第五章 友の仮面
退院して三日が経った。
外に出る勇気は持てず、カーテンを閉め切った六畳の部屋の中で、大樹は息を潜めるように過ごしていた。
人の声――いや、人の奥底の囁きが、耳を澄まさずとも頭に響くのだ。母親のちょっとした溜息さえ、彼には「嫌悪」に聞こえ、胸を締め付ける。
だから誰にも会いたくなかった。
けれど、その日の午後、チャイムが鳴った。
玄関を開けると、そこには健太が立っていた。
「おー、よかった。生きてたな、大樹」
明るい声。笑顔。
大学で知り合った数少ない友人。
大樹が人付き合いを避ける中でも、健太だけはしつこく誘ってくれた。サークルにも、飲み会にも。結局ほとんど断っていたが、それでも健太は「まあいいよ」と笑い、疎遠にならずにいてくれた。
唯一の、友達――そのはずだった。
「……久しぶり」
かすれた声で返す。
健太は当然のように部屋に上がり込み、コンビニの袋を差し出した。
「見舞いに。プリンとかゼリーとか、食えるだろ?」
――(俺が死んでたら、もっとみんなに話題にされたのにな)
頭の奥で、声が響いた。
大樹の背筋が凍り付いた。
「……え?」
思わず声を漏らすと、健太が首をかしげる。
「ん? どうした?」
笑顔は変わらない。
だが、また声が押し寄せる。
――(大樹が生き残ったのかよ、なんか腹立つな)
――(俺の方がヒーローっぽかったのに)
「や、やめろ……やめてくれ……」
思わず耳を塞ぐ。だが、意味はない。声は耳からではなく、頭の奥に直接流れ込む。
健太は目を丸くした。
「おい、大丈夫か? やっぱまだ体きついんだろ」
そう言いながら、心の声では――
――(このまま壊れてくれたら、俺の方が注目されるな)
大樹は震えた。
この男もまた、仮面を被っていた。
表では笑い、心では嫉妬と醜悪な願望を抱いている。
健太は他愛のない話を続けた。大学の噂、サークル仲間の近況、ニュースのこと。
「いやぁ、マジで怖い事件だったよな。俺もさ、ニュース見てすぐ大樹のこと心配になってさ」
――(ほんとは俺が刺されて死んでたら、もっとよかったのに)
「やめろ!」
大樹は叫んだ。
健太がぎょっとして、プリンを落とす。
「お、おい……何だよ」
「嘘つくな! 心配なんかしてないだろ! お前、俺が死んでた方がよかったと思ってるだろ!」
健太の顔が固まった。
沈黙が流れる。
だがすぐに、彼は困ったように笑って言った。
「何言ってんだよ。そんなわけないだろ」
――(図星か……やっぱ壊れてんな、大樹)
その瞬間、大樹の中で何かが崩れ落ちた。
信じていた。唯一の友達だと。
だが、本当は違った。
健太もまた、仮面をかぶり、大樹を利用し、嫉妬し、心の中で嘲笑していた。
沈黙が長く続いた。
やがて健太は立ち上がった。
「……まあ、ゆっくり休めよ。また来るわ」
――(二度と来るか。関わったら面倒だ)
ドアが閉まる音がした。
残された大樹の耳には、健太の「声」がいつまでも残響のようにこびりついていた。
彼はベッドに崩れ落ちた。
胸の奥が空っぽになったようだった。
母の声、医師の声、街の声。すべてが醜く、恐ろしいものだった。
それでも――最後に信じていたのは健太だった。
だがその仮面も、剥がれてしまった。
「……誰も……信じられない……」
独り言が、虚しい部屋に吸い込まれていった。
孤独という言葉がある。
だがそれは「他人がいない」ことではない。
本当の孤独とは――「誰一人として信じられない」ことだ。
そのことを、大樹は今まざまざと知った。
夜。布団の中で目を閉じても、健太の声が耳から離れない。
――(俺が死んでたら、もっと目立てたのに)
――(大樹なんかより俺が……)
「……やめろ……やめろ……!」
枕を頭に押し付ける。だが、止まらない。
頭の中に響く声は、幻聴ではない。確かな「真実」だ。
涙が滲んだ。
大樹は気づいた。
もう自分には、信じられる人間がいない。
いや――人間という存在そのものを、信じられなくなったのだ。
世界は仮面で塗り固められている。
優しさも友情も、すべては「装い」であり、その裏に潜むのは嫉妬と殺意と醜悪な欲望だ。
大樹は天井を睨み、かすれた声で呟いた。
「……人間は……全部、嘘だ……」
その呟きは、自分の心を底なしの闇へ突き落とす合図のように響いた。