第八章 母の沈黙
大樹は部屋の隅で座り込んでいた。窓の外は昼下がりの光が差しているはずなのに、目に映る景色はいつもどおり灰色で、音も色も存在感を失っている。頭の中で響く他人の声が止むことはなく、胸の奥で鼓動が裂けそうなほどの圧迫感を生む。吐き気に顔を歪めながら、彼は天井を見上げた。「お願いだ、止めてくれ……」声に出して呟くが、誰も聞いていない。母の声ですら、皮肉と苛立ちの混じった呟きとして耳に届く。
母は毎日、ベッドの脇に座り、食事を運び、薬を手渡す。表面上は優しい笑顔を浮かべている。だが、心の声は違った。
「早く独り立ちしてくれ」「面倒だ」「あの子に構ってる暇はない」
大樹はその声を聞き、胸の奥で冷たいものが広がるのを感じた。これまでの人生で、母を信じていた時間は、すべて偽物だったのか。彼は手で顔を覆い、嗚咽に近い息を吐き出した。
「俺は……誰も信じられない……」
自分の声さえ、耳に届くたびに虚しく響いた。母がそっと髪を撫でる仕草すら、裏側では「早くこの子から解放されたい」と呟いているのではないかという疑念が、大樹の心を支配した。彼の中で恐怖は、他人への恐怖から、愛する者への恐怖へと変わっていった。
ある日、ついに我慢の限界が訪れる。母が食事を差し出すと、大樹は立ち上がり、声を荒げた。
「心では俺を嫌ってるんだろ! ずっと……ずっと俺のこと、面倒だと思ってただけだ!」
母は一瞬、手にした皿を止め、目を見開く。その顔には混乱と恐怖が交錯していた。普段の微笑みは崩れ、唇を震わせながら何も言えない。大樹は後悔よりも、空虚な怒りのほうが勝っていた。胸に渦巻く声たちが、母への疑念と怨嗟を倍増させる。
母は静かに立ち上がり、部屋を出て行った。扉が閉まる音が、彼の孤独をさらに深める。背後で閉じた扉の影は、世界が完全に自分を拒絶したことを象徴しているかのようだった。息を切らしながら、部屋の隅で大樹はうずくまる。周囲の声は容赦なく、母への疑念をさらに煽った。
時間が経つにつれ、母がいないことに慣れようとする自分と、声が絶えず母の存在を突きつける自分とが交互に現れる。彼の頭は混乱し、思考の糸が絡まって解けない状態になる。母の存在すらも、「本当はどう思っていたのか」を確かめられないまま、想像力の中で歪んでいった。
大樹の目に、ふと昔の記憶がよみがえる。子供の頃、母に抱きしめられた夜。暖かく、安心できる瞬間――しかし今、その記憶さえも裏切りの仮面に変わる。心の声は、あの温もりを「束縛と面倒」として塗り替える。大樹は涙を流しながら、過去も現在も未来も、すべてが偽りに思えた。
その夜、大樹は決意する。もはや誰も信じられない。母でさえ、信じる価値はない。心の中で鳴り響く声に対して、彼は自分の声で応える必要もない。ただ、その声と同化するしか方法はないのだ。
「……もう、誰も……信じない」
布団の中で身を丸めながら、大樹は周囲の声を全身で浴びる。看護師、医師、通りすがりの人々、そして母……すべての思考が一つの巨大な渦となって、彼の意識を押し潰していく。痛み、吐き気、恐怖、孤独、そして絶望。すべてが彼の中で融合し、逃げ場のない暗闇を作り出す。
窓の外では街の灯が揺れているはずなのに、大樹には届かない。光も、音も、温もりも。存在するのは、声とそれに絡め取られた自分だけだった。母が去った空間は、虚無の象徴として大樹の全てを包む。
その瞬間、彼は悟る。人間は、他者の心を知ることで裏切られ、絶望する生き物だ。誰も救わず、誰も救われない。母の愛も友情も、すべては幻想に過ぎない。孤独と不信は、もはや回避できない現実であり、逃げる場所は存在しない。
大樹は静かに目を閉じる。目の奥で、母の声も、街の声も、自分の声も、すべてが混ざり合い、ひとつの黒い塊になる。その塊は、彼を飲み込み、体の隅々まで侵入する。もはや、彼の心は母の声であれ、他人の声であれ、遮断することも区別することもできない。
息を止めるように、世界は彼にとってただの圧迫でしかない。心の奥底で芽生えた怒りと恐怖は、もはや理性を超え、彼の思考すべてを支配する。母を疑う怒りは、外界への恐怖に変わり、やがて自己への憎悪に変貌する。大樹はもう、孤独に耐えることも、声を避けることもできない。
「誰も……いない……」
彼の呟きは、自分の声としても他人の声としても聞こえる。意識は混濁し、現実と幻覚の境目は消えた。
母の存在は物理的にはあるのに、精神的には消え失せた。もはや世界に残るのは、声と絶望、そして孤独だけである。
大樹は布団の上で小さく震えながら、心の声と完全に同化する。その瞬間、彼の中にわずかな希望や救いは一切残っていなかった。母の愛も、人間の善意も、すべて無意味だった。生き残ったとしても、救われることはない。大樹は完全に孤独の渦に飲み込まれ、声の洪水の中で沈み続ける。
外界は平穏に見える。しかし彼の内部では、絶え間なく他者の衝動と欲望がうねり、逃げ場のない牢獄を形成していた。もはや大樹にとって、現実と幻覚の区別は意味を持たない。唯一確かなのは――世界は敵であり、母さえも偽りだったという事実だけだった。
そして、大樹の目は虚ろに開かれたまま、深い沈黙の中で声に飲まれていく。生存も希望も救済もなく、彼は完全に孤独と絶望の中で溺れていった。