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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
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正体不明の仮面の聖女に乗り換えると婚約破棄されましたが、その仮面の聖女様の正体は私ですよ

作者: 桜木ひより
掲載日:2026/10/19

「……せいじょ、さま?」


熱に浮かされた小さな声が、私の仮面の内側までまっすぐ届いた。


貧民街のいちばん奥、雨漏りのする長屋の一室。

藁を敷いただけの寝床で、まだ幼い男の子が真っ赤な顔をして、浅い息をくり返している。


「ええ。もう大丈夫よ」


声が震えないように、お腹に力を入れた。


本当は、少しも大丈夫じゃない。


額に触れた指先が、火傷しそうなほど熱い。

この熱がもう何日も続いているのだと、母親が泣きながら言っていた。


教会へは連れて行けなかったという。治癒の寄進が、払えないから。


私は男の子の額に、そっと両手を重ねた。


息を吸う。

胸の奥から温かいものが湧いて、腕を伝い、指先へ流れていく。


手のひらに、淡いすみれ色の光が灯った。


光は男の子の額に沁みこむように広がって、真っ赤だった頬から、ゆっくりと熱の色が引いていく。

荒かった息が、少しずつ、少しずつ、穏やかになる。


やがて男の子は、すう、と寝息を立てはじめた。


「ああ……っ」


母親が床に崩れ落ちて、私の外套の裾にすがった。


「ありがとうございます、ありがとうございます、聖女さま……!」


その手の温かさに、喉の奥がきゅっと詰まった。


私は、聖女なんかじゃない。

許しのない治癒をこっそり施している、ただの罪人だ。


でも、それは言わない。

言えば、この人を困らせるだけだから。


「……そろそろだ」


戸口から、低い声がした。


路地の暗がりを見張っていた大柄な男が、振り返らずに言う。


王都警備隊の隊長、カイ。

警備隊の外套を脱いで、町の男みたいな格好をしている。


夜ごとの私の護衛で、この白い仮面の下の顔を知っている、ただ一人の他人だ。



夜明け前の路地を、カイの背中を追って歩く。

石畳に響く足音は二人ぶん。遠くで、野良犬が一度だけ吠えた。


この国では、治癒は神の御業とされている。

施していいのは、教会の許しを得た治癒官だけ。

そして教会の治癒には、庶民の稼ぎの何か月分もの寄進が要る。


許しのない治癒は、異端だ。

見つかれば修道院の奥へ閉じこめられ、家は爵位を剥がされる。


仮面の紐を結ぶたびに、指先が震えるのはそのせいだ。


「……今夜も、ありがとう」


公爵家の裏門の前で、私は小さく頭を下げた。

カイは、ぶっきらぼうに顎をしゃくっただけだった。


「早く寝ろ。どうせ昼間も、誰かを叱りとばすんだろ」


「叱られるようなことをする方が悪いのよ」


むっとして言い返すと、彼の口の端が、ほんの少しだけ上がった気がした。


裏門の鉄の取っ手を、そっと押す。

鍵は、今夜も開いていた。


誰が開けているのか、私は知っている。

知っているけれど、一度も聞いたことはない。


父は、私に治癒の力を決して使うなと言った人だ。



私の名前は、イリス・アシュフォード。


昼の私は公爵令嬢で、王太子フェリクス殿下の婚約者で、王宮でいちばん嫌われている女だ。


きつく結い上げた黒髪に、笑っても冷たく見える目元。

悪役にはおあつらえ向きの顔だと、陰で言われている。


「こちらの陳情は、お受けできません」


王太子執務室の控えの間で、私は書類を突き返した。


目の前の子爵が、顔を赤黒くした。


「イリス嬢、これは殿下もご承知の話でして……」


書類の下から、子爵がさりげなく小さな革袋を滑らせてきた。

中で、硬貨がじゃらりと鳴る。


「こちらも、お返しいたしますわ」


私は革袋を、指先で押し返した。



「貧民街の救済費を削って、殿下の狩猟小屋の改築に回す。そういう陳情ですわね」


私は書類の一行を、指で叩いた。


「そのうえ、この見積もり。相場の倍ですわ。差額は、どなたの懐へ入るのかしら」


子爵の喉が、ぐっと鳴った。


控えの間にいた貴族たちが、ひそひそと囁きあう。

冷たい女。可愛げのない。


聞こえないふりをして、次の書類に手を伸ばした。

突き返した陳情は、一枚残らず写しを取って棚にしまってある。

いつか、誰かが読むかもしれないから。


本当は、慣れてなんかいない。

陰口が耳に入るたびに、胸の奥が小さく軋む。でも、それで救済費が守れるなら安いものだ。


その救済費がなくなれば、昨夜の男の子みたいな子が、もっと増える。


「また人の楽しみを邪魔しているのか、イリス」


扉が開いて、取り巻きを連れたフェリクス殿下が入ってきた。


金の巻き毛に、退屈そうな青い目。

狩りの装いのまま、机に積まれた書類の山には一瞥もくれない。


「殿下。こちらの決裁を、今日中にお願いいたします」


「お前がやっておけ。どうせ、俺が見ても同じことを言うんだろう?」


殿下はあくびをして、取り巻きたちと笑った。


公務の書類を回しているのは、ずっと私だ。

殿下がなさるのは、最後に名前を書くことだけ。



「そういえば、聞いたか」


殿下が、楽しげに取り巻きを振り返った。


「貧民街に、仮面の聖女とやらが出るらしい。ただで病を治して、民から神のように慕われているそうだ」


心臓が、どくんと跳ねた。

書類をめくる指が止まりそうになるのを、必死でこらえる。


「民に愛される聖女こそ、王妃の器だと思わないか。少なくとも」


殿下の目が、ちらりと私を見た。


「人の楽しみに水を差すしか能のない女よりは、ずっとな」


取り巻きたちが、どっと笑った。

私は顔を上げなかった。上げたら、何かがこぼれてしまいそうだった。



「……フェリクス」


廊下から、低い声がした。


いつの間にか、国王陛下が控えの間の入り口に立っておられた。

灰色の髭の奥で、疲れたような目をしている。


「狩りの前に、イリス嬢が整えた書類くらい読んでおけ」


「はいはい、父上」


殿下は、肩をすくめただけだった。

陛下は小さくため息をつくと、私に軽く目礼して去っていかれた。



仮面の聖女が王宮に現れたのは、それからまもなくのことだった。


「わたくしが、噂の仮面の聖女でございます」


王宮の中庭で、伯爵令嬢ロザリンドがそう名乗った。


亜麻色の髪に、白いドレス。

胸に抱えているのは、噂に聞く白い仮面だ。


殿下の指先には、薔薇の棘で引っかいた小さな傷があった。

ロザリンドがそこに手をかざすと、白い光がふわりと灯って、傷はすうっと塞がった。


中庭に、感嘆の声が広がった。


「見事だ!」


殿下が、子どものように目を輝かせた。


ロザリンドは、教会の見習い治癒官だ。

伯爵家が教会にたっぷりと寄進をして、令嬢の箔付けに許しを買ったのだと、社交界ではよく知られている。


切り傷が塞がる程度の、ささやかな力。


それでも、彼女には教会の許しがある。


許しのある治癒官が、ただで治癒をしていたと名乗り出ても、教会の規則違反として罰金で済む。


許しのない私が名乗れば、異端。

許しのある彼女が名乗れば、美談。


違う、と言いたかった。言葉が、喉もとまでせり上がってきた。


あなたは貧民街の長屋の、雨漏りの音を知らない。


でも、それを言えば終わる。私も、父も、公爵家も。


扇を握りしめた。骨が、きしりと鳴った。


「イリス」

殿下が、ロザリンドの肩を抱いたまま振り返った。


「春の夜会を楽しみにしていろ。皆の前で、はっきりさせてやる」


何を、とは聞かなかった。聞かなくても、わかった。



その夜、貧民街へ向かう路地で、カイが足を止めた。


「……中庭の話、聞いたぞ」


彼の拳が、白くなるほど握られていた。


「あの女が、あんたの名前を名乗ってるそうだ」


「名前なんて、最初からないもの」


仮面の紐を結びながら、私は笑ってみせた。


「仮面の聖女は、仮面の聖女よ。誰がそう名乗ったって、貧民街を助けることはできないわ」



その夜は、手に大きく火傷を負った女の子を治した。


ミアという名の、痩せた子だった。

王宮の厨房で皿洗いをしていて、煮え湯をかぶったのだという。

厨房付きの治癒官は、皿洗いのためには動いてくれなかった。


すみれ色の光が赤く腫れた手を包むと、ミアは目をまんまるにした。


「きれい……聖女さまの光、すみれの色なんだね」


ミアは、私の仮面の端に刺したすみれの刺繍を指さした。


「お揃いだ」


「ふふ。そうね」


「あたしね、今度の春の夜会で、給仕に出るんだよ。王宮の、いちばん大きな広間で」


ミアは、誇らしげに胸を張った。


「聖女さまのこと、ぜったい誰にも言わないから」



帰り道、私は泣いた。


最初は、自分でも気づかなかった。仮面の内側が、いつの間にか濡れていた。


拭おうとして仮面に手をかけ、ここが路地だと思い出して手を下ろす。

そのあいだにも、涙はぽろぽろとこぼれて、顎の先から落ちていった。


悔しかった。


名前なんてどうでもいい、と言ったのは本当だ。


でも、殿下に「水を差すしか能のない女」と笑われた私と、殿下が肩を抱き寄せた聖女が、本当は同じ人間だなんて、誰も知らない。

これからも、ずっと知らないままだ。


それが、思っていたよりずっと痛かった。


ばさりと、肩に重いものがかかった。


カイの外套だった。煙と、夜の冷たい空気の匂いがした。


「……泣くなとは言わない」


彼は、前を向いたまま言った。


「ネルの熱が下がった夜も、あんたは仮面の下で泣いてた。聖女ってのは、もっと偉そうなもんだと思ってた」


出会った夜、私は彼に手首をつかまれた。

許しのない治癒を施す怪しい女として、捕まる寸前だった。


あの夜、彼の家では、妹のネルが熱で死にかけていた。

私がネルを治すのを見届けると、カイは黙って手首を放した。


そして次の夜から、何も言わずに路地の入り口に立つようになった。


「……幻滅した?」


「いや」


カイは少し黙ってから、ぼそりと続けた。


「あれで、俺はあんたの護衛をやろうと決めたんだ」


外套の襟をつかんだ指に、力がこもった。

私は襟に顔を埋めた。煙の匂いを、もう少しだけ吸っていたかった。


どうして夜の街に出るのか、私はその夜、カイに話した。



幼い頃、大聖堂の門前で、寄進を払えずに追い返された女の子を見たこと。

門の鉄柵をつかんだまま、その小さな手が冷たくなっていったこと。



私の母も、治癒の力を持っていたこと。

教会に召し上げられ、寄進を積んだ貴族たちを治し続けて、祈りの形のまま指先をすり切らせて、私がまだ幼いうちに亡くなったこと。


強い癒し手ほど、教会は手放さない。

許しを願い出れば、私も母と同じ道をたどることになるだろう。


カイは、最後まで黙って聞いていた。


裏門で別れる前に、彼は一度だけ、私の頭にぎこちなく手を置いた。

大きくて、硬くて、でも大きい手だった。



屋敷の暗い廊下に、明かりがひとつ灯っていた。


燭台を手に、父が立っていた。


心臓が止まりかけた。

外套の下で、仮面を握った手がすっと冷たくなる。


父は、私の泣き腫らした目と、肩にかかった男物の外套を見た。

それから、何も聞かずに言った。


「冷えただろう。厨房に、温かいものを用意させてある」



「……どこまで、ご存じなのですか」


父は、しばらく黙っていた。燭台の炎が、皺の深くなった頬を揺らしていた。


「母さんの手も、同じ色に光っていた」


それだけ言って、父は背を向けた。


「それから…春の夜会には、私も出よう」


遠ざかっていく背中が、いつもより小さく見えた。


使うなと言ったのは、守るためだったのだろう。

鍵を開けておいてくれたのも、きっと同じ理由だ。


私は外套を胸に抱いたまま、しばらくその場から動けなかった。




春の夜会の広間は、蝋燭の光で昼より明るかった。

磨きあげられた床。楽団の音色と、香水と、焼き菓子の甘い匂い。


ドレスの隠しには、今夜も白い仮面が入っている。

屋敷に置いて侍女に見つかるより、肌身につけているほうが、まだ怖くなかった。


壁際には、宮廷付きの治癒官が法衣姿で控えている。

貴族が転んで擦りむいても、寄進さえ払えば、すぐに治してもらえるように。


扉の脇には、警備に駆り出された王都警備隊の兵士たちが並んでいた。その中に、カイの姿もあった。


盆を抱えて広間を行き来する給仕たちの中に、ミアの小さな姿を見つけて、私は少しだけ笑った。


殿下が、広間の中央の壇に上がった。

隣には、白い仮面を胸に抱いたロザリンドが立っている。


「皆、聞いてくれ」


楽団が、音を止めた。


「私、フェリクスは、今宵かぎりで、イリス・アシュフォードとの婚約を破棄する」


ざわめきが、広間をひと回りした。


「この女は、民の救済を口実に陳情を突き返し、貴族の楽しみに水を差すことしか知らぬ冷血な女だ。王妃にはふさわしくない」


殿下の指が、まっすぐ私を指した。


「私が妃に迎えるのは、民を癒やす慈悲の聖女。仮面の聖女、ロザリンドだ!」


拍手が起こった。最初はまばらに、やがて広間じゅうに。


玉座の陛下だけが手を打たず、じっと息子を見下ろしていた。


視界の端で、父が一歩踏み出しかけた。


私は、そっと首を横に振った。

父の足が止まる。唇を引き結んだ顔が、怒りで白くなっていた。


いいのです、お父様。

この人と結婚せずに済むのなら、悪役令嬢の名前くらい、いくらでも差し上げます。


明日から、救済費の書類は誰が見るのだろう。

それだけが、少し気がかりだった。


私はドレスの裾をつまんで、静かに一礼した。


「謹んで、承りました」


壇上のロザリンドが、勝ち誇ったように微笑んだ。


「聖女に乾杯だ!」


殿下の取り巻きたちが、杯を掲げて壇の前へ押し寄せた。

酔って肩をぶつけあった拍子に、壇の脇の背の高い銀の燭台が、ぐらりと傾いた。


その下に、盆を抱えた小さな給仕がいた。


悲鳴と、金属が床を打つ音が重なった。


燭台の下から、赤いものが広がっていく。


「……ミア」


声にならない声が、唇から漏れた。


倒れていたのは、ミアだった。

燭台の飾り金具に裂かれた首筋から、血があふれて止まらない。小さな体が、ひくひくと引きつっている。


「聖女よ!」


殿下が、ロザリンドの背中を押した。


「皆に奇跡を見せてやれ。ちょうどいい」


ちょうどいい。


その一言に、指先がすっと冷えた。


ロザリンドは青ざめた顔で膝をつき、ミアの傷に手をかざした。

白い光が、ふわりと灯る。


けれど光は、傷の上で頼りなく揺れるだけだった。血は、少しも止まらない。


「こ、こんな……こんな大きな傷、わたくしには……」


ロザリンドの手が震えて、光はしぼむように消えた。


広間が、ざわついた。


「治癒官!」


誰かが叫んだ。

壁際の治癒官が、法衣の裾を払って、ゆっくりと進み出る。


そして、ミアを見下ろして言った。


「寄進なき治癒は、いたしかねます」


耳を疑った。


治癒官は、血だまりから法衣の裾を引いて続けた。


「……もっとも、これほどの傷。寄進を積まれたところで、私の手には負えませぬが」


「たかが給仕だ」


殿下が、うんざりしたように手を振った。


「はあ……それを下げろ。せっかくの夜会が台無しだ」


誰も、動かなかった。


ただ一人、扉の脇から駆けつけた男が、ミアの傍らに膝をついて、両手で首筋の傷を押さえた。

指の間から、血があふれ出している。


カイだった。


彼が、顔を上げた。


目が合った。


助けてくれ、とは言わなかった。

言えば私がどうなるか、彼がいちばんよく知っているから。


ただ、その目が、ほんの一瞬だけ揺れた。


足が、震えていた。



ここで治せば、異端と呼ばれ、修道院の奥に閉じこめられる。

公爵家は爵位を剥がされる。父は、すべてを失う。


それなのに、ミアの唇から漏れる息の音が聞こえた。

ひゅう、ひゅう、と。だんだん、細くなっていく。


大聖堂の門前で冷たくなっていった、あの女の子の手が頭をよぎった。




お父様、ごめんなさい。


振り返ると、父がこちらを見ていた。


父は、ゆっくりとうなずいた。


視界が、涙でにじんだ。


私は、ドレスの隠しから白い仮面を取り出した。


端の菫の刺繍が、蝋燭の光を受けて、かすかに光る。


ミアのもとへ歩きながら、通りがかりの卓に、仮面をそっと置いた。


ドレスの裾を血だまりに沈めて膝をつき、カイの手の上から、ミアの首筋に両手を重ねる。


息を吸う。

胸の奥から、温かいものがあふれ出した。


すみれ色の光が、広間を染めた。


光はミアの傷に流れこみ、裂けた肌を内側から縫い合わせるように塞いでいく。血が止まる。真っ白だった頬に、少しずつ赤みが戻ってくる。


ミアの睫毛が、かすかに動いた。


ゆっくりと開いた目が、私を見上げた。


「……せいじょ、さま」


広間が、凍りついた。


誰も、息をする音さえ立てなかった。


その静けさを破ったのは、盆を抱えたまま立ちすくんでいた、年配の給仕だった。


「……わたしも」


震える声だった。


「わたしの孫の熱も、そのすみれ色の光で……」


「俺の母ちゃんの足もだ」


厨房の入り口から、若い料理人が前に出た。


「うちの子の咳も!」


一人、また一人。給仕が、下働きの娘が、警備の兵士が、広間の隅から前へ出てくる。

皆、貧民街から王宮へ働きに来ている人たちだった。


「仮面の聖女様の光は、すみれの色だ」


誰かが言った。


「そいつの弱ぇえ白い光じゃねえ」


広間じゅうの目が、血だまりの脇で立ちすくむロザリンドに向いた。

正確には、彼女が握りしめている白い仮面に。


卓の上の仮面には、菫の刺繍がある。彼女の仮面には、それがなかった。


ロザリンドの顔から、血の気が引いていった。

手から滑り落ちた仮面が、床で乾いた音を立てる。


「ロザリンド嬢……」


玉座を立った陛下が、静かに呼びかけた。


「そなたは、貧民街の長屋に足を踏み入れたことがあるか」


ロザリンドの唇が、色を失ってわなないた。


「……ございません」


消え入るような声だった。


「イリス!」


殿下が、壇を駆け下りてきた。

さっきまでの不機嫌はどこへやら、満面の笑みを浮かべている。


「なんだ、お前だったのか! ならば話は早い。婚約破棄は取り消しだ。お前が聖女なら、王妃にふさわしい」


殿下の手が、私の手を取ろうと伸びてくる。


私は、その手を見下ろした。




「殿下は、仮面の聖女を妃に迎えるとおっしゃいましたね。ええ、その正体は……間違いなく、わたくしです」


殿下の顔が、ぱっと明るくなった。


「――ですが、婚約はもう解消させていただきます」


自分でも驚くほど、静かな声が出た。


「殿下は、この子が血を流して倒れていたとき、眉ひとつ動かさずに、夜会が台無しだとおっしゃいましたよね」


殿下の笑みが、固まった。


「わたくしは貴方が言う、悪役令嬢で結構です。婚約は、殿下のおっしゃったとおり、破棄のままで結構です。民のことを無下に扱う方とは、一緒にいれませんから」


広間のどこかで、誰かが小さく吹き出した。

笑いは押し殺されて、それでも、さざ波のように広がっていった。殿下の耳が、みるみる赤く染まっていく。


「い、異端だ!」


治癒官が、我に返ったように叫んだ。


「許しなき治癒は、神への冒涜!警備隊、その女を捕らえよ!」


兵士たちが、ためらいがちに顔を見合わせた。


カイが、立ち上がった。

血に濡れた手で腰の剣を外し、床に置く。


「その命令は、聞けません」


低く、はっきりした声だった。


「この人を連れて行くなら、先に俺を連れて行ってください」


カイの前に、もう一つの背中が立ちはだかった。


それは、父だった。


「ああ……娘を連れて行くというのなら、アシュフォード公爵家ごと連れて行くがいい」


父の声が、広間の高い天井に響いた。


「――そこまでだ」


陛下の声が、すべてを止めた。


陛下はミアの傍らまでゆっくりと歩いてくると、血だまりと、すみれ色の光の名残と、卓の上の白い仮面を、順に見つめた。


「治癒官。そなたは、死にかけた娘を前に、寄進の話をしたな」


治癒官が、ひっと喉を鳴らした。


「これ以上好きにさせるつもりはない。今日限りで宮廷付きの任を解く。教会へは、余から話をしよう」


それから陛下は、床に座りこんだロザリンドに目を向けた。


「伯爵令嬢ロザリンド。聖女を騙り、王家を欺いた罪は軽くない。貧民街の施療所で、見習い治癒官として奉仕せよ。そなたが一度も足を踏み入れなかった場所で、その白い光でも塞げる傷を、ひとつずつ塞いでくるがいい」


ロザリンドは、両手で顔を覆って泣き出した。


「陛下」


私は、一歩前に出た。


「殿下の名で回ってきた陳情の写しは、突き返したものも含めて、すべて棚に残してございます。救済費がどこへ流れるはずだったのか、どうかお確かめくださいませ」


取り巻きの中で、あの子爵が真っ青になってよろめいた。

棚の奥で眠っていた写しを、ようやく誰かが読む。


「そして、フェリクス」


殿下の肩が、びくりと跳ねた。


「救済費を削って狩猟小屋に回させ、詐称者を確かめもせずに担ぎ上げ、目の前で血を流す民を、たかが給仕と言い捨てた……」


「ち、父上お待ちください、たかが給仕ひとりのことで――」


言いかけて、殿下は自分の口を押さえた。


もう、遅かった。

陛下の声は、静かで冷たかった。


「……民の血より夜会の飾りを惜しむ者に、王冠は渡せぬ。本日をもって、そなたの王位継承権を剥奪することとする」


誰ひとり、殿下に手を差し伸べなかった。

さっきまで殿下と杯をぶつけあっていた取り巻きたちでさえ、目を逸らして後ずさった。


陛下は最後に、私に向き直った。


「イリス・アシュフォード」


私は、両手を前にそろえた。

異端の裁きなら、受ける覚悟はできていた。


「王の名において、そなたの治癒を許そう」



「えっ?」


一瞬、何を言われたのかわからなかった。


「教会の許しなど、待ってはおれん。王都に、寄進のいらぬ施療院を建てる。……そなたに、預けたい」


膝から、力が抜けた。

床に崩れ落ちる前に、背中を支える腕があった。

その手は、血と煙の匂いのする、大きな手。


カイだった。


「……よく、やった」


耳もとで、彼が言った。

こらえていた涙が、一気にあふれ出した。




王立施療院の扉が開いた朝、門の前には長い列ができていた。


継ぎの当たった服の人たち。咳をする子どもを抱いた母親。杖をついた老人。

列の中ほどで、首筋にうっすらと白い痕の残るミアが、ちぎれそうなほど手を振っていた。


私はもう、仮面をつけていない。


貧民街の施療所からは、ときどき噂が聞こえてくる。

白い光の見習い治癒官が、毎日べそをかきながら、それでも子どもたちの擦り傷を塞いで回っているらしい。


元王太子殿下は、王都の外れの離宮で、誰にも会わずに暮らしているという。



その夜、最後の患者を見送って施療院を出ると、門の脇にカイが立っていた。


警備隊の外套のまま、いつものように、路地の暗がりを背にして。


「もう、護衛はいらないのよ」


「ああ、知ってる」


カイは、少し黙った。


「仮面のあんたも、仮面を取ったあんたも、ずっと見てた。……これからも、見ていたいんだ、駄目か?」


ぶっきらぼうな声の最後が、ほんの少しだけかすれていた。


頬が熱い。

隠す仮面がないことを、生まれて初めて心細く思った。


公爵令嬢と、警備隊長。

私たちのあいだには、まだ何ひとつ片づいていない。それでも、もう怖くはなかった。


「……送ってくださる? 屋敷まで」


カイが、照れくさそうに顎をしゃくった。


並んで歩き出すとき、私は自分から、その大きな手を取った。


公爵家の裏門の前で、二人並んで立ち止まる。


裏門の鉄の取っ手を、そっと押す。

鍵は、今夜も開いていた。


明日の朝、父に話そう。この人のことを。


きっと父は、何も聞かずにうなずくのだろう。



【終】

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