正体不明の仮面の聖女に乗り換えると婚約破棄されましたが、その仮面の聖女様の正体は私ですよ
「……せいじょ、さま?」
熱に浮かされた小さな声が、私の仮面の内側までまっすぐ届いた。
貧民街のいちばん奥、雨漏りのする長屋の一室。
藁を敷いただけの寝床で、まだ幼い男の子が真っ赤な顔をして、浅い息をくり返している。
「ええ。もう大丈夫よ」
声が震えないように、お腹に力を入れた。
本当は、少しも大丈夫じゃない。
額に触れた指先が、火傷しそうなほど熱い。
この熱がもう何日も続いているのだと、母親が泣きながら言っていた。
教会へは連れて行けなかったという。治癒の寄進が、払えないから。
私は男の子の額に、そっと両手を重ねた。
息を吸う。
胸の奥から温かいものが湧いて、腕を伝い、指先へ流れていく。
手のひらに、淡いすみれ色の光が灯った。
光は男の子の額に沁みこむように広がって、真っ赤だった頬から、ゆっくりと熱の色が引いていく。
荒かった息が、少しずつ、少しずつ、穏やかになる。
やがて男の子は、すう、と寝息を立てはじめた。
「ああ……っ」
母親が床に崩れ落ちて、私の外套の裾にすがった。
「ありがとうございます、ありがとうございます、聖女さま……!」
その手の温かさに、喉の奥がきゅっと詰まった。
私は、聖女なんかじゃない。
許しのない治癒をこっそり施している、ただの罪人だ。
でも、それは言わない。
言えば、この人を困らせるだけだから。
「……そろそろだ」
戸口から、低い声がした。
路地の暗がりを見張っていた大柄な男が、振り返らずに言う。
王都警備隊の隊長、カイ。
警備隊の外套を脱いで、町の男みたいな格好をしている。
夜ごとの私の護衛で、この白い仮面の下の顔を知っている、ただ一人の他人だ。
夜明け前の路地を、カイの背中を追って歩く。
石畳に響く足音は二人ぶん。遠くで、野良犬が一度だけ吠えた。
この国では、治癒は神の御業とされている。
施していいのは、教会の許しを得た治癒官だけ。
そして教会の治癒には、庶民の稼ぎの何か月分もの寄進が要る。
許しのない治癒は、異端だ。
見つかれば修道院の奥へ閉じこめられ、家は爵位を剥がされる。
仮面の紐を結ぶたびに、指先が震えるのはそのせいだ。
「……今夜も、ありがとう」
公爵家の裏門の前で、私は小さく頭を下げた。
カイは、ぶっきらぼうに顎をしゃくっただけだった。
「早く寝ろ。どうせ昼間も、誰かを叱りとばすんだろ」
「叱られるようなことをする方が悪いのよ」
むっとして言い返すと、彼の口の端が、ほんの少しだけ上がった気がした。
裏門の鉄の取っ手を、そっと押す。
鍵は、今夜も開いていた。
誰が開けているのか、私は知っている。
知っているけれど、一度も聞いたことはない。
父は、私に治癒の力を決して使うなと言った人だ。
私の名前は、イリス・アシュフォード。
昼の私は公爵令嬢で、王太子フェリクス殿下の婚約者で、王宮でいちばん嫌われている女だ。
きつく結い上げた黒髪に、笑っても冷たく見える目元。
悪役にはおあつらえ向きの顔だと、陰で言われている。
「こちらの陳情は、お受けできません」
王太子執務室の控えの間で、私は書類を突き返した。
目の前の子爵が、顔を赤黒くした。
「イリス嬢、これは殿下もご承知の話でして……」
書類の下から、子爵がさりげなく小さな革袋を滑らせてきた。
中で、硬貨がじゃらりと鳴る。
「こちらも、お返しいたしますわ」
私は革袋を、指先で押し返した。
「貧民街の救済費を削って、殿下の狩猟小屋の改築に回す。そういう陳情ですわね」
私は書類の一行を、指で叩いた。
「そのうえ、この見積もり。相場の倍ですわ。差額は、どなたの懐へ入るのかしら」
子爵の喉が、ぐっと鳴った。
控えの間にいた貴族たちが、ひそひそと囁きあう。
冷たい女。可愛げのない。
聞こえないふりをして、次の書類に手を伸ばした。
突き返した陳情は、一枚残らず写しを取って棚にしまってある。
いつか、誰かが読むかもしれないから。
本当は、慣れてなんかいない。
陰口が耳に入るたびに、胸の奥が小さく軋む。でも、それで救済費が守れるなら安いものだ。
その救済費がなくなれば、昨夜の男の子みたいな子が、もっと増える。
「また人の楽しみを邪魔しているのか、イリス」
扉が開いて、取り巻きを連れたフェリクス殿下が入ってきた。
金の巻き毛に、退屈そうな青い目。
狩りの装いのまま、机に積まれた書類の山には一瞥もくれない。
「殿下。こちらの決裁を、今日中にお願いいたします」
「お前がやっておけ。どうせ、俺が見ても同じことを言うんだろう?」
殿下はあくびをして、取り巻きたちと笑った。
公務の書類を回しているのは、ずっと私だ。
殿下がなさるのは、最後に名前を書くことだけ。
「そういえば、聞いたか」
殿下が、楽しげに取り巻きを振り返った。
「貧民街に、仮面の聖女とやらが出るらしい。ただで病を治して、民から神のように慕われているそうだ」
心臓が、どくんと跳ねた。
書類をめくる指が止まりそうになるのを、必死でこらえる。
「民に愛される聖女こそ、王妃の器だと思わないか。少なくとも」
殿下の目が、ちらりと私を見た。
「人の楽しみに水を差すしか能のない女よりは、ずっとな」
取り巻きたちが、どっと笑った。
私は顔を上げなかった。上げたら、何かがこぼれてしまいそうだった。
「……フェリクス」
廊下から、低い声がした。
いつの間にか、国王陛下が控えの間の入り口に立っておられた。
灰色の髭の奥で、疲れたような目をしている。
「狩りの前に、イリス嬢が整えた書類くらい読んでおけ」
「はいはい、父上」
殿下は、肩をすくめただけだった。
陛下は小さくため息をつくと、私に軽く目礼して去っていかれた。
仮面の聖女が王宮に現れたのは、それからまもなくのことだった。
「わたくしが、噂の仮面の聖女でございます」
王宮の中庭で、伯爵令嬢ロザリンドがそう名乗った。
亜麻色の髪に、白いドレス。
胸に抱えているのは、噂に聞く白い仮面だ。
殿下の指先には、薔薇の棘で引っかいた小さな傷があった。
ロザリンドがそこに手をかざすと、白い光がふわりと灯って、傷はすうっと塞がった。
中庭に、感嘆の声が広がった。
「見事だ!」
殿下が、子どものように目を輝かせた。
ロザリンドは、教会の見習い治癒官だ。
伯爵家が教会にたっぷりと寄進をして、令嬢の箔付けに許しを買ったのだと、社交界ではよく知られている。
切り傷が塞がる程度の、ささやかな力。
それでも、彼女には教会の許しがある。
許しのある治癒官が、ただで治癒をしていたと名乗り出ても、教会の規則違反として罰金で済む。
許しのない私が名乗れば、異端。
許しのある彼女が名乗れば、美談。
違う、と言いたかった。言葉が、喉もとまでせり上がってきた。
あなたは貧民街の長屋の、雨漏りの音を知らない。
でも、それを言えば終わる。私も、父も、公爵家も。
扇を握りしめた。骨が、きしりと鳴った。
「イリス」
殿下が、ロザリンドの肩を抱いたまま振り返った。
「春の夜会を楽しみにしていろ。皆の前で、はっきりさせてやる」
何を、とは聞かなかった。聞かなくても、わかった。
その夜、貧民街へ向かう路地で、カイが足を止めた。
「……中庭の話、聞いたぞ」
彼の拳が、白くなるほど握られていた。
「あの女が、あんたの名前を名乗ってるそうだ」
「名前なんて、最初からないもの」
仮面の紐を結びながら、私は笑ってみせた。
「仮面の聖女は、仮面の聖女よ。誰がそう名乗ったって、貧民街を助けることはできないわ」
その夜は、手に大きく火傷を負った女の子を治した。
ミアという名の、痩せた子だった。
王宮の厨房で皿洗いをしていて、煮え湯をかぶったのだという。
厨房付きの治癒官は、皿洗いのためには動いてくれなかった。
すみれ色の光が赤く腫れた手を包むと、ミアは目をまんまるにした。
「きれい……聖女さまの光、すみれの色なんだね」
ミアは、私の仮面の端に刺したすみれの刺繍を指さした。
「お揃いだ」
「ふふ。そうね」
「あたしね、今度の春の夜会で、給仕に出るんだよ。王宮の、いちばん大きな広間で」
ミアは、誇らしげに胸を張った。
「聖女さまのこと、ぜったい誰にも言わないから」
帰り道、私は泣いた。
最初は、自分でも気づかなかった。仮面の内側が、いつの間にか濡れていた。
拭おうとして仮面に手をかけ、ここが路地だと思い出して手を下ろす。
そのあいだにも、涙はぽろぽろとこぼれて、顎の先から落ちていった。
悔しかった。
名前なんてどうでもいい、と言ったのは本当だ。
でも、殿下に「水を差すしか能のない女」と笑われた私と、殿下が肩を抱き寄せた聖女が、本当は同じ人間だなんて、誰も知らない。
これからも、ずっと知らないままだ。
それが、思っていたよりずっと痛かった。
ばさりと、肩に重いものがかかった。
カイの外套だった。煙と、夜の冷たい空気の匂いがした。
「……泣くなとは言わない」
彼は、前を向いたまま言った。
「ネルの熱が下がった夜も、あんたは仮面の下で泣いてた。聖女ってのは、もっと偉そうなもんだと思ってた」
出会った夜、私は彼に手首をつかまれた。
許しのない治癒を施す怪しい女として、捕まる寸前だった。
あの夜、彼の家では、妹のネルが熱で死にかけていた。
私がネルを治すのを見届けると、カイは黙って手首を放した。
そして次の夜から、何も言わずに路地の入り口に立つようになった。
「……幻滅した?」
「いや」
カイは少し黙ってから、ぼそりと続けた。
「あれで、俺はあんたの護衛をやろうと決めたんだ」
外套の襟をつかんだ指に、力がこもった。
私は襟に顔を埋めた。煙の匂いを、もう少しだけ吸っていたかった。
どうして夜の街に出るのか、私はその夜、カイに話した。
幼い頃、大聖堂の門前で、寄進を払えずに追い返された女の子を見たこと。
門の鉄柵をつかんだまま、その小さな手が冷たくなっていったこと。
私の母も、治癒の力を持っていたこと。
教会に召し上げられ、寄進を積んだ貴族たちを治し続けて、祈りの形のまま指先をすり切らせて、私がまだ幼いうちに亡くなったこと。
強い癒し手ほど、教会は手放さない。
許しを願い出れば、私も母と同じ道をたどることになるだろう。
カイは、最後まで黙って聞いていた。
裏門で別れる前に、彼は一度だけ、私の頭にぎこちなく手を置いた。
大きくて、硬くて、でも大きい手だった。
屋敷の暗い廊下に、明かりがひとつ灯っていた。
燭台を手に、父が立っていた。
心臓が止まりかけた。
外套の下で、仮面を握った手がすっと冷たくなる。
父は、私の泣き腫らした目と、肩にかかった男物の外套を見た。
それから、何も聞かずに言った。
「冷えただろう。厨房に、温かいものを用意させてある」
「……どこまで、ご存じなのですか」
父は、しばらく黙っていた。燭台の炎が、皺の深くなった頬を揺らしていた。
「母さんの手も、同じ色に光っていた」
それだけ言って、父は背を向けた。
「それから…春の夜会には、私も出よう」
遠ざかっていく背中が、いつもより小さく見えた。
使うなと言ったのは、守るためだったのだろう。
鍵を開けておいてくれたのも、きっと同じ理由だ。
私は外套を胸に抱いたまま、しばらくその場から動けなかった。
春の夜会の広間は、蝋燭の光で昼より明るかった。
磨きあげられた床。楽団の音色と、香水と、焼き菓子の甘い匂い。
ドレスの隠しには、今夜も白い仮面が入っている。
屋敷に置いて侍女に見つかるより、肌身につけているほうが、まだ怖くなかった。
壁際には、宮廷付きの治癒官が法衣姿で控えている。
貴族が転んで擦りむいても、寄進さえ払えば、すぐに治してもらえるように。
扉の脇には、警備に駆り出された王都警備隊の兵士たちが並んでいた。その中に、カイの姿もあった。
盆を抱えて広間を行き来する給仕たちの中に、ミアの小さな姿を見つけて、私は少しだけ笑った。
殿下が、広間の中央の壇に上がった。
隣には、白い仮面を胸に抱いたロザリンドが立っている。
「皆、聞いてくれ」
楽団が、音を止めた。
「私、フェリクスは、今宵かぎりで、イリス・アシュフォードとの婚約を破棄する」
ざわめきが、広間をひと回りした。
「この女は、民の救済を口実に陳情を突き返し、貴族の楽しみに水を差すことしか知らぬ冷血な女だ。王妃にはふさわしくない」
殿下の指が、まっすぐ私を指した。
「私が妃に迎えるのは、民を癒やす慈悲の聖女。仮面の聖女、ロザリンドだ!」
拍手が起こった。最初はまばらに、やがて広間じゅうに。
玉座の陛下だけが手を打たず、じっと息子を見下ろしていた。
視界の端で、父が一歩踏み出しかけた。
私は、そっと首を横に振った。
父の足が止まる。唇を引き結んだ顔が、怒りで白くなっていた。
いいのです、お父様。
この人と結婚せずに済むのなら、悪役令嬢の名前くらい、いくらでも差し上げます。
明日から、救済費の書類は誰が見るのだろう。
それだけが、少し気がかりだった。
私はドレスの裾をつまんで、静かに一礼した。
「謹んで、承りました」
壇上のロザリンドが、勝ち誇ったように微笑んだ。
「聖女に乾杯だ!」
殿下の取り巻きたちが、杯を掲げて壇の前へ押し寄せた。
酔って肩をぶつけあった拍子に、壇の脇の背の高い銀の燭台が、ぐらりと傾いた。
その下に、盆を抱えた小さな給仕がいた。
悲鳴と、金属が床を打つ音が重なった。
燭台の下から、赤いものが広がっていく。
「……ミア」
声にならない声が、唇から漏れた。
倒れていたのは、ミアだった。
燭台の飾り金具に裂かれた首筋から、血があふれて止まらない。小さな体が、ひくひくと引きつっている。
「聖女よ!」
殿下が、ロザリンドの背中を押した。
「皆に奇跡を見せてやれ。ちょうどいい」
ちょうどいい。
その一言に、指先がすっと冷えた。
ロザリンドは青ざめた顔で膝をつき、ミアの傷に手をかざした。
白い光が、ふわりと灯る。
けれど光は、傷の上で頼りなく揺れるだけだった。血は、少しも止まらない。
「こ、こんな……こんな大きな傷、わたくしには……」
ロザリンドの手が震えて、光はしぼむように消えた。
広間が、ざわついた。
「治癒官!」
誰かが叫んだ。
壁際の治癒官が、法衣の裾を払って、ゆっくりと進み出る。
そして、ミアを見下ろして言った。
「寄進なき治癒は、いたしかねます」
耳を疑った。
治癒官は、血だまりから法衣の裾を引いて続けた。
「……もっとも、これほどの傷。寄進を積まれたところで、私の手には負えませぬが」
「たかが給仕だ」
殿下が、うんざりしたように手を振った。
「はあ……それを下げろ。せっかくの夜会が台無しだ」
誰も、動かなかった。
ただ一人、扉の脇から駆けつけた男が、ミアの傍らに膝をついて、両手で首筋の傷を押さえた。
指の間から、血があふれ出している。
カイだった。
彼が、顔を上げた。
目が合った。
助けてくれ、とは言わなかった。
言えば私がどうなるか、彼がいちばんよく知っているから。
ただ、その目が、ほんの一瞬だけ揺れた。
足が、震えていた。
ここで治せば、異端と呼ばれ、修道院の奥に閉じこめられる。
公爵家は爵位を剥がされる。父は、すべてを失う。
それなのに、ミアの唇から漏れる息の音が聞こえた。
ひゅう、ひゅう、と。だんだん、細くなっていく。
大聖堂の門前で冷たくなっていった、あの女の子の手が頭をよぎった。
お父様、ごめんなさい。
振り返ると、父がこちらを見ていた。
父は、ゆっくりとうなずいた。
視界が、涙でにじんだ。
私は、ドレスの隠しから白い仮面を取り出した。
端の菫の刺繍が、蝋燭の光を受けて、かすかに光る。
ミアのもとへ歩きながら、通りがかりの卓に、仮面をそっと置いた。
ドレスの裾を血だまりに沈めて膝をつき、カイの手の上から、ミアの首筋に両手を重ねる。
息を吸う。
胸の奥から、温かいものがあふれ出した。
すみれ色の光が、広間を染めた。
光はミアの傷に流れこみ、裂けた肌を内側から縫い合わせるように塞いでいく。血が止まる。真っ白だった頬に、少しずつ赤みが戻ってくる。
ミアの睫毛が、かすかに動いた。
ゆっくりと開いた目が、私を見上げた。
「……せいじょ、さま」
広間が、凍りついた。
誰も、息をする音さえ立てなかった。
その静けさを破ったのは、盆を抱えたまま立ちすくんでいた、年配の給仕だった。
「……わたしも」
震える声だった。
「わたしの孫の熱も、そのすみれ色の光で……」
「俺の母ちゃんの足もだ」
厨房の入り口から、若い料理人が前に出た。
「うちの子の咳も!」
一人、また一人。給仕が、下働きの娘が、警備の兵士が、広間の隅から前へ出てくる。
皆、貧民街から王宮へ働きに来ている人たちだった。
「仮面の聖女様の光は、すみれの色だ」
誰かが言った。
「そいつの弱ぇえ白い光じゃねえ」
広間じゅうの目が、血だまりの脇で立ちすくむロザリンドに向いた。
正確には、彼女が握りしめている白い仮面に。
卓の上の仮面には、菫の刺繍がある。彼女の仮面には、それがなかった。
ロザリンドの顔から、血の気が引いていった。
手から滑り落ちた仮面が、床で乾いた音を立てる。
「ロザリンド嬢……」
玉座を立った陛下が、静かに呼びかけた。
「そなたは、貧民街の長屋に足を踏み入れたことがあるか」
ロザリンドの唇が、色を失ってわなないた。
「……ございません」
消え入るような声だった。
「イリス!」
殿下が、壇を駆け下りてきた。
さっきまでの不機嫌はどこへやら、満面の笑みを浮かべている。
「なんだ、お前だったのか! ならば話は早い。婚約破棄は取り消しだ。お前が聖女なら、王妃にふさわしい」
殿下の手が、私の手を取ろうと伸びてくる。
私は、その手を見下ろした。
「殿下は、仮面の聖女を妃に迎えるとおっしゃいましたね。ええ、その正体は……間違いなく、わたくしです」
殿下の顔が、ぱっと明るくなった。
「――ですが、婚約はもう解消させていただきます」
自分でも驚くほど、静かな声が出た。
「殿下は、この子が血を流して倒れていたとき、眉ひとつ動かさずに、夜会が台無しだとおっしゃいましたよね」
殿下の笑みが、固まった。
「わたくしは貴方が言う、悪役令嬢で結構です。婚約は、殿下のおっしゃったとおり、破棄のままで結構です。民のことを無下に扱う方とは、一緒にいれませんから」
広間のどこかで、誰かが小さく吹き出した。
笑いは押し殺されて、それでも、さざ波のように広がっていった。殿下の耳が、みるみる赤く染まっていく。
「い、異端だ!」
治癒官が、我に返ったように叫んだ。
「許しなき治癒は、神への冒涜!警備隊、その女を捕らえよ!」
兵士たちが、ためらいがちに顔を見合わせた。
カイが、立ち上がった。
血に濡れた手で腰の剣を外し、床に置く。
「その命令は、聞けません」
低く、はっきりした声だった。
「この人を連れて行くなら、先に俺を連れて行ってください」
カイの前に、もう一つの背中が立ちはだかった。
それは、父だった。
「ああ……娘を連れて行くというのなら、アシュフォード公爵家ごと連れて行くがいい」
父の声が、広間の高い天井に響いた。
「――そこまでだ」
陛下の声が、すべてを止めた。
陛下はミアの傍らまでゆっくりと歩いてくると、血だまりと、すみれ色の光の名残と、卓の上の白い仮面を、順に見つめた。
「治癒官。そなたは、死にかけた娘を前に、寄進の話をしたな」
治癒官が、ひっと喉を鳴らした。
「これ以上好きにさせるつもりはない。今日限りで宮廷付きの任を解く。教会へは、余から話をしよう」
それから陛下は、床に座りこんだロザリンドに目を向けた。
「伯爵令嬢ロザリンド。聖女を騙り、王家を欺いた罪は軽くない。貧民街の施療所で、見習い治癒官として奉仕せよ。そなたが一度も足を踏み入れなかった場所で、その白い光でも塞げる傷を、ひとつずつ塞いでくるがいい」
ロザリンドは、両手で顔を覆って泣き出した。
「陛下」
私は、一歩前に出た。
「殿下の名で回ってきた陳情の写しは、突き返したものも含めて、すべて棚に残してございます。救済費がどこへ流れるはずだったのか、どうかお確かめくださいませ」
取り巻きの中で、あの子爵が真っ青になってよろめいた。
棚の奥で眠っていた写しを、ようやく誰かが読む。
「そして、フェリクス」
殿下の肩が、びくりと跳ねた。
「救済費を削って狩猟小屋に回させ、詐称者を確かめもせずに担ぎ上げ、目の前で血を流す民を、たかが給仕と言い捨てた……」
「ち、父上お待ちください、たかが給仕ひとりのことで――」
言いかけて、殿下は自分の口を押さえた。
もう、遅かった。
陛下の声は、静かで冷たかった。
「……民の血より夜会の飾りを惜しむ者に、王冠は渡せぬ。本日をもって、そなたの王位継承権を剥奪することとする」
誰ひとり、殿下に手を差し伸べなかった。
さっきまで殿下と杯をぶつけあっていた取り巻きたちでさえ、目を逸らして後ずさった。
陛下は最後に、私に向き直った。
「イリス・アシュフォード」
私は、両手を前にそろえた。
異端の裁きなら、受ける覚悟はできていた。
「王の名において、そなたの治癒を許そう」
「えっ?」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
「教会の許しなど、待ってはおれん。王都に、寄進のいらぬ施療院を建てる。……そなたに、預けたい」
膝から、力が抜けた。
床に崩れ落ちる前に、背中を支える腕があった。
その手は、血と煙の匂いのする、大きな手。
カイだった。
「……よく、やった」
耳もとで、彼が言った。
こらえていた涙が、一気にあふれ出した。
王立施療院の扉が開いた朝、門の前には長い列ができていた。
継ぎの当たった服の人たち。咳をする子どもを抱いた母親。杖をついた老人。
列の中ほどで、首筋にうっすらと白い痕の残るミアが、ちぎれそうなほど手を振っていた。
私はもう、仮面をつけていない。
貧民街の施療所からは、ときどき噂が聞こえてくる。
白い光の見習い治癒官が、毎日べそをかきながら、それでも子どもたちの擦り傷を塞いで回っているらしい。
元王太子殿下は、王都の外れの離宮で、誰にも会わずに暮らしているという。
その夜、最後の患者を見送って施療院を出ると、門の脇にカイが立っていた。
警備隊の外套のまま、いつものように、路地の暗がりを背にして。
「もう、護衛はいらないのよ」
「ああ、知ってる」
カイは、少し黙った。
「仮面のあんたも、仮面を取ったあんたも、ずっと見てた。……これからも、見ていたいんだ、駄目か?」
ぶっきらぼうな声の最後が、ほんの少しだけかすれていた。
頬が熱い。
隠す仮面がないことを、生まれて初めて心細く思った。
公爵令嬢と、警備隊長。
私たちのあいだには、まだ何ひとつ片づいていない。それでも、もう怖くはなかった。
「……送ってくださる? 屋敷まで」
カイが、照れくさそうに顎をしゃくった。
並んで歩き出すとき、私は自分から、その大きな手を取った。
公爵家の裏門の前で、二人並んで立ち止まる。
裏門の鉄の取っ手を、そっと押す。
鍵は、今夜も開いていた。
明日の朝、父に話そう。この人のことを。
きっと父は、何も聞かずにうなずくのだろう。
【終】




