大切な何かが音を立てて爆ぜ、新たに大切な何かにとって代わる別の何かが目覚めた。
「(や……だ……っ)」
常盤は悲痛とも呼べる囁きで、蚊の鳴くようなか細い声で叫んだ。一筋の光が遠くへと行ってしまう中でも彼女は顔を歪め、自身に降りかかる不幸と言う名の不条理に対する細やかなる抵抗。
「(こんなの……嫌だ……っ)」
誰に訴えるでもなく、そう叫んだ。
「そうだよな。こんな野郎に血ぃ吸われて殺されるのなんか御免だよな」
その叫びは届き、救いの手が差し伸べられる切っ掛けとなった。
常盤の身体が地面に崩れ落ちる。それは血液を吸い尽くされ、用済みとなったからではない。蝙蝠頭のそれが掴んでいた肩を離し、支えを失ったからだ。痛みは引かず、血も流れ続けているが一つの恐怖は去った。それでも肌は死人のように白くなり、未だに死の危険は身近に存在している。
「取り敢えず、これで止血だ」
肩に何かを貼り付けられる。それは感触からして布ではなく紙だと分かった。そして痛みが徐々に消えていき、段々と意識がはっきりとしていく。肌にも少しだけ赤みが戻る。
「その札には止血の他にも少しの増血、興奮作用があるからな。これで暫くは大丈夫だろ」
視界が回復すると、常盤の目の前には一人のジャージ姿の青年が立っていたのが確認出来た。年の瀬は二十代前半。雨であるのに形が崩れない焦げ茶の髪。乱雑に切り揃えられた前髪の間から覗く双眸は金色。首には蛇の皮で作られたチョーカーが巻かれている。
「念の為、もう一枚貼っとくか」
ジャージのポケットからもう一枚紙を取り出して彼女の肩に貼る。すると彼女の意識は噛み付かれる前と寸分違わない程度に回復した。確かに興奮作用はあるのだろう。ただの止血、増血ならばここまで意識ははっきりとしないし、するとしてもそれなりの時間経過が必要だ。
(この人……私を助けてくれた?)
目の前に立つ青年を見て、自分は助かったのだと安堵する。
「あの、ありがとうございます」
「礼はいい」
青年は首を振る。
「まだ終わってないからな」
「え?」
それと同時に彼の後方からのそりと何かが起き上がる気配が漂う。
常盤には分かったいた。その気配が何かを。蝙蝠頭のそれは口元を左手で押さえて青年を憎悪の籠った眼差しで睨みつけている。
「邪魔ヲ……スルナッ!」
「それは無理だな」
青年は振り返り、蝙蝠頭のそれに言い放つ。
「お前が怨霊である限り、俺はお前を消す義務があるからな」
「ホザケッ!」
蝙蝠頭のそれは青年に襲い掛かる。青年の首を掴み、捻り上げる。
「俺ハ死神如キニヤラレハセン!」
ぎりぎりと絞める力を上げていく。その拍子に、チョーカーが外れる。
「あーあ、外しちまったか」
首を絞められている筈の青年は苦しみで顔を歪める事無く、余裕の表情で呟く。
「お前、馬鹿だな」
「何?」
「これ、外しちまった事さ」
青年は外れたチョーカーを指しながらにやりと笑う。
「これを外さなければ、お前はもうちょっとだけこの世にいられたのにな」
瞬間、青年の身体から白い光が迸り、包んでいく。あまりの眩しさに、常盤は目を閉じる。身を焦がされる程に強烈な光量を持っている筈なのだが、不思議とその光には熱というものが存在せず、ただ眩しいばかりであった。
熱の無い光が徐々に消えていく。直しても目を傷めないくらいに光が弱まった事を感じ取った常盤は薄らと目を開けると、そこに青年はいなかった。
代わりに、体長二十メートルを超える白い大蛇がいた。
大蛇は蝙蝠の頭をしたそれに巻き付き、ぎりぎりと締め上げている。
「ウゴァァァアア……」
それは抵抗も出来ず、骨が砕け、肉が裂ける。それの口から血反吐は吐かれなかった。代わりに黒い靄のようなものが流れ出ている。
ばきゅっ。
一層小気味のいい音が鳴り響くと、蝙蝠頭のそれは力無く項垂れ、全身を黒い靄に変えて散って行った。
大蛇は体勢を直し、常盤の方に顔を向ける。常盤は大蛇に恐怖を感じてはいない。しかし、脅威は感じている。それもそうだろう。何せ、これ程までに長大な蛇なぞ目にする事は無いのだから。目にする事自体がおかしい現実。フィクションの中に紛れ込んでしまったかのような現実を目にして心に波を立てないものなぞいないだろう。
(……――、――――――)
そんな脅威を感じたからだろうか? 大蛇を見た常盤は心の中である言葉を呟いた。その呟きに彼女自身が心底驚いた。普段の常盤ならばあまり、というよりも絶対に出てこない言葉だった。そんな言葉が出て来てしまったという事は、彼女に何らかの影響が出たのだろう。その影響の源が先の蝙蝠頭か、それとも目の前の大蛇か。
常盤としては前者だと考えている。蝙蝠頭に血を吸われて死にかけた時に何かが彼女の中で目覚めた。その何かは常盤の大切な何かを媒介にして生まれたのだ。大切な何かは彼女には分からなかった。ただ大切であったという事しか分からず、それの詳細は分からず仕舞いだ。
その目覚めた何か(・・)によって目の前に悠然と佇む異形に対してそう呟いてしまったのだろう。相手は何が目的かは分からないが自分を助けてくれたのだ。そんな相手にあんな事を呟いてしまうとは最悪だと自己嫌悪に陥る。せめてもの救いは、その言葉が心の内に秘められている事だ。もし声として外部に発信してしまっていたらと思うとただでさえ冷え切った体温は更に低下してしまっていただろう。
冷や汗を流しても可笑しくない状態であるが、血液と言う形で体内の水分を多量に失ってしまったのでそれを補う為に体内機構が歯車を高速回転させて血液を増量させようとしている。その為に汗に回される筈の水分は血漿の構成物質へと半ば強制的に変換させられており、嫌な汗をかかずに済んでいる。
もっとも、現在は冷たい雨に晒されているので汗をかいたとしても別段と差し障りが無いのだが、そこは気分の問題なのだろう。
ふと、何かを感じとたらしい大蛇が首を常盤の経っている方へと巡らせる。
空気が固まった。
それは大蛇が常盤を睨みつけたからだ。
常盤は身動き一つ出来ずに、緊張から生唾を呑み込んでただただ大蛇を見据えるしかなかった。
「おい、お前」
常盤に冷めた目線を向けながら大蛇が声を掛ける。その声は脳に直接響く。そして青年の声と同じだと分かる。つまり、この大蛇は先程までいた青年なのだ。普通に考えたら有り得ないのだが、もう有り得ない状況に陥っていた彼女にとっては取るに足らない現象であった。そしてその取るに足らない現象は彼女にとって日常へと置換されていく事となる。
「……何?」
常盤は平静を装い、内心の呟きと動揺が悟られないように声をなるべく平坦に整えて大蛇を真っ直ぐ見て訊き返す。冷めた視線を向けられるのは恐らく表情に先程思ってしまった言葉が少し現れてしまったからだろうと推測する。その推測は当たりであり、今日の出来事の内で最悪となる。
大蛇は咢を開き、先が二股に分かれた細長い舌をちろちろと揺らしながら告げた。
「俺に討伐されるか。俺の下僕になるか。どちらか選べ」
それは選択の拒否なぞ許される声音では無い。決して語気は強くなく、脅迫めいたものではなかった。それでも、大蛇の声には有無を言わせない凄味と言うべきか物事に対する冷淡さとも言うべきものがあった。
「…………え?」
この日を境に、常盤椿は変わっていった。変わってしまった。
それは常盤椿が知らない道筋を辿る結果を生む。
それは彼女が望んでいた終着を迎える事となる。
常盤椿は知らず、彼女は忘れていない。
常盤椿と彼女は同じであり、同じではない。
――ただ、それだけの事。