第六章 事件の影
ニュースでは犯人は錯乱した単独犯と報じられていた。大樹はその画面をただ眺めるだけだった。事件現場の映像は繰り返し流れ、人々の悲鳴と血の匂いがテレビ越しに漂ってくるような気がする。しかし、彼の耳にはテレビの音声以上に、周囲の「心の声」が響いていた。悲しみの声、恐怖の声、憎悪の声――すべてが入り混じり、耳を裂くように押し寄せる。
大樹は肩をすくめ、息を整えようとする。だが、聞こえてくる声の一つに、思わず身を硬直させた。
「次はどこでやろうか――」
その声は、誰のものでもない。テレビに映る人々のどこにも属さない、冷たく歪んだ思考。大樹は背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。偶然の現場に居合わせた彼の直感が告げる――この事件はまだ終わっていない。単独犯ではなく、計画され、広がりをもった「何か」が動いているのだと。
駅前のコンビニに寄ると、店内の客たちの声が一斉に押し寄せてきた。
「あの人、見覚えあるな…」「もし俺がやったら…」「あいつ、いつ死ぬかな」
大樹は頭を抱え、耳を塞ごうとする。しかし、声は壁をすり抜け、頭の奥に直接響く。電車に乗れば、隣のサラリーマンの心の中にまで、同じようなささやきが広がっている。街全体が、見えないネットワークのように「殺意」で満たされている感覚に陥る。
大樹は歩きながら、街を観察する。人々は普段通りに笑い、会話をしている。しかし、その笑顔の裏には、事件の残滓のような闇が漂っていた。誰もが恐怖に晒されているだけではない――心の奥底で、同じ衝動に触れている。
その夜、ニュースで事件の詳細が再度報じられた。犯人は錯乱状態で、無差別に刺傷を行ったという説明。警察のコメントも、捜査の進展も、どれも表面的だ。大樹の耳には、ニュースキャスターの冷たい声すら裏の意味を持って聞こえる。
「まだ次がある…」
大樹は小さくつぶやいた。声は内側から湧き上がり、彼の体を震わせる。胸の奥に、恐怖と期待が入り混じった感覚が広がる。恐怖は、ただの恐怖ではない。世界の裏側を覗いた者だけが知る、不吉な確信だ。誰も助からない、誰も救われない。事件は、街全体を覆い、無数の心に潜む衝動を呼び覚ます。
彼は自室に戻り、窓の外を見つめる。夜の街は静まり返り、まるで何事もなかったかのように見える。しかし、大樹の目には、街全体が潜在的な凶器の集団に変わって見える。通りすがる人々の心に耳を澄ませると、微かな「殺意の響き」が混ざる。風が街を渡るたび、その声は波紋のように広がり、逃れられないことを告げる。
その時、ふとスマートフォンが震えた。ニュース速報かと思い画面を覗き込む。しかしそこには何も表示されていない。代わりに、頭の中で声が囁く。
「次はお前だ」
大樹は息を呑み、体を硬直させる。声は現実のどこからも来ていない。だが、明確に、確実に、自分に向けられている。街の無数の心が共鳴し、彼を監視しているかのような感覚。誰も助けられない、誰も信じられない。孤独は、ますます深まる。
その夜、大樹は眠れなかった。布団に潜り込み、目を閉じても、頭の中には人々の声が止まなくなる。街の灯りが窓から差し込み、無数の影を部屋の壁に落とす。影はまるで小さな人間の群れが蠢いているようで、耳には無数の囁きが届く。
「次は誰だ…」「血を流せ…」「止められるものなら止めてみろ」
大樹は震えながら、布団を抱きしめる。だが、逃げても無駄だ。声は遮断できず、夜が明けると街全体が再び日常を装う。しかし、大樹の心には深い傷と、消えない恐怖が残った。事件は終わっていない。街のどこかに、まだ「何か」が潜んでいる。
窓の外で夜風が吹く。遠くに人々の笑い声が聞こえる。しかし、大樹にはもう、普通の声と狂気の声の区別がつかない。街は静かで、人々は平然としている――だが心の奥底では、誰もが何かを渇望している。殺意かもしれない、破壊かもしれない。大樹は悟る。事件は、まだ、終わっていないのだ、と。
そして彼は、息をつめて自分の部屋の壁に耳を当てる。聞こえるのは、鼓動だけではない。無数の囁きが、壁を通して、彼の頭に侵入してくる。誰も救われない。誰も守れない。街全体が、まだ見ぬ「次の惨劇」に向けて、静かに、しかし確実に動き出している
――そんな予感とともに、大樹は夜を迎えた。