第七章 声に溺れる
大樹は病院の窓から外を見た。夏の光は明るく、街はいつもと変わらぬ喧騒に満ちているはずだった。しかし、大樹にはそれが音の洪水として迫っていた。人々の足音、話し声、笑い声。それらはすべて、表面的な言葉の裏に隠された本音を運んできた。「あいつは馬鹿だ」「誰か消えろ」「俺を踏み台にするな」――一つ一つの思考が、耳鳴りのように頭を突き刺す。
最初はかき消すことができた。集中すれば無視できると思った。だが、病院の廊下を歩くたび、カーテンの向こうにいる患者のうめき声でさえも、大樹の頭の中でねじれた形で響いた。「痛い、死ねばいいのに」「誰かを殺してみたい」「見ているだけじゃ足りない」――声の波は止まらず、脳内で次々と重なり合った。
電車に乗った日、大樹は初めて外の世界の「地獄」を目の当たりにした。座席に座るサラリーマンの心の中は、家族への苛立ち、同僚への嫉妬、無意味な怒りで満たされていた。隣に座る女子高生の笑顔の裏には、「早く帰りたい」「あいつに見られたくない」という怨念のような感情が混ざっている。大樹の頭は、声の渦で煮えたぎる鍋のように熱くなり、視界は揺らいだ。
帰宅すると、部屋の壁に耳を押し当てるようにして座った。静寂を求めたが、声は建物の中にまで入り込んでいた。「ドアの向こうで、俺を見ている」「早く死ね」「何もできないくせに」――それはまるで、世界そのものが大樹を追い詰めるかのようだった。目を閉じても、頭の中で声が跳ね回り、まるで自分の意識が溶け出すかのようだった。
「もう、やめて……!」
大樹は声にならない叫びを上げた。だが、声は自分自身の中からも響き始めていた。心の奥底に潜む、抑えきれない欲望や暴力性。「壊せ」「刺せ」「血を流せ」――他人の声と自分の声が入り混じり、もはや区別がつかない。手元にあるペンを握ると、まるでそれが凶器のように重く感じられた。紙に文字を書くことさえ、無意味に思えた。
数日後、大樹は外出を完全にやめた。街の声は止まらず、窓を閉め切り、耳栓を何枚も詰めても無駄だった。電話の着信音やテレビの音すら、他人の本音として聞こえてしまう。家の中にいても、母の「早く食べなさい」「宿題はやったの?」という表向きの声の裏には、「面倒くさい」「うるさい」「早く一人になれ」という声が潜んでいた。大樹は母の愛情さえ、幻影だと思うようになった。
「母さん……お前も、俺を嫌ってる……」
ついに声に耐えきれず、涙を流しながら叫ぶ。母はその声に驚き、手を止め、後ずさりした。その視線の先には、愛情ではなく恐怖しか映っていなかった。大樹の心は完全に孤立し、世界から切り離された孤独な存在となった。
夜になると、声はさらに強まった。隣の部屋で眠る住人の心臓の鼓動、吐息、夢の断片までもが大樹には聞こえた。「死ねばいいのに」「壊してみろ」「お前も同じだ」――その声が、まるで糸のように大樹の思考を絡め取り、身体と精神を引き裂こうとする。息を止め、目を閉じても、声は頭の中で増幅していった。
その夜、大樹はベッドに横たわり、ふと気づいた。誰の心も、表面的な言葉ではなく、抑えきれぬ欲望や嫉妬、暴力の塊に満ちているということに。これまで人間を観察することで心の歪みを「想像」していたが、今や想像ではなく、現実そのものが凶器として大樹の耳に刺さっていた。
大樹は震えながら自分の手を見つめた。皮膚の感覚すら、他人の怒りや嘲笑に染まっているかのように感じられた。外界の声も、自分自身の声も、すべてがひとつの巨大な暴力装置になり、彼を壊そうとしている。もはや「外に出る」という選択肢は存在せず、日常は完全に声の支配下に置かれていた。
夜が明けても、声は止まらない。大樹はベッドの上で縮こまり、耳を押さえ、震え続けた。世界は静かになることはなく、人々の抑圧された欲望は休むことなく蠢き続けた。心の声に溺れ、外界と自己の境界は消え、精神は完全に蝕まれていった。
その日、大樹は悟った。もはや救いはない。人間の心は常に暴力と偽りに満ち、世界は絶えず叫び続けている。声に溺れたまま、彼はその恐怖の海に沈み、二度と立ち上がれなくなることを。静寂はなく、平穏もない。世界は、声によって完全に支配されていた。