第二章 血の午後
その日、大樹は珍しく大学の課題を早めに片づけ、昼過ぎに商店街へと出かけた。
目的は特になかった。部屋に閉じこもっていると、息が詰まるような圧迫感に耐えられなくなる。外に出ても人混みは嫌いだが、それでも「人間観察」ができるという意味では、繁華街は悪くない場所だった。
夏の午後、アスファルトから立ち昇る熱気が人々の顔を歪ませる。
ベビーカーを押す母親、キャリーケースを引く観光客、制服姿の高校生。皆それぞれの目的地へと急ぎ、すれ違っていく。
大樹はゆっくりと歩きながら、そんな人々の「裏の顔」を想像していった。
笑顔の母親は「子どもを重荷だと思っているのではないか」。
観光客の男女は「帰国すれば互いに別れを切り出すだろう」。
学生の笑い声は「互いに陰で刺し合っている」。
自分の想像が当たっている保証などどこにもない。
けれど、そう考えることで大樹は妙な安心感を得ていた。
――やはり、人間は信じられない。みんな心の奥では醜いのだ。
そんなときだった。
甲高い悲鳴が、通りの奥から響いた。
最初は誰かの喧嘩かと思った。だが次の瞬間、空気が裂けるような怒号と、肉を叩くような音が続いた。人々の足が止まり、次第にざわめきが広がる。
「逃げろ!」
その叫びを合図に、群衆が一斉に逆方向へとなだれ込んできた。
大樹は立ち尽くしたまま、目を凝らした。
人の波をかき分けるように、男が走ってくる。右手に光るのは刃物――。
その刃は、悲鳴をあげる人々の背中や腕に無差別に突き立てられていた。
男は一人ではなかった。
反対側の路地からも、同じように刃物を手にした若者が現れる。
さらに別の方向からも。
「なんで……」
大樹は呆然と呟いた。
商店街は瞬く間に地獄絵図と化した。
買い物袋が宙を舞い、ガラスが割れ、赤い飛沫が舗道を染める。
押し寄せる人波に押され、大樹は必死に身をよじるが、行き場を失った群衆の圧力に飲み込まれる。
目の前で少年が倒れた。背中に深々と刃が突き刺さり、口から血を吐いている。
大樹は息を呑んだ。その瞬間、背筋に冷たい感覚が走った。
――「見られている」。
恐怖の渦のただ中で、確かに誰かの視線を感じた。
犯人たちのものではない。逃げ惑う人々のものでもない。
もっと別の、冷静で、冷酷で、どこか愉悦を含んだ視線。
大樹の喉が凍りつく。
振り返ろうとしたとき、鋭い衝撃が背中を貫いた。
「――っ!」
刃が肉を裂く感触が、痛みよりも先に脳に伝わった。
呼吸が詰まり、膝から力が抜ける。視界がぐらりと揺れ、地面が近づく。
周囲の叫び声が遠ざかっていく中で、彼は視界の端に何かを見た。
群衆の奥、通りのビルの屋上。
そこに、誰かが立っている。
人影は微動だにせず、ただこちらを見下ろしていた。
逆光で顔は見えない。だが、その存在は確かに「観察者」だった。
まるで大樹の「人間観察」を逆に覗き返しているかのように。
「……誰だ……」
声にならない声が喉から漏れる。
次の瞬間、意識が闇に沈んだ。
断続的なサイレンの音が、遠くから近づいたり遠のいたりする。
誰かが泣き叫んでいる。誰かが名前を呼んでいる。
だが、それらはまるで濁った水の底から聞こえてくるようで、現実感はなかった。
大樹の身体は冷えきっていた。
背中を流れる温かい液体だけが、まだ自分が「生ている」ことをかろうじて示していた。
暗闇の中で、彼は再び感じた。
あの視線。
屋上から見下ろしていた何者か。
人間とは思えないほど静かで、感情の色を帯びない視線。
それが闇の奥からこちらを見続けている。
――「お前も見えるだろう」
誰かの声が、心の内に直接響いたような気がした。
「……誰だ……?」
答えはない。
世界が音もなく沈黙する。
そして、大樹の意識は完全に途切れた。