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悪役令嬢令嬢が不在の世界で、ヒロインは自分を虐め始めた

作者: 宮野夏樹
掲載日:2025/10/01


 この世界は、わたし――伯爵令嬢クリスティアナ・エインズワースがかつて夢中になって遊んでいた乙女ゲーム、『薔薇の宮廷恋物語』そのものだった。


 王都にある王立ガレア貴族学園。燦然と輝く大理石の校舎と、薔薇の咲き誇る広大な庭園。そして、わたしを取り巻く学園生活のすべてが、あのゲームのビジュアルそのままだ。王太子を筆頭に、公爵子息の騎士、侯爵子息の魔法使い、宰相の息子である文官……攻略対象の殿方たちは、絵に描いたような美貌と才覚を持ち合わせている。そして、庶民出身の奨学生として入学してきたのが、物語の主役、アメリア・ローズベルだ。彼女が数々の理不尽な困難を乗り越え、運命の男性と真実の愛を掴む……それがゲームのシナリオであり、わたしが知る『薔薇の宮廷恋物語』の結末だった。


 わたしは、ゲームのクレジットにすら名前の出てこないモブ令嬢として、この世界に転生した。平凡な伯爵家の娘。顔立ちも、成績も、魔力も、すべてが「普通」。目立たず、静かに、誰にも干渉せず、与えられた人生を全うする。それが、転生者としてのわたしの誓いだった。だが、世界はどうにも噛み合っていなかった。本来なら序盤から圧倒的な存在感を放ち、ヒロインを底なしの絶望へと突き落とすことで物語を駆動させるはずの「悪役令嬢」が、不在なのだ。


 王太子殿下の婚約者であり、学園の女王としてヒロインを徹底的に苛め抜く役どころのレイラ・ヴァインシュタイン公爵令嬢。彼女の影も形もなく、歴史を紐解いても、誰も彼女が「存在していた」気配すらない。まるで、彼女が担うべき役割そのものが、最初からこの世界に組み込まれていなかったかのように。不在の悪役令嬢。それは、物語の楔が打たれていないことを意味した。そのせいで物語が始まらない。


 攻略対象たちは、ただの優秀な学生として日々を過ごしている。王太子殿下は政務の勉強に励み、騎士の公爵子息は剣術の稽古に汗を流す。ヒロインであるアメリアは、その美貌と聡明さで周囲に好意的に受け入れられ、誰にも苛められることなく、平穏な学園生活を送っていた。平穏。それは、ゲームで言うならバグに近い状態だった。


 ヒロインの成長も、攻略対象との劇的な出会いも、困難を乗り越えるカタルシスもない。何も起こらないのだ。わたしは転生したモブ令嬢として、それを端から見ていた。平凡に、なるべく目立たず、ただ静かに生きるつもりでいた。しかし、その静寂は、ある日突然、爆発的な音を立てて破られた。




 季節は春から初夏へ移ろうとしていた。昼食時。王立ガレア貴族学園の豪華絢爛な学園食堂で、わたしは目立たない窓際の席で、友人のモブ令嬢たちと静かに紅茶を飲んでいた。いつものように、王太子殿下を遠目から眺め、アメリアが穏やかに笑っているのを観察する。


「……どうして……どうして誰も私を苛めてくれないのっ!?」


 突如として、食堂の中央付近から、甲高く、悲痛な叫び声が響き渡った。周囲の貴族の令嬢や令息たちの優雅な視線が一斉にそちらを向き、ざわめきが波紋のように広がる。わたしは驚きのあまり、口に含んでいた香り高い紅茶を、思わず吹き出してしまった。


「……ごほっ、ごほっ……な、なに言ってますの!?」


 慌てて口元をナプキンで押さえ、アメリア・ローズベルのほうを見る。彼女は、王太子殿下や騎士の公爵子息といった主要な攻略対象たちが座るテーブルのすぐ側で、完全に爆発していた。アメリアは、その美しい栗色の瞳を怒りと焦燥で潤ませ、机に両手を叩きつけながら、顔を歪ませて叫ぶ。


「分からないの!? 困難を乗り越えてこそ、物語は輝くのよ! 王太子殿下が私を庇ってくださるためには、誰かが私を苛めなくちゃいけないの! でも悪役令嬢がいないから、何も起こらない! このままじゃ、ただの退屈な学生生活で終わっちゃうじゃない!」


 周囲の令嬢や令息たちは、冷ややかな、あるいは戸惑った目で彼女を眺めている。「アメリア嬢、何を言っているんだ。君は被害妄想が過ぎるぞ」と、宰相の息子である文官の彼が、眉をひそめて諭す。「何を言っているの?」と疑問を持つのが普通だ。だが、わたしには分かった。アメリアは真剣そのものなのだ。彼女もまた、ゲームの記憶、あるいは「ヒロイン」としての役割の認識を持っている。そして、その役割を果たすための「敵」の不在に、耐えきれなくなっていた。わたしは背筋に冷や汗を垂らした。


 ――ヒロインの苛立ちがピークに達している。このままでは、ヒロインの精神が崩壊するか、あるいは、予想もしなかった方向に世界が転がり出す。わたしはモブとして、静かに事態の推移を観察するしかない。それが、わたしの唯一の特権であり、義務だと思っていた。そして、その懸念は、翌日には最悪の形で現実のものとなった。




 翌日、王太子殿下の執務室前の廊下。殿下と、護衛役の公爵子息が話しているところに、アメリアは一直線に歩み寄った。そして、殿下の前に立ちふさがると、顔を厳しく歪め、大見得を切る。


「庶民風情が王太子殿下に近づくなんて、身の程を知りなさいっ!」


 その台詞は、ゲームの序盤で、悪役令嬢レイラがアメリアを階段から突き落とす直前に発するものと、寸分違わぬものだった。殿下も、公爵子息も、目を丸くして立ち尽くす。


「……アメリア嬢?」


 王太子殿下が困惑した声で彼女の名を呼ぶと、アメリアは一瞬表情を緩め、そしてすぐに、再び険しい顔に戻る。


「違うの! 今のは悪役令嬢の台詞! 私が悪役令嬢を演じているの!」


 説明まで添える徹底ぶり。その姿は、痛々しいほどに滑稽だった。「どういうことだ、アメリア嬢」と、公爵子息が警戒の目を向ける。アメリアは胸を張り、演じきろうと必死だ。


「さ、さあ、遠慮なんてするんじゃありません! その汚らわしい平民の手で、殿下のお手を煩わせるなんて……許しませんわ!」


 王太子殿下は、さすがに王族としての器量を見せる。困惑しながらも、なんとかその茶番に乗ろうと試みた。


「ええと……私は君の身分など気にしない。アメリア嬢は学園にふさわしい資質を持っている」

「なっ……そんなことを言われたら、私は……私は……!」


 アメリアは顔を覆い、演技のままに涙目で殿下を見上げる。


「ぐ、ぐすっ……悔しい……! 殿下は優しいけれど、私は庶民……! 立場なんて超えられない……!」


 茶番だ。それは完全に茶番であり、傍から見ている令嬢たち(もちろんわたしも含めて)は、その光景に唖然とし、一部は失笑を漏らした。だが、恐ろしいことに、成立してしまうのだ。アメリアは日々「悪役令嬢ごっこ」を繰り返した。図書室では、「庶民がここにいるなんて許せない!」と叫んでから、自分で「でも勉強したいの!」と悲痛に返す。剣術場では「あなたなんかが殿方に近づくなんて!」と怒鳴って、自分でその場に泣き崩れる。


「平民の分際で」と罵倒する彼女自身が悪役令嬢役であり、その罵倒に耐える可憐なヒロイン役も彼女自身。一人二役を、日に何度も演じ始めたのだ。周囲は、初めこそ「アメリア嬢は頭がおかしくなったのでは」と噂し、距離を置いた。しかし、攻略対象の殿方たちは真面目に対応した。彼らはもともと、ヒロインを助けるという役割を無意識に持たされている。目の前で、理不尽に自分を苛めている少女アメリアに対して、もう一人の少女アメリアが涙を流していれば、助けずにはいられない。


 王太子殿下は「私は君の味方だ」と優しく手を差し伸べ、公爵子息は「気にすることはない、私たちが守る」と力強く宣言した。その結果、アメリアは着実に好感度を稼いでいった。物語は、悪役令嬢という「敵」を内包することで、歪な形で動き始めたのだ。……世界は狂っている。わたしはただの伯爵家の娘。転生したモブ令嬢。名前すら物語に出てこない、背景キャラだ。本来なら傍観に徹し、安全な場所からこの狂気の茶番劇を見守るべきだった。

 けれど、アメリアの姿は、目を離せないほど滑稽で、同時に眩しかった。


 彼女は必死なのだ。「ヒロイン」として、この世界に生まれた。与えられるはずの「試練」や「役割」が存在しないから、自分でそれを背負っている。自分で自分を貶め、傷つけ、そして攻略対象からの優しさでその傷を癒す。滑稽で、哀れで、でもそのエネルギーはまっすぐで。世界が求める物語を、彼女は一人で生み出そうとしていた。気づけばわたしは、彼女の「悪役令嬢ごっこ」を観察するのが日課になっていた。誰にも見られないように、ポケットサイズのノートに彼女のその日の台詞を書き留めるほどに。


「アメリア、今日の台詞回しは少々しつこかったな」

「昨日の『庶民が王太子殿下の隣を歩くなんて千年早いわ』は名言だった」


 そんな、内緒の批評を心の中で呟きながら、わたしは彼女の芝居を見続けた。わたしは観客であり、彼女は孤独な主演女優だった。




 季節は巡り、秋の深まりと共に、学園最大のイベント、学園主催の大舞踏会が開催された。煌びやかなシャンデリアの下、貴族の令嬢や令息たちが優雅に踊り、華やかなドレスとタキシードが光を反射させる。わたしは隅のテーブルで、いつものように、舞踏会の主役たちを眺めていた。


 アメリアは、その日もやはり、主役だった。彼女は、王太子殿下にエスコートされ、一際目立つ存在となっていた。攻略対象の殿方たちも、彼女の周りを固めている。完璧なヒロイン像だ。ゲームのシナリオ通り、彼女は愛と信頼を勝ち取っている。そして、そのクライマックス。音楽が一旦途切れたとき、アメリアは王太子殿下の手を離し、会場の真ん中に進み出た。深呼吸一つ。


「皆さま……わたくしは、皆さまに申し上げたいことがあります!」


 ざわめきが鎮まり、視線が集中する。アメリアは、その美貌に覚悟と、そして狂気を宿らせていた。


「わたくしこそが、この国の未来を脅かす悪役令嬢よ!」


 会場は凍りついた。貴族たちがざわめく中、彼女は胸を張り、さらに続ける。その声は、震えていながらも、ホール全体に響き渡った。


「わたくしは、平民のくせにこの地位にのぼりつめ、傲慢になり、やがてこの国を堕落させようと目論む最悪の存在なのです!」


 そして、自ら悪役を名乗ったアメリアは、王太子殿下に向かって、深く頭を下げた。


「だから殿下、どうか……どうか私を更生させてください! わたくしを正しく導き、愛の力で救ってください!」


 ――おかしい。懇願の形が新しすぎる。通常、悪役令嬢はヒロインを貶め、断罪され、追放される。あるいは愛の力で改心するにしても、こんな自発的な告白はあり得ない。彼女は、自ら悪役を演じることで、断罪イベントとハッピーエンドを同時に回収しようとしているのだ。王太子殿下は、さすがにこの事態には対応に苦慮した。額を押さえ、心底困り果てた表情で、静かに否定する。


「アメリア嬢。君は悪役令嬢ではない。君は心優しく、聡明な女性だ。それは誰もが知っている」


 だが、アメリアは、殿下の優しさを拒絶するように、涙を浮かべて叫んだ。


「違うの! わかっていただけないの!? 悪役令嬢がいないと、殿下と私の物語が始まらないの! わたくしが、殿下と真実の愛を育むためには、試練が必要なのよ! だから、だからわたしがなるしかないのよ!」


 彼女の言葉は、この世界を支配する「物語」のルールへの、悲痛な叫びだった。わたしの胸がざわつく。ざわめきは、周囲の貴族たちから、わたし自身へと伝播した。


 そうだ、彼女は必死なのだ。「ヒロイン」として、この世界に生を受け、役割を与えられた。しかし、敵役の不在により、その役を奪われた。だから、自分で敵役を作り出し、自分で物語を牽引しようとしている。笑って観察しているだけで、本当にいいのか。わたしは、この世界の観客に過ぎない。しかし、彼女の孤独な戦いを見てきた記録者でもある。このままでは、アメリアは「物語」に囚われたまま、現実の自分を見失ってしまう。




 舞踏会は、アメリアの告白によって、混乱のまま幕を閉じた。彼女の「悪役令嬢宣言」は、社交界で大きな話題となり、ついに人々は彼女を「悲劇のヒロイン」ではなく、「奇人」として扱うようになり始めた。


 舞踏会の後、誰もいなくなった深夜の大理石の廊下。学園の重厚な壁にもたれかかるように、アメリアは一人ぐったりと座り込んでいた。ドレスは乱れ、顔には涙の跡が残っている。


「……もう、誰も信じてくれない」


 微かに、消え入りそうな小さな呟きが、静寂な廊下に響いた。その言葉に、遠巻きに様子を見ていたわたしの足が、ピタリと止まる。迷った。モブのわたしが、主役の物語に介入することは、この世界の均衡を崩すのではないか。だが、彼女の孤独が、わたしの転生者としての無関心を打ち破った。わたしは、意を決して、彼女の元へ歩み寄った。


「ねえ、アメリア嬢」


 アメリアは、驚いて顔を上げる。初めて、わたしと彼女の目が、真正面から合った。わたしのことなど、彼女の記憶にも、ゲームのシナリオにも存在しないはずだ。


「あなたが悪役令嬢をやる必要なんて、ないんじゃない?」


 わたしの言葉は、何の力もない、ただのモブの意見だった。


「でも……物語が……」


 彼女は、やはり「物語」に囚われている。わたしは、彼女の隣にそっと腰を下ろした。


「ここは物語じゃないわ。現実なの。『薔薇の宮廷恋物語』は、もう終わった。あるいは、始まらなかった。でも、あなたは今、ここにいる。アメリア・ローズベルとして、生きている」


 言葉に説得力はないかもしれない。けれど、わたしは彼女の孤独な茶番劇をずっと見てきた。その事実だけが、わたしの言葉に重みを与えていた。


「あなたが無理に役を演じなくても、殿下はきっとあなたを見てるわ。……アメリア嬢が、本当に望むものを、見ようとしてる」

「私が……本当に望むもの……」


 アメリアは目を潤ませ、しばらく虚空を見つめた後、かすかに微笑んだ。その笑顔は、これまでの演技の笑顔とは違う、本心からの、疲れ切った、そして美しい笑顔だった。


「……ありがとう、クリスティアナ。あなたは、いつも見ていてくれたのね」


 彼女が、わたしの名前を知っていたことに、わたしは驚いた。


「わたしのノートに、あなたの名前が書いてあったの。わたしの芝居を書き留めてくれていたわね」


 彼女は、わたしが隠れてつけていた観察ノートを見ていた。いつから? 気づいていたの?


「あのノートに書かれた台詞は、いつも正確で、少しだけ優しかったから……」


 その瞬間、わたしは気づいた。――モブであっても、背景キャラであっても、誰かを支えることができる。わたしが持っていたのは、世界を動かす力ではない。ただ、見つめ続けるという、ささやかな誠実さだけだった。「私はただの観客よ」と、わたしは静かに答えた。


「でも、あなたの演技は、もう十分よ」


 そして小さく付け加えた言葉に、アメリアは小さく頷いた。




 それから、アメリアは少しずつ「悪役令嬢ごっこ」をやめていった。彼女が自分を苛める言葉を発しなくなると、周囲の貴族たちは安堵し、彼女への視線は以前の好意的なものに戻った。そして、王太子殿下も、アメリアが背負っていた重荷に気づき始めていた。ある日、殿下はアメリアの手を取り、真剣な眼差しで言った。


「アメリア嬢。君が私との関係に試練が必要だと感じていたなら、それは私の不徳の致すところだ。君が自分を傷つける必要はない。私は、君のあるがままを愛したい」


 殿下の言葉は、ゲームの攻略対象が発する甘い台詞ではなく、一人の人間としての真摯な告白だった。世界は崩壊しなかった。むしろ、ゲームのシナリオという強迫観念から解放され、彼らはゲームとは違う形で、人間として真剣に向き合い始めた。


 物語は、悪役令嬢不在という欠損を抱えながらも、現実の、生きた人々の感情によって、新しい形で動き始めたのだ。わたしは相変わらずモブ令嬢のまま。伯爵令嬢クリスティアナ。けれど、もうわたしは、ただの観察者ではない。必要なら声をかけ、支えることもできる友人という、新しい役割を得た。アメリアは時々、わたしのノートを借りて、過去の自分の「悪役令嬢ごっこ」の台詞を笑いながら読む。


「あの頃の私、必死だったわね。でも、クリスティアナがいなかったら、私は本当に壊れていたかもしれない」


 彼女の言葉に、わたしは微笑む。――悪役令嬢が不在で、始まらなかった物語。今、ようやく、愛と友情という新しい要素を加え、幕を開けた。


 そしてわたしは今日も、彼らの現実の物語を眺めている。舞台の隅で、転生モブ令嬢として、静かに、しかし確かな存在感を持って。

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