表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
声に溺れる  作者: 怪談亭
4/10

第四章 世界の裏側

 退院を許されたのは、事件から十日後だった。


 傷はまだ完治にはほど遠く、背中を動かすたびに鈍い痛みが走る。だが、医師は「安静にしていれば問題ない」と言った。


 問題があるのは体ではない――大樹自身もそれを理解していた。


 病室を出る瞬間から、世界はもう以前のものではなかった。


 廊下を歩くだけで、すれ違う人々の「声」が次々と流れ込んでくる。


 ――(また点滴の交換か、面倒だ)

 ――(不倫がバレませんように)

 ――(こいつの命なんて、どうでもいい)


 笑顔を浮かべる看護師の口元と、その裏に潜む声のギャップが、刃物のように大樹の心を抉った。


 耳を塞いでも意味がない。声は耳からではなく、頭の奥に直接響いてくる。


 「……やめろ、やめてくれ……」


 呻きながら病院を出ると、冷たい外気が頬を撫でた。


 街はいつも通りに賑やかで、休日の人混みが商店街を埋め尽くしている。


 だが、彼にとってその風景は「地獄」そのものだった。


 すれ違う人すべてが、囁く。


 ――(隣の奴、臭いな)

 ――(殺してやりたい、あの上司を)

 ――(昨日の死体処理、まだ誰にも気づかれてないはず)

 ――(あの子、痩せたら付き合ってやるのに)

 ――(死ね、みんな死ね、俺以外)


 無数の声が、滝のように押し寄せる。


 人々の表情は明るく談笑しているのに、その内側は醜悪な本音で渦巻いていた。


 大樹は頭を抱え、膝を折りそうになった。


 「……う、ああ……」


 逃げるように横道に入り、壁に背を預ける。


 だが、そこでもすれ違ったサラリーマンの心の声が刺さる。


 ――(妻を殺して保険金を……)


 吐き気が込み上げ、胃液が喉を焼いた。


 自分が今まで想像していた「人間の裏の顔」が、実際にはそれ以上に歪んでいることを思い知らされる。


 誰一人、純粋な心で生きていない。


 笑顔も、優しさも、すべて仮面だ。



 カフェの窓際に腰を下ろし、水を飲みながら震える手を押さえた。


 ここはかつて、大樹が「人間観察」の拠点にしていた場所だった。


 学生たちが談笑し、親子連れがケーキを頬張る。そんな平和な光景のはずだ。


 だが、今の大樹には別の光景が見える。


 ――(俺の子じゃないかもしれない)

 ――(隣の友達を突き落としたら面白いだろうな)

 ――(笑ってるけど、心底馬鹿にしてる)

 ――(誰にもバレないなら、今すぐにでも)


 甘い香りの漂う店内に、血と腐臭が染み込んでいくような錯覚。


 カップを持つ手が震え、コーヒーが少し零れた。


 人々は笑い続けている。だが、その笑顔の奥には暴力と欲望が渦巻いている。


 大樹はかつて「人間は醜い」と想像して楽しんでいた。


 だが、今は違う。


 本当に醜いのだ。


 想像ではなく、現実として。


 「……俺は……何を見てるんだ……」


 声にならない呟きが、震えた唇から漏れる。



 帰り道。夕暮れの商店街。


 事件のあった場所には、まだ花束が供えられていた。


 通り過ぎる人々の心の声が、また流れ込んでくる。


 ――(こんな所で死ぬなんて運が悪い)

 ――(自分じゃなくてよかった)

 ――(犯人は英雄だ、羨ましい)


 大樹は凍りついた。


 事件の犠牲者を悼むどころか、多くの人間が「自分じゃなくてよかった」と安堵し、中には「羨望」すら抱いている。


 それが人間の本質なのだろうか。


 血の跡がまだ残るアスファルトを見下ろし、大樹の胸に寒気が走った。


 ――(誰もが、加害者にも被害者にもなり得る)

 ――(いや、誰もがすでに加害者の心を持っている)


 視界の端で、再び「視線」を感じた。


 事件当日、刺される直前に見た屋上の気配。


 今も、誰かがこちらを見下ろしている。


 大樹は顔を上げたが、屋上には何もいなかった。


 それでも、心臓を握り潰されるような感覚は消えなかった。



 その夜、自室のベッドで天井を見つめながら、大樹は考えていた。


 ――人間とは何だ。

 ――なぜ、皆が笑顔の裏に殺意を隠して生きているのか。


 頭の中で声が渦巻く。


 ――(殺したい)

 ――(隠さなきゃ)

 ――(笑ってごまかせばいい)


 それは他人の声だけではない。


 ふと、自分の中からも似た声が湧き上がる気がした。


 ――(全部壊してしまえ)


 大樹は慌てて頭を振った。


 自分まで汚染されているのか。


 いや、最初からそうだったのか。


 人間は皆、心の奥に「狂気」を抱えて生きているのかもしれない。


 窓の外には、街の灯りが点々と瞬いていた。


 その一つ一つが、仮面を被った怪物の目のように見える。


 大樹は布団を頭までかぶり、震える声で呟いた。


 「……人間が……怖い……」


 世界はもう、元の色を失っていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ