第九章 声の正体
大樹はベッドの上でじっと目を閉じていた。外の世界は見えるが、そこに安心はなかった。耳を澄ませば、誰の声ともつかぬささやきが混ざり合い、頭の中を満たす。最初は人の「本音」だと思っていた。看護師の笑顔、医師の丁寧な言葉、母の優しい仕草。すべての裏に潜む言葉――怒り、嫉妬、軽蔑、虚栄、羨望。大樹は震えた。こんな世界に自分は生きているのか。
しかし、ある瞬間、違和感が胸を貫いた。耳に届く声は、決して表面的な「嘘」ではない。いや、むしろ、心の底から湧き上がる「本能」のようなものだ。単なる本音ではなく、抑圧され、押し込められてきた衝動。人々はそれを日常生活の中で制御し、抑え込み、偽りの自分を演じているだけだ。だが今、その制御が崩れ、抑圧の奥底にある欲望が言葉となって漏れ出しているのだ。
「殺したい…」「憎い…」「奪いたい…」「消えろ…」
声は理性を通さず、まるで毒のように脳を蝕む。
大樹はそれを認めたくなかった。これはただの幻覚だ、精神が傷ついたせいだ、と。しかし耳に届く声はあまりにも現実的で、拒絶できなかった。通りを歩けば、幼い子どもでさえ、母親に見せる笑顔の裏で「早く消えろ」と思っているように聞こえる。友人や恋人の笑顔も、上司の丁寧な対応も、すべてが化け物の仮面に思えた。
「みんな、怪物だ…」
大樹は小さく呟いた。声に出す必要すらなかった。ただ心の中で確認しただけだ。だが、それだけで恐怖は増した。人間は、理性や倫理を装っているが、誰もが生きるために、あるいは自分の欲望のために、凶暴な衝動を抑え込んでいる。大樹の耳は、その衝動の奔流を余すことなく拾い、脳はそれを処理できずに混乱した。
病院の窓から外を眺めると、街は穏やかに見えた。しかし大樹の心に映るのは、表面的な日常ではなく、抑圧された衝動が蠢く群像だった。笑顔の人々の目の奥には、嫉妬や殺意の影がちらつき、親切な行為の裏には利己的な計算がある。大樹は息を詰めた。これが、現実の人間の姿なのか。これが、誰もが抱える「化け物」の本性なのか。
さらに、大樹の耳に奇妙なリズムが入ってきた。断片的な思考が、無秩序に絡み合い、ひとつの声のように聞こえる。
「殺せ」「奪え」「破壊せよ」「誰も信じるな」
最初は偶然の重なりかと思ったが、繰り返されるうちに規則性を帯び、集団の意志のように聞こえた。人々の心の底に潜む暴力衝動は、孤立しているわけではなく、どこかで連鎖している。人は、単独では制御できないほどの暗黒を内包している。
大樹は理解した。耳に届くのは「真の声」ではない。ただの本音でもない。人は、理性で押さえつけてきた衝動の総体――暴力、嫉妬、利己、欲望――それらが集合し、街という生き物のようにうごめいているのだ。人間は皆、潜在的な怪物であり、その怪物は誰の心にも棲んでいる。大樹の能力は、その怪物たちの声を曝け出すだけだった。
恐怖は絶望へと変わった。自分自身の中にもその声が芽生えつつあることに気づく。人の声を聞くたびに、脳は麻痺し、吐き気とめまいに襲われる。だが、聞かずにはいられない。拒絶すれば、衝動はますます強く、破壊的な形で返ってくる。大樹は手で耳を塞ぐが、声は頭蓋骨を通して届くかのように侵入する。街を歩けば、誰の声も混ざり合い、単なる背景の雑音ではなく、襲いかかる波のようだ。
「俺は…何も信じられない…」
大樹の指先は震え、膝を抱えて床にうずくまる。信じられる人間は誰もいない。友人、家族、医者、看護師、すべてが化け物の仮面をかぶっているだけだ。彼の心は、恐怖と絶望の中で徐々に透明になり、現実と幻覚の境界は消えつつあった。
大樹はひとつの決断に至る。もはや、誰かを信じる必要もなければ、助けを求める必要もない。街の声のすべてを受け入れ、内に宿る怪物と一体になること。恐怖は静かに希望へ変わった――いや、正確には希望ではない。絶望を受け入れる覚悟だ。
心の中で、大樹は微笑んだ。声の正体を理解した瞬間、孤独は恐怖ではなく、共感のない現実そのものとして降り注ぐ。人間の本性は逃れられない。抑圧された衝動は、いつか必ず現れる。そして今、彼の耳はそれを完全に捕え、心はそれと融合しようとしていた。
大樹の視界は揺れ、鼓動は荒く、呼吸は浅くなる。しかし、恐怖の中で微かな興奮も混ざっていた。街のすべての人間が、彼の理解するところでは怪物であり、その怪物たちの一部が、今この瞬間、大樹の中に入ってきている。人間の本性と、彼自身の恐怖と欲望が、境界なく渾然一体となった。
外の世界は平穏のままだが、もはや大樹の目には虚構と現実の区別はなかった。街も人も、音も声も、すべてが渦巻き、彼を包み込む。彼は悟る――救いはない。人間そのものが怪物であり、自分もまたその一部なのだと。
そして、微かにだが確かに感じる。これまで聞こえていた声の底に潜む、共通の意志。人々の衝動は、単なる個のものではない。どこかでつながり、増幅し、終わりのない螺旋を描いている。大樹は震えながらも、その渦の中心へと引き寄せられるように意識を集中させた。声の正体を知った今、後戻りはできない。彼は完全に、人間の化け物の渦に飲み込まれつつあった。