第三章 目覚め
闇の底から這い上がるようにして、大樹は目を覚ました。
重たい瞼をわずかに開けると、白い天井が視界に飛び込んでくる。
消毒液の匂い。機械の電子音。どこかで足音が響いては遠ざかる。
――病院だ。
胸の奥に鈍い痛みがあった。呼吸をするたび、背中に焼けるような感覚が走る。
意識が混濁し、記憶が曖昧に千切れている。
だが断片的に、赤黒い光景が蘇る。
商店街。刃物。悲鳴。倒れる人々。
そして――屋上から見下ろす誰かの影。
「……っ」
喉が乾き切って、声にならなかった。
ふいに、足音が近づく。カーテンの隙間から人影が差し込み、やがて白衣の医師が現れた。
背の高い四十代ほどの男で、落ち着いた声で告げた。
「気がつきましたか。あなたは大変な怪我をしましたが、命に別状はありません」
淡々とした説明。
奇跡的に主要な臓器は傷つかなかったこと、出血は多かったが処置が早かったこと。
安心してください――と、口では言った。
だが。
その声のすぐ裏に、別の声が聞こえた。
――(また運がいい奴だな。どうせ社会復帰もできず、うつ病にでもなるんだろう。病床を埋めるだけの厄介な患者だ)
「……え?」
大樹は思わず、声に出してしまった。
医師は怪訝そうに首を傾げる。
「どうかしましたか?」
大樹は口を閉ざした。
確かに聞こえたのだ。医師の唇は動いていない。けれど頭の中に、別の言葉が直接流れ込んできた。
ぞっとする。冷や汗が背筋を伝う。
そのとき、看護師がカルテを抱えて入ってきた。
柔らかな笑顔で「よかったですね、目が覚めて」と声をかける。
けれど次の瞬間、大樹の耳に別の声が重なった。
――(また面倒な患者が増えた。夜勤がさらにきつくなる。笑顔なんて作ってられない)
大樹は呼吸を忘れた。
目の前の二人は変わらず穏やかな表情をしている。それなのに、頭の奥に染み込むように「本音」が聞こえてくる。
いや、本音なのか? なぜ自分だけが聞いてしまう?
混乱で心臓が激しく打ち、胸が痛む。
「……っ、やめろ……やめてくれ……」
大樹はベッドの上で震えた。
医師と看護師は顔を見合わせ、不安げに首を傾げる。
「まだ意識が混乱しているようですね。落ち着いてください」
だがその裏で、彼らの「もう一つの声」は続いていた。
――(厄介だな。精神科に回すか?)
――(変な患者。関わりたくない)
耐えられず、大樹はシーツを握りしめ、頭を覆った。
しばらくして、母が病室に入ってきた。
泣き腫らした目をしていたが、息子の顔を見た途端、安心したように涙をこぼした。
「大樹……! 本当によかった、生きていて……」
母の手が大樹の手を握る。その温もりに一瞬、救われる気がした。
けれど、次の瞬間。
――(生き残ったのがこいつでよかったのか……? 優秀な子どもなら誇れたのに。どうして大樹だったんだろう)
「――っ!」
大樹の胸が凍りついた。
母は確かに泣きながら「よかった」と言っている。
それなのに、頭の奥ではまるで罪悪感と後悔が絡み合った声が響いていた。
「嘘だ……嘘だろ……」
母が驚いて顔を上げる。
「なに? どうしたの、大樹」
「心の中で……そんなこと思ってるんだろ!」
叫んでしまった。
母の表情が凍りつき、怯えたように手を離す。
病室に重い沈黙が落ちた。
母は「疲れてるのよ」と呟き、すぐに看護師を呼んで部屋を出ていった。
取り残された大樹の耳には、なおも微かな「声」が渦巻いていた。
廊下を行き交う人々の声。
――(めんどくさい患者)
――(早く休憩に行きたい)
――(また死体の処理かもしれない)
雑音のように押し寄せるそれらは、すべて「人間の裏側」だった。
夜。
病室の明かりが落ち、窓の外には月が浮かんでいた。
静寂に包まれているはずなのに、大樹の頭の中は騒がしかった。
あらゆる声が絶え間なく囁き、重なり合う。
――(人を刺してみたい)
――(あの患者、死ねばいいのに)
――(誰にも知られてないはず)
息が苦しい。
枕を抱きしめ、耳を塞ぐ。だが止まらない。
声は耳からではなく、もっと深いところから響いてくる。
「……助けてくれ……」
誰に向かって言っているのか分からない。
ただ、闇の奥でまたあの視線を感じた。
――「見えるだろう?」
商店街で刺されたときに感じた、屋上からの冷たい視線。
それが再び自分を覗き込んでいる。
声の洪水と視線の気配が絡み合い、大樹の理性は少しずつ蝕まれていった。
こうして彼は、自分の世界が元には戻らないことを悟りはじめていた。