第四章 世界の裏側
退院を許されたのは、事件から十日後だった。
傷はまだ完治にはほど遠く、背中を動かすたびに鈍い痛みが走る。だが、医師は「安静にしていれば問題ない」と言った。
問題があるのは体ではない――大樹自身もそれを理解していた。
病室を出る瞬間から、世界はもう以前のものではなかった。
廊下を歩くだけで、すれ違う人々の「声」が次々と流れ込んでくる。
――(また点滴の交換か、面倒だ)
――(不倫がバレませんように)
――(こいつの命なんて、どうでもいい)
笑顔を浮かべる看護師の口元と、その裏に潜む声のギャップが、刃物のように大樹の心を抉った。
耳を塞いでも意味がない。声は耳からではなく、頭の奥に直接響いてくる。
「……やめろ、やめてくれ……」
呻きながら病院を出ると、冷たい外気が頬を撫でた。
街はいつも通りに賑やかで、休日の人混みが商店街を埋め尽くしている。
だが、彼にとってその風景は「地獄」そのものだった。
すれ違う人すべてが、囁く。
――(隣の奴、臭いな)
――(殺してやりたい、あの上司を)
――(昨日の死体処理、まだ誰にも気づかれてないはず)
――(あの子、痩せたら付き合ってやるのに)
――(死ね、みんな死ね、俺以外)
無数の声が、滝のように押し寄せる。
人々の表情は明るく談笑しているのに、その内側は醜悪な本音で渦巻いていた。
大樹は頭を抱え、膝を折りそうになった。
「……う、ああ……」
逃げるように横道に入り、壁に背を預ける。
だが、そこでもすれ違ったサラリーマンの心の声が刺さる。
――(妻を殺して保険金を……)
吐き気が込み上げ、胃液が喉を焼いた。
自分が今まで想像していた「人間の裏の顔」が、実際にはそれ以上に歪んでいることを思い知らされる。
誰一人、純粋な心で生きていない。
笑顔も、優しさも、すべて仮面だ。
カフェの窓際に腰を下ろし、水を飲みながら震える手を押さえた。
ここはかつて、大樹が「人間観察」の拠点にしていた場所だった。
学生たちが談笑し、親子連れがケーキを頬張る。そんな平和な光景のはずだ。
だが、今の大樹には別の光景が見える。
――(俺の子じゃないかもしれない)
――(隣の友達を突き落としたら面白いだろうな)
――(笑ってるけど、心底馬鹿にしてる)
――(誰にもバレないなら、今すぐにでも)
甘い香りの漂う店内に、血と腐臭が染み込んでいくような錯覚。
カップを持つ手が震え、コーヒーが少し零れた。
人々は笑い続けている。だが、その笑顔の奥には暴力と欲望が渦巻いている。
大樹はかつて「人間は醜い」と想像して楽しんでいた。
だが、今は違う。
本当に醜いのだ。
想像ではなく、現実として。
「……俺は……何を見てるんだ……」
声にならない呟きが、震えた唇から漏れる。
帰り道。夕暮れの商店街。
事件のあった場所には、まだ花束が供えられていた。
通り過ぎる人々の心の声が、また流れ込んでくる。
――(こんな所で死ぬなんて運が悪い)
――(自分じゃなくてよかった)
――(犯人は英雄だ、羨ましい)
大樹は凍りついた。
事件の犠牲者を悼むどころか、多くの人間が「自分じゃなくてよかった」と安堵し、中には「羨望」すら抱いている。
それが人間の本質なのだろうか。
血の跡がまだ残るアスファルトを見下ろし、大樹の胸に寒気が走った。
――(誰もが、加害者にも被害者にもなり得る)
――(いや、誰もがすでに加害者の心を持っている)
視界の端で、再び「視線」を感じた。
事件当日、刺される直前に見た屋上の気配。
今も、誰かがこちらを見下ろしている。
大樹は顔を上げたが、屋上には何もいなかった。
それでも、心臓を握り潰されるような感覚は消えなかった。
その夜、自室のベッドで天井を見つめながら、大樹は考えていた。
――人間とは何だ。
――なぜ、皆が笑顔の裏に殺意を隠して生きているのか。
頭の中で声が渦巻く。
――(殺したい)
――(隠さなきゃ)
――(笑ってごまかせばいい)
それは他人の声だけではない。
ふと、自分の中からも似た声が湧き上がる気がした。
――(全部壊してしまえ)
大樹は慌てて頭を振った。
自分まで汚染されているのか。
いや、最初からそうだったのか。
人間は皆、心の奥に「狂気」を抱えて生きているのかもしれない。
窓の外には、街の灯りが点々と瞬いていた。
その一つ一つが、仮面を被った怪物の目のように見える。
大樹は布団を頭までかぶり、震える声で呟いた。
「……人間が……怖い……」
世界はもう、元の色を失っていた。