お爺ちゃん猫
練習用の物語。
父親が言うには、猫は人の4倍歳を取るらしい。
浅倉家の猫は、風太が物心つく頃には既に家族の一員だった。
ロシアンブルーの灰色猫。オス。名はシラス。
母親の好物であり、尚且つ猫には魚と言う安直な理由から名付けられたらしい。
そんなシラスは、風太が小学5年生になった時には、1日の殆どを寝て過ごすお爺ちゃん猫になっていた。
ある夏の夜、風太は目を覚ました。寝る前に飲んだファンタグレープのせいでトイレに行きたくなってしまったのだ。
時計の針は2時を回った頃。
一戸建ての家の中は酷く静かだった。外を走る車の音も聞こえない。
微かに聞こえるのは、嘘みたいに不気味に響く時計の針の音と、部屋の迎え側のベッドで眠る妹、雫の寝息だけだ。
カーテンの隙間から入り込む月明かり。
薄暗い子供部屋は墓場のように気味が悪い。
いっその事、雫を起こして付いてきてもらおうかと考えた。
このまま朝まで過ごせば、無惨な結果になることは目に見えていて、どちらにしても恥をかく。
しかし兄の威厳は守らなくてはならない。
風太は威厳という言葉を知らないが、勇気と言う言葉は知っていた。
手に汗を握り、風太は素早くベッドから出た。
忍者のように子供部屋を後にし、音もなく階段を駆け下りる。
余計な物が目に入らぬよう目を伏せ、そのままトイレへ駆け込んだ。
電気を付けると心がほっと軽くなる。
そして、至福のひと時……まるで栓を抜いたかのように、波が引いていくのを実感する。
しかし快感に浸る暇わない。
これからまた2階の子供部屋まで戻らなくては行けないのだ。
風太はトイレの水を流すと、電気を消すと同時に飛び出した。
手を洗う余裕はない。洗面所の鏡の前に立つなんて、考えただけで背筋が凍る。
突然、リビングからガラガラッと窓が開く音が聞えた。
「だ、誰? お父さん……?」
また隠れてタバコを吸っていたのだろか。
風太は恐る恐るリビングを覗き込んだ。すると微かに開いた窓の前に小さな影が一つ。
どう見ても父親の影ではない。
風太よりも、いや雫よりもずっと小さくて細い。
「え……? もしかして……シラス?」
暗闇で光るまん丸の眼がこちらを向く。
間違いない、シラスだ。
立っている。
シラスが、二本足で。
シラスが開けた窓からするりと外へでる。
風太に鳥肌が立つ。これはヤバい! 脱走だ!
どうしてシラスが二本足で立つのか、そんな疑問は大事件を前に吹き飛んだ。
「ダメだ! シラス、戻って来い!」
風太の声でシラスが走り出す。
失敗だった。声を出すべきではなかった。
これまで風太はシラスが脱走した話など聞いたことがなかった。
家の周囲は住宅街だが、普段なら車の通りも多い。
立って歩くことも出来なかったお爺ちゃん猫が、突然迫ってきた車を避けられる訳がない。
風太の脳裏に、無惨なシラスの姿が浮かび上がる。
次に浮かんだのは、眼に涙を溜めて、俯く雫の姿だ。
風太はシラスの後を追って外へと飛び出した。
絶対にシラスを連れ帰ると心に誓う。
「シラスのばか! 外は危ないんだぞ、戻って来い!」
五感を研ぎ澄まし、シラスの気配を探る。
すると庭の柵を越えるシラスの姿を捉えた。
止まることなく、ぐんぐんと歩道を進んでく。
靴を履いている暇はない。
風太は裸足でコンクリートの地面を強く蹴る。
足の裏がズキズキと痛む。
少しでも痛みを和らげようと、つま先立ちでシラスの後を追う。
車のいない道路を横切り、知らない人の家の間を通り抜ける。
木造の朽ちたフェンスを潜り抜け、空き地を駆け抜け裏路地に出る。
吐く息は肺を裂こうとするほど熱く、心臓は今にも口から飛び出そうだ。
「ゲホッ……ゲホッ。お爺ちゃん猫のはずだろ? なんでこんなに速いんだよ」
シラスは少なくても10歳以上だ。
15歳として、4倍だから……えっと……何歳だ?
酸欠なのか頭がぼうっとしてくる。
走るのも限界だ。脚が水の中のようい重い。
視界も霞んできた。
すると、突然シラスが横道にそれた。
オレンジ色の灯りの中へ飛び込む。
どうやら民間の敷地内に逃げ込んだらしい。
風太の全身から汗が噴き出る。心臓はまだ飛び跳ねているし、肺だって穴が開きそうだ。しかしどうやら追いかけっこは終わったらしい。
重たい体を引きずるように、風太は灯りの元までやってきた。
汗を拭い、灯りが入った提灯を見上げる。
【たまノ湯】
提灯にはそう書かれていた。
見たところ、古い銭湯のようだ。
どうしてシラスはこの銭湯に来たのだろうか。
お腹が空いて、餌の臭いでも嗅ぎ付けたのだろうか。
風太がそんな事を考えていると、後ろから声を掛けられた。
「あの~入らニャいのでしょうか?」
その声に振り向くと、そこには黒と白のハワレ猫が立っていた。
当然のように、二本足で。キョトンとした2つの目が風太を見つめている。




