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朝が来る

作者: 奇天

 清々しい朝。


 春と言うより、もう初夏と呼びたくなる。乾燥した空気が過ごしやすさを演出し、陽射しだけが夏の香りを届けてくれている。


 季節を楽しむように白いワンピースを着た少女が軽快に歩いている。金髪が日の光に映えてキラキラと輝いている。


 教会前の広場は色とりどりの花が飾られ、子供たちの楽しげな声が更に彩りを添える。




 街外れに佇む教会。街中には数多くの教会があり、荘厳さでは比較にもならないが、それでもこの地域の中心として尊敬を集める場所だった。小ぶりでも様々な装飾の施された建物は教会の名に相応しく、大きな扉の前に立った少女は、今日も威風を感じて立ち止まり、上を見上げた。神への祈りを口にして、厳かに扉を押し開く。


 他の教会に比べればはるかに開放的とはいえ、ここにも独特の雰囲気がある。それを正面から受けるように、顔を上げ胸を張って少女は進む。顔なじみの神官やシスターに挨拶しながら、聖堂の正面に位置する聖母像前まで進み、跪き、祈りを捧げた。


 これが少女の日課。孤児院からこの地に引き取られて以来欠かすことのない行為。




 祈りを終えた後、教会の最後方の椅子に座る。


 彼女にとって一日の中で最も心を落ち着けるひと時だ。これから始まるであろう慌しい一日を思い描き、今日やるべきことを頭の中で整理する。


「おはよう、ネル」


 穏やかな声が掛けられる。黒いだぼだぼの服に身を包んだ少年が、にっこりと笑いながら彼女の元へ歩いてくる。


「おはよう、トーマ。何かいいことでもあったの?」


「いい天気だから」


 トーマと呼ばれた少年は嬉しそうに答えた。ぼさぼさの茶色い髪。黒縁の眼鏡の奥の目はまだ眠そうだ。しかし、その笑顔は天真爛漫の言葉が相応しい。少女はつられて微笑む。


「そうね、素晴らしいお天気ね。


 でもね、まずあなたは顔を洗ってくるといいわ」


 トーマはしゅんとして教会の奥へと歩いていく。奥には洗面台がある。その姿を見ながら、まったく子供なんだからと苦笑する。これで同じ年なんだから、などと呟いて少年の帰りを待つ。それもまた毎朝繰り返される光景だった。




 少女は、年少の子供たちが神官から簡単な計算の仕方を習っている様子を眺めている。13歳の彼女だって大人から見れば子供に違いないが、彼女の中ではもう自分は大人に近い存在であり、子供たちの姿は懐かしむものだった。


 教会でこのように読み書きや計算といった基礎を教えるようになったのは、ここ10年のことだ。それまでにも地域によってはそういった風習があったが、10年前の戦争で多くの孤児が生まれ、こうした制度が普及した。


 先の戦争は未曾有の被害を生み、多くの孤児を生み出した。この国の孤児院はどこも子供で溢れていた。子供たちを育てるべき世代は戦死し、里親の受け入れ先を探すことも難しかった。大きな都市では子供のいない高齢の世帯にほぼ強制的に孤児を送りつけ育てさせた。


 ネイシアもそんな孤児のひとりだった。彼女は一人暮らしをしていたお婆さんの元へ連れて行かれ、一緒に暮らし始めた。気難しい相手との暮らしは、最初は慣れずに苦労したが、いつしか本当の家族のように可愛がってもらえるようになった。それでも、彼女には孤児という自覚があった。いつまでも負担をかけることはできない。法的には15歳でこの強制的な里親関係は解消される。彼女がお婆さまと呼ぶ女性は、その後も家族だと言ってくれるが、甘え続けたくはなかった。




「おはよう!」


 教会中に響き渡るような元気な声。勉強している子供たちも一斉に振り向く。彼らに愛敬を振りまきながら少年が二人に近付く。


「また遅刻ね、ロッカ」


「おはよう、ロッカ」


 ネイシアの嫌味をかき消すようにトーマが挨拶する。ロッカは満面の笑みを浮かべて、香ばしいパンの入った袋を差し出した。


「ジェネスがくれたんだ。あいつ、俺に惚れてるからな」


「バカ言ってんじゃないわよ」


 ジェネスとはこの地域で有名なパン屋の看板娘。優しく器量良し、17歳と妙齢なのでこの街の若い男たちを虜にしている。適齢期の彼女の気持ちを誰が見事に射止めるかは、最近この地域の噂の最大のネタになっている。最近大人っぽくなったと評判のロッカでも、まだまだ釣り合わない。




 ジェネスのパン屋は彼女たちの上客のひとつである。彼女たちの仕事、この街の何でも屋は、ほとんどが取るに足らない雑用だけれども最近ではこの地域に無くてはならないものとなった。パン屋の手伝いもまた、その大事な仕事なのだ。


 差し入れのパンを三人で食べながら、今日の仕事の段取りを整理する。ネイシア、ロッカ、トーマの三人は、年齢が同じでほぼ同時期にこの地域に引き取られた孤児である。帰る家こそ違え、孤児仲間として信頼を築き上げ、朝から晩まで遊び回った仲だ。


 ロッカは腕白でこの地域の孤児のリーダー的存在だ。抜群の行動力は、ほとんど悪戯に費やされていたが、最近は更生してこの仕事に励んでいる。一時期、この地域の大人たちから悪魔呼ばわりまでされたのが嘘のようで、今は子供からも大人からも信頼されている。彼はネイシアと違い、普通の里親に引き取られた。両親と兄がおり、父親は大きな工場の長として知られている。非常に厳格な人で、ロッカも実子の兄とともに厳しく育てられた。兄は父親の跡を継ぐべく学校へ進学した。ロッカは家の仕事を山ほどやらねばならなかった。里親制度の下でそれは当たり前の姿である。教会で勉学でき、昼間は遊び回っていた彼はむしろ恵まれている方だ。


 トーマはネイシアと同じように強制的里親制度によって引き取られた。非常に変わり者として有名な男の元で、孤児院の担当者がかなり心配していたが、それは杞憂だった。一人暮らしの男はこの闖入者に高い教育を与えた。トーマは教会での勉強だけでなく、家庭教師によって様々な知識を身に付けた。一方で、大事に扱われた彼は孤児らしく見えない。他の孤児たちより子供っぽく見えてしまうし、一人で生きる自覚に欠け、ネイシアから注意されることも多い。人を信頼しすぎて騙されることもあり、「甘ちゃん」の評価を受けているが、本人は自覚していないようだ。


 両極端の二人と共にネイシアが何でも屋を始めた。孤児たちと街の人々とを結ぶ存在として周りが受け入れてくれた。できることなんてたかがしれていた。でも、日々の積み重ねが信頼関係を深め、今ではこの地域の外からも依頼が舞い込むこともあるほどだ。




「ロッカは夕方までティフォスさんのところの荷物運びよ。そのあとディルガさんのところで店番。あそこは口うるさいから気をつけなさい」


 うんざりした顔で頭を掻くロッカ。体格だけ見ると他の二人よりも確実に大人のよう。実際、最近は大人びて見えることも多い。短く刈り込んだ黒髪が少年っぽさを醸し出しているが、その黒い瞳は大人のように深かった。


「トーマはフィオさん家の掃除の手伝い。それが終わったら、今日もルネオさんの店の仕入れをお願い。夜はリジェさんの子供の勉強を見てあげてね。いいかしら?」


 力仕事はロッカの領分だが、それ以外なら彼はなんでもそつなくこなす。


「分かったよ」


 答える笑顔は限りなく子供っぽいが。それを見て頷くと、彼女は自分の予定を口にした。


「私はトレイシスさんの農園で収穫を手伝うわ」


「何の収穫だよ?」


 ロッカの問い掛けに笑顔で答える。


「イチゴよ。お裾分け頂けたらちゃんと二人にも分けるわよ」


 少年二人は嬉しそうに歓声を上げる。それをにっこりと笑って見守る少女。その姿は子供らしい情景。


「じゃあ、今日も一日お仕事頑張りましょう」


 ネイシアの言葉でそれぞれが一日を始める。ここ最近、毎日決まりきった儀式。仕事は決して楽なことばかりではないし、時には嫌なこともあるけれど。それでも大切な日常。いつまで続くか分からないこの生活が、一日でも長く続いて欲しい、それが少女の祈りだった。






「ネイシア・フィルブレイスは君か?」


 白髪で顔だけ見れば老人と呼べるが、健康的な肉体を持つ男。いや、健康的というよりも頑強とでもいうべきか。


「はい。どちらさまですか?」


 男はクレストフと名乗った。少女を値踏みするように見ている。その表情は落胆しているように見えた。


「本当に子供なのだな。まあいい、仕事の話だ」




 農園から戻ると、教会に待ち人がいた。依頼人が待つ小部屋に入った途端、いきなり仕事の話を持ちかけられた。


「ディルフルは知っているか?」


 単刀直入に試すような質問をしてくる。


「南にある港町ですね」


 向かい合って座っているが、男の醸し出す威圧感に圧倒される。街では見かけないタイプの人物だ。答えるだけで気力が必要になる。


「そうだ。そこに宝が眠っている」


 急に声を潜める男。


「宝、ですか?」


 意外な言葉に思わず問い返す。


「港のすぐそばに昔に沈んだ船がある。そこに宝がある」


「そんなところなら、もう誰かが取っているんじゃ?」


 首をかしげて当然の疑問を口にする。


「海流の関係で近付くことができない。過去、何人かが近付くことには成功している。つまり、宝があることは確認済みだ。だが、実際に引き上げるには船が必要になる」


 なるほどと納得する。


「トーマという奴が特殊な船を作ったと聞いた」


 以前、湖でヨットレースが行われ、依頼を受けてトーマが船を作って優勝した。それを聞きつけてきたのだろう。


「船の依頼ということですか?」


「操船はできるか?」


 あの船はトーマがいないと動かせなかった。だから、頷く。


「そうか、なら、宝探しの手伝いまで、だな。実際に潜るのはオレ一人で十分だ」


 話は分かった。しかし、ディルフルは遠い。日帰りでは無理だし、船を運ぶのも大きな手間だ。考え込む少女を見て男が続ける。


「とりあえず船の代金と港までの輸送費や手伝いの交通費は置いていく。


 船が目的地まで到達できれば報酬を出す。もちろん、宝が見つかれば、そうだな、三分の一を渡してもいいぞ」


 気前の良さそうな言葉だが、失敗すればただ働きに近い。それでも、「分かりました」と即答した。本当は二人と相談して決めるべきことだったが、男の持つ雰囲気に飲まれていた。男は連絡先のメモと大金を置いて出て行った。




 何でも屋始まって以来の大仕事。


 メモを見ると、男のこの街での宿泊先や港町の情報などがびっしりと書かれている。的確かつ過不足無い情報。男はかなりの年齢のはずだが、強靭な意志と精悍な肉体に若ささえ感じてしまう。煽られちゃったな、と本音を漏らす。受けてしまった以上、早く準備する必要がある。やるべきことは多い。


 既に日は暮れていた。夕闇の街を小走りに少女は駆けていく。




 雑然と商品が積み上げられたルネオの雑貨店。トーマはミミズの這った様な文字の書かれた帳簿を睨みながら、太った店主と話していた。人の良さだけが取り得のような店主に、むしろあれこれと指示を出している。


「大変よ、トーマ」


 ネイシアは文字通り店に飛び込んできた。


「仕事中だよ、ネル」


 抗議の声を上げるが、怒りより喜びの成分が多い声だった。


「休憩しよう、トーマ」


「ごめんなさい、ルネオさん」


 依頼人に気を利かせてもらい、恐縮する。


「そんなに息を切らせて、よっぽどの急用なんだろう?」


 大らかに笑顔を見せるルネオ。平身低頭しているネイシアの手を取って、トーマが外へと連れ出した。




「どうしたんだい、いったい」


「大変なのよ!」


 普段と明らかに異なる少女の様子を、わくわくしながら見ている少年。少女は、ひとつ深呼吸をして息を整えてから話し始めた。


「宝探しの依頼が来たの」


「宝探しだって!」


 ネイシアはトーマの口を慌てて塞ぐ。


「大声を出さないで」


 口を塞がれた少年は目を見開いて何度も頷いた。それを確認してから手を離して、話を続ける。


「ディルフルに宝を乗せた船が沈んでるんですって。でも、海流のせいで近付けないそうよ。


 それで、あなたが前に作った船を使いたいんだって」


「船の依頼なの?」


「操船も出来るならって。あれ、あなたじゃないと動かせないでしょ。潜って宝を取るのは依頼人本人だけど」


 トーマはそれを聞くと、両手を組んで考え込む。


「どうか、した?」


 おそるおそるといった感じで聞く。返事がない。予想外の反応に戸惑ってしまう。


「受けない方がいいかもしれない」


 やっと返ってきた答え。それは非常に柔らかい言い回しだが、拒絶を意味する内容だった。長く付き合ってきたから分かる。少女の眉間に皺が寄る。


「うーん、もう、受けちゃったのよ」


「そう、分かったよ。じゃあ急いで準備しないといけないね」


 なんでもないようにトーマが言う。依頼を受けるかどうかは基本的にネイシアが決めている。ただ今回のような特別な依頼は相談して決めることが暗黙の了解だった。


「ごめんね、勝手に決めちゃって」


 少女の言葉に穏やかな笑みを浮かべ、トーマは首を振った。




「うほっ!宝探し!」


 ロッカの第一声を予想していたかのように口を塞ぐ。


「大きな声を出さないで」


 ネイシアはロッカが店番の仕事を終わるのを待って依頼の内容を説明した。


「海、か」


 ロッカの呟き。運動神経抜群の彼にとって唯一の弱点が泳げないことだった。小さい頃に溺れて、それ以来極端に水を嫌う。


「泳げないと一兵卒のままよ」


 ロッカは軍への入隊を公言している。孤児や貧民の子供が出世するには最適の場だからだ。もちろん、士官学校卒のエリートとの差は埋められない。それでも自身の力量によって成功を掴める可能性のある世界。過去にも叩き上げで将軍にまで登りつめた英雄は幾人かいる。だからこそ、彼が将軍を目指すという大言も認められている。将軍はともかく、彼が軍で出世するだろうという予測は地域の人たちの常識だった。その彼をからかう口実に何かにつけて泳げないことが使われる。


 さすがに堪えているのか、むっつりと黙り込む。腕を組み、口を一文字に結び、じっと彼女を見据えていると、少年というより一人前の男のように見える。ネイシアは最近彼のそうした男っぽさをどう扱っていいか戸惑っていた。今もつい魅入ってしまった。ハッとして慌てて沈黙を破る。


「まあ、ロッカは留守番ね」


 ロッカは黙ったまま。夜気はさすがにまだ冷たい。少年は少女の震える様を見てようやく口を開く。


「もう決めたんだろ」


 怒りを含んだ声。ネイシアは戯画的に少年に懺悔の素振りをする。ロッカはぷいと顔をそむけた。






 快晴の空。


 港町ディルフルまでは蒸気鉄道を使う。鉄道に乗るのは初めて。街を離れこんな遠くまで行くのも初めて。そして、遠いところで外泊することも初めての経験だった。


 鉄道は乗車賃が非常に高価で、片道だけでも何でも屋の収入の1か月分を越えるほどだ。それだけに子供の二人連れだけの乗客は珍しく、何度も何度も駅員や車掌に尋問された。


うんざりした尋問がようやく終わり、今はのんびりと車窓から流れる景色を楽しんでいる。


 前の席では、トーマが窓から身を乗り出すようにして鉄道の旅を楽しんでいる。その子供っぽい仕草を見て、トーマとだから安心できている気持ちを実感する。トーマは子供だから。このところ彼女が何度も繰り返す独り言。それがロッカに感じるものの裏返しであることに気付いていた。


 正式な入隊は15歳にならないとできないが、士官付きで身の回りの世話をする役職なら12歳から入隊できる。ロッカは正式な里親がいるし、父親から紹介状を書いてもらえれば問題なく入れるだろう。彼はいつ軍に入ってもおかしくない。時間の問題。自分の将来を見据え、強い意志を持つ最近のロッカの姿を、彼女は眩しいと感じていた。同じ年で、むしろ姉の様に接してきた彼女にとっては、いらだちや焦りさえも覚えてしまうほどだった。




 ディルフルの駅では依頼人のクレストフが待っていた。積荷は多い。クレストフは真っ先に船を下ろす。船と言っても大きめのカヌーに帆をつけたようなしろものだが、巨躯の老人は軽々と船体を抱え上げる。


 その他の様々な備品を二人で分担して運ぶ。それでもかなり悪戦苦闘する。駅舎を出ると、そこには青い海が広がっていた。


 二人にとって初めて見る海。トーマは素直にうわーと歓声を上げる。いつもなら駆け出していそうだが、さすがに荷物が多くて走れない。


ネイシアは初めて嗅ぐ潮の臭いに眉を顰めた。街にない刺激。今まで暮らしていた場所を離れ、未知の世界に飛び込んだと実感する。すぐにその思いを振り切り、顔を上げて依頼人に遅れないよう付いていく。その表情には決意のようなものが込められていた。




 駅に着いてから港に直行し、延々と船を組み立てた。ようやく作業が終わったときは既に辺りは真っ暗だった。


 安宿に案内され、その一階にある食堂で遅い夕食を取る。疲れもあってみんな黙々と食べた。その後、依頼人が自ら店の主人と掛け合って部屋を一室用意させた。主人は一部屋に二人泊めることに良い顔をしなかったが、子供だからと強引に決めてしまった。男は自分の住まいに帰り、残った二人で二階に上がる。階段はぎしぎしと音を立てる。


 部屋は狭く、そこに巨大なベッドが置かれていた。他には何も無い。船乗りが泊まる分にはこれで十分なのだろう。


「お風呂、ないんだね」


 洗面所ですら階下の食堂と兼用している。風呂など付いていないのは分かりきったことだ。


「疲れたわ。すぐに寝るわよ」


 着替えるためにトーマを部屋の外へ追い出す。部屋着に着替え、改めて部屋を見回す。ロッカなら床に寝せるんだけど、と思ってニヤリと笑う。トーマを呼び戻し、子供っぽく振る舞う彼の姿を見ながら、トーマなら平気と自分に言い聞かせる。男の子と同じベッドで寝ることに抵抗はあったが、トーマのお喋りを聞いているうちに眠ってしまった。






 翌朝。


 港は快晴。抜けるような青空が海の青と映えてとても綺麗だった。


 南部に位置するこの港町は、街よりも確実に夏に近い。陽射しはもう夏のもの。じっとしていても汗ばんでくる。でも、それは不快なものではない。いつの間にか潮の臭いにも慣れ、むしろ心地よく感じていた。


 港町の朝は早い。早朝だが、港は喧騒に包まれている。その港の端に、奇妙な船が浮かんでいた。


「おはようございます」


 約束の時間より前だと言うのにもうクレストフは待っていた。決して文句を言われる筋合いではないが、依頼人を待たせるのは性に合わない。もう少し早く来れば良かったなと思ってしまう。男は二人の姿を眼に捉えると、すぐに準備に取り掛かる。二人も急いで彼を手伝う。


 クリストフとトーマは上半身裸で、下も短パンのみ。クリストフは真っ黒に焼けて、逞しい筋肉が海の男と思わせるが、トーマは青白い肌に筋肉もほとんど見えず、対照的だった。トーマももう少し逞しくならないと、と余計な事まで思ってしまう。


 ネイシアは普段下ろしている金髪をポニーテールにまとめていた。白を基調とした軽装で、農園で手伝うときと近い服装。トーマからは海に落ちると危険だと言われたが、さすがに裸って訳にもいかない。


 準備が完了した頃にはかなりの数の見物人が集まっていた。その大半は朝の漁を終えた男たちだ。珍しそうに船とその乗組員を見ている。クレストフはそれなりに知られているようで、冷やかしの言葉が飛んでいる。


 いよいよ出航。野次馬たちの声援が飛ぶ。トーマは嬉しそうに彼らに手を振って答えている。男は目的地を睨むように立っている。ネイシアは眩しい陽射しの中で、二人を交互に見ていた。




 3人で定員一杯という、おもちゃのような船は、トーマの操船でスムーズに進んでいる。トーマは紙飛行機を飛ばしたり、おもちゃのヨットを浮かべたりと、とても役に立ちそうのないことに無類の才能を発揮した。まあ今は役に立っているけど、と呟くネイシア。クレストフは不安定な舳先に立ち周囲を油断無く観察している。


「ここから陸側へ進め」


 男の指示に瞬時に反応し、トーマが帆を操る。更にこの船には様々な仕掛けが施されていて、トーマの言葉に従ってネイシアがそれを操作する。船は海流に逆らうように陸地に向かって少しずつ進んでいく。


 いきなり風向きが変わる。帆の向きや大きさを巧みに操作する。トーマの機敏な動きに船は思いのままに操られているようだ。


 穏やかに見える海が、この一帯だけ不思議と波が強い。気が付くともうびしょ濡れになっていた。海水を吸った服は重く、体の自由が奪われる。トーマの指示は次々と飛んでくる。容赦がない。体がついていけない。船はバランスを崩す。それでも立ち続けるクレストフの指差す方向と異なる向きに船が流れている。


 唐突に、この旅の前に交わされた会話を思い出した。ロッカもトーマも彼女の同行に反対していた。何でも屋の仕事で、三人の手が足りない時には他の孤児たちを助っ人に呼ぶ。今回もそうすべきだと二人は主張した。トーマは外せない。ロッカは船に乗れない。鉄道の旅費を考えると二人しか無理。トーマと手伝いの二人だけでは頼りにならないという彼女の主張が結局は二人を押し切った。


 後悔するより、今は行動。嫌な記憶を振り払い、懸命に船を操作する。何のためにここまで来たのか。


「もう少しだ!」


 初めて依頼人の感情のこもった声を聞く。


「4番レバーを引いて!」


 叫ぶようなトーマの声。左手でレバーを引く。びくともしない。急いで両手を使う。重い。中腰になり力を込める。歯を食いしばる。動いた。突然、レバーの重さが無くなる。あっ!と声を上げると、体は宙に浮いていた。ざばんと海に落ちる。もがく間も無く体は沈んでいく。


「ネルーーーーーーーーーーーーーーーー」


 トーマの叫びが幻覚のように鳴り響いていた。




「ネルっ!ネルっ!」


 狂乱して叫ぶ。海に飛び込もうとする少年を男は止めた。


「宝を取ってくる。ここで待ってろ」


 トーマは喚きながら首を振る。


「お前が行っても溺れるだけだ。どうせあっちの浜に打ち上げられる。心配するな、医者を待機させてある」


 それでもトーマは男から離れようと暴れ続ける。男は更に少年の耳元で何か囁いた。ハッとする少年。その表情だけ見るとすぐさま男は海に飛び込んだ。




「良かったわね、息があって」


 女医が笑う。


 宝を持って戻ってきた男を引き上げると、急いで浜へ向かった。浜では女がネイシアを手当てしていた。船を放置し、宝を持った男を置いて、女医に従いネイシアを運ぶ。溺れたにしては安らかな少女。女医が連れてきたところは、病院と呼ぶには抵抗のある大部屋だった。ただベッドだけが数多く並んでいる。思わず回れ右をしたくなる。


「水抜きの秘薬を使ったのよ。もう少し感謝しなさい」


 ネイシアを一番マシなベッドに寝かせる。本当に溺れたように見えない。衣服さえ乾いている。


 女医は部屋にいた太った女性にてきぱきと指示をする。その中には安宿に預けていた二人の荷物を持ってくることも含まれていた。


「夜には目覚めるわ。


 それより、本当に宝、あったのね」


 中年女は医者というより賭博師のような顔で唇を舐めた。


「で、薬代だけど」


 そう言って請求書を投げつけた。床に落ちた紙を見る。その額は金貨3枚。街で大人が半年みっちり働いて金貨1枚に届くかどうか。少年にとってはとても手が届きそうにない大金だ。


「この仕事の報酬が入ったら、すぐに払います」


 努めて冷静に答える。女は下卑た笑みを浮かべて、少年と少女を見る。蛇に睨まれたカエルのように立ちすくむ。


「まあ、いいわ」


 ふふふと笑みを漏らして女は出て行った。






 目覚める。


 薄暗い中に浮かぶ白い顔。視点が定まるとそれがよく知る少年のものと分かる。彼の表情は心配そうなものから喜びへと変わっていく。その変化を観察しながら、徐々に記憶を蘇えらせる。


「私」


 確か、溺れて・・・。


「よかった」


 少年はいとおしく少女の頭を抱きしめた。そして、少女の耳にすすり泣く彼の声が聞こえてきた。


「トーマ」


 思わず名前を呼ぶ。そこにいるのは彼女の知っている子供ではなかった。彼女を包み込む存在。まるで許しを受けたかのような心安らぐ気持ちがする。ネイシアは眼を閉じる。トーマの心臓の鼓動が聞こえる。それがとてもとても心地よかった。




 お互いが落ち着いてから、溺れて以後の顛末を聞いた。少年は淡々と話す。終えると、一言付け加えた。


「ごめん、助けに行けなくて」


 それは、感情に任せた声ではない。なのに、それまでと違う響きがした。


「そんなことはないわ。あれは全て私が悪かったのだから」


 あの場面を思い出す。唇を噛み締める。


 泳ぎは得意だった。でも、そんな自信は意味がなかった。海の恐ろしさ。それを知らなかった。服を着たままの怖さも初めて知った。愚かだ。海に落ちた途端、もう何もできなかった。抗うこともできなかった。船を掴むことさえ。よく死なずに済んだものだ。


「心配かけてごめんね」


 その後、戻ってきた女医に診てもらい、泊まっていくように言われた。まだ体は重く、自由には動かない。その言葉に従うしかない。ただトーマがそばにいてくれることが心強かった。




 港町が寝静まる。トーマは疲れ果てて、空いていた近くのベッドで眠っている。ネイシアは眠れず、膝を抱えて座っていた。


 激しい物音が近付いてきた。足音。そして、扉が開く。


「ネル!」


 驚いて扉のほうを見つめる。月明かりだけでは室内は暗く、顔は見えない。わずかに近寄ってくる少年の顔立ちだけが見て取れた。


「ロッカ、どうしたの!」


「大丈夫、なのか?」


 表情までは見えないが、彼女には想像できた。


「もう平気。ごめんね、心配かけたね」


 自分でも驚くほど優しい声だった。


「でも、どうしてここにロッカがいるの?」


「どうしてって、お前が死にかけているって聞いてすっ飛んできたんだ。馬を借りた。走りづめでアイツも死にかけだ」


 ネイシアは何気なくトーマを見る。横になったまま動かない。だが、寝ているかどうかまでは分からない。


「仕事はどうしたのよ」


「仕事?そんな場合かよ!」


「ダメじゃない、仕事サボっちゃ」


 再びロッカの方を向く。思った以上に彼が近くに立っていた。彼の息遣いまで聞こえてくる。


「まあ、でも、ありがとう」


 気恥ずかしくなって俯いてしまう。ロッカは大きく溜息をつくと、その場に座り込んだ。ここまで馬に乗ってくるだけでも相当疲れたはずだ。


「空いてるベッドで寝ていいわよ」


 しかし、ロッカはその場に倒れこむように寝転がった。もういい、などと呟きながら。


「ごめんなさい。ありがとう」


 ネイシアは恐らく聞いているだろう二人の少年に向けて素直に気持ちを吐露した。






「大変だよ」


 体を揺すぶられる。頭が痛い。朝になっているのは分かった。起き上がろうとするが、意識は朦朧としたままだ。


 窓から今日も太陽が元気なことが見て取れる。窓の外からは騒がしい音も聞こえてくる。


 ネイシアは寝ぼけ顔で太ったおばさんを見上げる。彼女の口調は淡々としていて、無表情なのに恐ろしいことを口にした。


「あんたの知り合い、殺されちまうよ」


 その言葉が認識できた瞬間に飛び起きていた。大急ぎで外へ出る。まだ体は言うことを聞かず、うまく走れないが、転ぶように進んで行く。


 騒いでる方へ。若い男の叫び声と物が壊れる音。人垣ができている。それを掻き分けて、元凶へとたどり着く。


 肩で息をし、呪いの言葉を喚き散らしながら、左手で少年の胸元を掴み、右手は今まさに少年の頬を殴ろうとしている。


「ロッカ、やめなさい!」


 全力で声を上げる。


 ロッカはゆっくりと声の主を見る。そして、再び叫びを上げながら殴りつけた。激しい音と共にトーマは吹き飛んだ。もう意識がないのか、まるで人形のように壁に叩きつけられる。トーマの体は傷だらけで、眼鏡もない。あちこちから赤い血が見える。


 急いで駆け寄る。


「トーマ!」


 反応がない。そのとき、ネイシアは体中の血液が無くなっていく気分がした。倒れる。でも、倒れてはいけない。意思の力でかろうじて踏みとどまる。


「ネル!」


 ロッカが倒れそうな少女を支えようと近付く。それに気付いたネイシアは右手を突き出して制した。


「近寄らないで」


 それだけ言うにも全力を要した。


 ロッカは時間が止まったかのように静止している。その顔には少年っぽさがなかった。憤怒だけが彼の顔に浮かんでいる。


「そいつはお前を助けずに、宝を優先させたんだ。俺は絶対に許さない」


 ネイシアが気を抜いた瞬間にまだトーマに殴りかかろうという気配が続く。過去、ロッカは悪童として悪戯や暴力、果ては犯罪まで行った。それでも彼女が止めてと言えば止めてくれた。どんなことでも。


 ロッカは動かない。ただネイシアを見つめている。ネイシアも差し出した右手の力だけで彼を押し止めているかのように全力を込める。少女の瞳は怒りではなく、悲しみだけでもなく、様々な想いが渦巻いて見えた。


 ついに、ロッカが眼を逸らす。そのまま背を向けて去っていく。


 ネイシアはトーマの体に倒れこみ、彼を病院まで運ぶよう野次馬たちに頼んだ。




 トーマは昏睡している。


「応急手当はしたけど」


 心配そうに少年のそばに付き添う少女に声をかける。その声は、だが、愉しんでいるようだ。


「知ってるかい?あのジジイ、宝を持って行方くらましちまった」


 少女の反応を観察しながら言葉を続ける。


「その坊やに言ってあるんだけど、あんたの治療には水抜きの秘薬って奴を使っちまったのさ。その費用は」


 昨日少年に見せた請求書を少女の目の前に突きつける。金貨3枚。大きく書かれた文字が少女の目に焼き付く。女医を見る。女は芝居がかった仕草で困った振りをしている。


 金貨3枚。これまで何でも屋でコツコツ貯めていたが、まったく足りない。


「まあ、でも」


 女医は酒臭い顔を少女の耳元に近付けた。


「あんたなら客を取れるから、なんとかなるさね」


 心臓がドキンと鳴った。部屋中に響いた気がした。だが、女医には聞こえなかったようだ。


「まあ、早いとこ決めとくれよ」


 そう言って去っていく。


 ネイシアは言葉が出なかった。




 女医は出て行ったが、部屋には彼女を起こした女が残った。入り口の扉のそば、ネイシアとトーマのいる側とは反対側に座っている。その様は彼女を監視しているかのようだ。


 ネイシアは横たわっている少年を見た。痛み止めや睡眠薬を飲まされているのか、身じろぎせずに寝ている。少年を連れて逃げ出すことは無理と思った。一人では・・・。脳裏に浮かぶもう一人の少年はどこかに行ってしまった。


 客。


 女医の言葉を思い出す。それは心臓をきりきりと締め付ける言葉。


 それは孤児である彼女にとって、決して目を背けて済む世界ではない。年上に知り合いは何人もその世界へと行ってしまった。この世界で女が就ける仕事は限られる。特に孤児の身の上でできることは数えるほどしかない。


 彼女にも覚悟めいたものはあった。あったつもりだった。だが、突然に決断を迫られて、その覚悟が覚悟でなかったことを知った。


 目の前の少年を助けるためには、早く決断しなければならない。分かっている。


 でも。


 一度踏み入れば、そこは簡単に引き返すことのできない世界だ。もう以前のような関係は決して築けないだろう。


 ロッカの顔が浮かぶ。もう引き返せないのかな。決断に関わらず、以前のようにはもう戻れないのなら。


 理性では答えは出ている。


 分かっているというのに、心はその答えを否定する。なぜ心は分かってくれないのか。心が無くなれば楽になれるのかな。


「ごめんなさい、トーマ。もう少し時間を」




 午後になって女医が見回りに来た。彼女は何も言わない。少女の苦悶する表情をただ見ただけ。


 見張り役が代わった。同じような太った女だったが。女医が去ったあとも、ネイシアの心は迷宮を彷徨った。


 街なら、彼女が育ったあの世界なら、相談する相手も助けてくれる心当たりもなくはない。でも、ここには誰もいない。ロッカは去った。トーマは意識が戻らない。


 首を振る。


 他人に頼ってはダメだ。それは彼女が孤児であるという自覚であり、誇りにも似た意識だ。年齢は関係ない。人はいつでも最後は一人で生きなければならないのだから。


「う・・・ネル」


 トーマのうわ言が聞こえた。痛みのせいか苦しげに喘いでいる。昏睡状態からは回復したようだが、かえって痛々しく見える。


 ネルか。


 ネイシアのことをネルと呼び始めたのはトーマだった。理由は何度聞いても教えてくれない。いつしかそれが広まり、彼女と親しい人たちはネルと呼ぶようになった。


 お婆さまは別だけど。


 育った家が思い浮かぶ。わずか数日離れただけで懐かしい家。彼女に生まれた家の記憶はない。彼女の家はお婆さまといるあの家だけ。きっと心配しているだろう。誰よりも美しくネイシアと呼んでくれるお婆さま。彼女が引き取られたとき既に高齢だった里親は、最近は外出も一人では覚束なくなっている。もっと一緒にいてあげなくてはならないと思う。心の底ではずっと一緒にいたいと思っている。


 でも、いつか必ず別れのときは来る。それが辛くて、ついお婆さまを残して家を出る。孤児の誇りがお婆さまを悲しませていることも知っている。もっと甘えていいのよ。小さい頃、何度も頭を撫でてもらいながら聞いた言葉を思い出す。


 これ以上お婆さまを悲しませたくない。想いが胸を押し潰すようだ。これまではいつだって彼女は決断できた。頭が良くないのは分かっているが、それでも常に自分の力で決断して生きてきた。それが彼女の誇り。孤児である彼女を支えるもの。顔を上げ、強く生きたいと願う彼女のその生き方が、いま崩れようとしていた。


 苦しむトーマの左手をネイシアは両手で強く握る。彼の体温が伝わってくる。それは励ましているのではなく、励まされる行為だった。






 夜になった。


 女医は来ず、見張りだけが交代した。また太ったおばさん。彼女は、まるで鉄でできたかのようなパンをネイシアに渡した。


 噛み千切るだけで顎が痛くなる。衰弱していた体はようやく元に戻ったと感じている。これからどうするかはまだ分からないが、体力が必要なことは分かっている。固いパンを必死に千切って食べる。いまだ決断はできていない。明日の朝までにはどうにかしたいと思うが、それまでは必死に考えよう。




 眠ることはできないと思い、トーマの横に座って彼の手を握り続ける。その暖かさだけがお互いが生きている証のように感じる。考えは堂々巡りを繰り返す。その何周目かのことだった。


「ネル」


 うわ言でなく、はっきりと意思のある声。それまで続いていた苦しげな喘ぎ声は止まり、意思の力で絞り出すようにトーマが声を出す。


「ネル」


「トーマ」


 二度目の呼び掛けにようやく答えることができた。


「僕の、ことは、いいから」


 一音一音確認しながら発せられた声。両目をしっかりと見開いて告げた。それだけ言うと再び苦痛に顔を歪めて眼を閉じる。


 眼鏡をかけていないトーマの顔を見るのはいつ以来だろう。泳ぐときですらバンドをつけて眼鏡をかけていた。大事にしていた彼の眼鏡はボロボロに壊れていた。


 ネイシアはトーマの言葉よりもその瞳の力を心に刻み込む。わずかに青みがかった彼の瞳は、彼女を包み込むような力を備えていた。


 そう。私がいちばん子供だったね。


 トーマは再び意識のない状態となった。ネイシアは腹を決める。


 子供なんだから、最後まであがいてみる。ダメだったらその時はその時。どうなっても構わない。彼女は決断した。




 港町の地図を思い描く。トーマが元気なら船を奪えばいい。だが、いまは無理だ。ロッカなら馬を扱える。彼もいない。鉄道は運行本数が少なく、駅員が多い。見つからずに乗り込むのは困難だ。港町から出る算段は諦める。


 次にこの病院の周囲。病院が町のどの辺か分からない。では、逃げ込む場所はどうだろう。ここに長居はできない。どこかに隠れてトーマの手当てに専念できれば。しかし、土地勘がない。うろうろしていたらすぐに見つかってしまう。


 閃く。


 依頼者の家。クレストフは町を出て行ったという。なら、彼の家は空き家だ。場所は聞いた。この町の海岸沿い、西の外れ。


 すぐに行動に出る。


 見張りは眠っている。深夜ということが幸いした。とはいえ、見張りのそばの扉から出るのは危険だ。ならば、窓。すぐ近くの窓を見る。内側から開けられる。大きい窓でやや位置が高いことを除けば問題はない。開ける。外は人気がない。


 問題はトーマをどうするかだ。一人でなら余裕で逃げ切れるが、彼を連れて逃げられるのか。しかし、彼を置いていっては意味がない。離れ離れになれば再会するのが難しい。


「ごめんね」


 一声掛けて、彼を抱き上げる。小柄なのでなんとか持ち上げることができた。急いで彼を窓の外へ運ぶ。苦しげな呻き声に心が痛むが、始めてしまったのだ。ほとんど落とすように彼を窓の外へ。そのあと自分も窓から外へ出る。もう見てくれも気にしない。不恰好に窓を乗り越え、トーマを背負う。どちらに行けばいい。周囲を見回しても分からない。空を見上げる。一面の星。以前トーマに教えてもらった方法で、星から方角を知る。ありがとう、トーマ。


 西へ走る。人の気配だけ気を付けながら、必死に走る。やっと町外れにたどり着いた。ここからは遮るものがない。トーマを背負って全力疾走する。


 幸い人の気配のないまま小さな小屋にたどり着いた。ここがあの老人の住処だったところ。小さな窓があり、中の気配を窺うが、何も感じられない。そこからではとても入れないので、表の扉へと進む。


 息が切れている。呼吸を整え、扉のノブを引く。すっと開く。鍵が掛かっていない。あの男は鍵も掛けずに逃げ出したのかとちょっと笑ってしまう。中に入ってようやく安堵した。まさに、その時。


「誰だ!」


 心臓が止まった。間違いない。余りに驚いて声も出ない。どさっと音がする。背負っていたトーマを落としていた。


「ネル」


 暗闇から発せられた声は、決して忘れることのない声。顔は全く見えない。


「なんだってこんなところへ」


 ロッカの驚いた声を聞いて、ようやく安心する。月明かりがわずかに差し込み、ロッカからは二人の姿が見えているようだ。


「逃げ出してきたわ。ロッカこそどうして」


「ほら、中に入って」


 ネイシアの声を遮り、ロッカが近付いてきた。彼は倒れている少年を軽々と抱きかかえる。


 三人は狭い部屋に入る。ロッカは大事そうに少年を唯一つのベッドに寝かせる。ネイシアとロッカは並んで立ち、少年を見下ろしている。


「何もできなかったのは、俺も一緒なのにな」


 ロッカの声に怒りは感じられない。表情は暗くて見えない。


「自分で自分を責めていたはずなのに、そんなことにも気付けなかった。


 こいつは一度もよけることさえしなかったのに」


 囁くような声。彼の肩にそっと手を置く。その肩は小刻みに震えていた。ロッカはしゃがみこんだ。


「あれからあのジジイが逃げ出したって聞いて探し回ってた。


 エウネッカの街で見つけて、報酬をふんだくって来た。俺にできるのは、そんなことだけだから。


 でも、どんな顔でお前らに会えばいいか分からなくて、ここで隠れてた」


 それは叱られた子供が言い訳しているような声。トーマに懺悔するように膝を付き頭を垂れる。ネイシアは子供をあやすように、彼の頭を抱きしめる。ロッカの口から嗚咽が漏れる。


「三人で、街へ、私たちの故郷へ帰りましょう」






 朝が来た。


 今日も快晴。


 ロッカが依頼人から受け取ってきた金をネイシアに渡した。金貨10枚。それでもロッカは、宝の価値には遠く及ばないと嘆いていた。


 それを持って病院に戻る。女医は彼女の再訪を驚きもせずに迎えた。逃げ出したことを責めることもなく、ただ笑顔で金貨3枚を受け取った。


 サービスと称してトーマにいろんな薬を飲ませたり貼ったりする。街に帰る頃には元気になってるわ、と怪しげに笑う。まったく信用できないわとネイシアが返す。


 ロッカはここ二日間酷使した馬を売り払った。借りた馬の代金はそれだけでは足りないだろうから報酬から払うと言ったが、ロッカは断った。あれはキチンと働いて返さなきゃ気が済まねえから、と笑って言った。


 なので、帰りは三人で鉄道に乗る。


 女医の手当てが効いたのか、車中でトーマが意識を取り戻した。ロッカの心からの謝罪に、トーマは気にしてないよと笑って答えた。街に戻ったらそんなトーマのために眼鏡を買ってあげなくては。




 日々は移り変わる。昨日と同じ今日は訪れない。明日も今日とは違うだろう。あの楽しい日常が同じように訪れる保障はない。


 でも。


 昨日より、もっと素敵な今日にすればいい。ただそれだけのことだ。






 






Fin




見た夢をそのまま小説化しました。

なので、テーマとか設定とかはルーズです。

それでも彼らの感じたものを少しでも共感してもらえれば最高です。

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