第一章 孤独な目
大樹は、人の輪の中に入ることが極端に苦手だった。
大学の講義室に入っても、自然と最後列の隅に座る。前方では数人の学生が笑い合い、誰かが冗談を飛ばすと教室の空気が弾むように和らぐ。けれど、その波の中に大樹が入り込むことは決してなかった。笑顔を作ることはできる。表面的な相槌も打てる。だが、心の奥から湧き出る「共有」はどこにもなかった。
人間の群れに自分が混ざると、全身の皮膚が薄い紙のように乾いてひび割れ、そこから冷たい風が吹き込んでくるような、どうしようもない居心地の悪さに苛まれる。だから、彼は一歩引いた場所から他者を見つめる癖を身につけた。
唯一の趣味と呼べるものが「人間観察」だった。
カフェの隅でコーヒーをすすりながら、窓際に座るカップルの視線の動きを追う。
彼女は笑顔を見せながらも、わずかにテーブルの下で組んだ足を揺らしている。退屈しているのかもしれない。彼は気づかず、やや声を張り上げて自慢話を続けている。大樹は心の中で呟く――「そのうち彼女は浮気するだろう。男はそれに気づかず惨めに泣く」。
電車に乗れば、座席に腰かけるサラリーマンの顔を観察する。
目の下の隈は濃く、スーツの肩口はほつれている。スマートフォンの画面を凝視する指はかすかに震えていた。大樹は思う――「きっと借金か、不倫の発覚か。どちらにせよ、家庭は崩れる」。
見知らぬ人々の仕草、目の動き、唇のかすかな歪み。
そこから「心の裏側」を勝手に想像するのが、大樹の日常だった。
だが、その想像は決して明るいものではなかった。
彼の視線の先に描かれるのは、裏切り、不信、暴力、孤独――人間の暗い側面ばかりだった。まるで、他人の笑顔を見るたびに「その奥に潜む腐臭」を確かめずにはいられないかのように。
「人は皆、仮面をかぶっている」
それが、大樹が十代の終わりまでに辿り着いた結論だった。
もっと幼いころは違った。彼もまた友達を欲し、笑い合いたいと願った。だが、ある時から気づいてしまったのだ。
友達だと思っていたクラスメイトは、陰で彼をからかいの対象にしていた。
家庭の中でさえ、母親は「大丈夫、信じてるよ」と言いながら、実際には彼を心配ではなく失望の目で見ていた。
表の言葉と裏の感情が食い違う瞬間を、大樹は何度も目撃してきた。
だからこそ彼は、他人の笑顔を信じられなくなった。
いや、信じてはいけないと自分に言い聞かせていた。
大学に入ってからも、状況は変わらなかった。新しい環境、新しい出会い。だが人間関係の築き方は分からない。輪の中に入ろうとすれば、声が震え、呼吸が浅くなり、全身が拒絶反応を起こす。だから彼は、最初から孤立を選んだ。
「どうせ裏切られるなら、最初から近づかないほうがいい」
そういう生き方は確かに孤独だった。
けれど大樹にとって、それが唯一、心を守る方法でもあった。
ある晩、大学帰りの電車で、大樹はふと窓に映る自分の顔を見た。
無表情。血の気のない唇。目の奥に宿るのは暗い影。
「俺は……人を見てるつもりで、結局は自分の醜さを映してるだけじゃないのか」
そんな思いがかすめた。だが、次の瞬間には打ち消す。
「いや、違う。人間は皆、そういうものだ。俺だけじゃない」
そのとき、反対側の座席で、女子高生が友達と笑っていた。
屈託のない笑顔。明るい声。
だが大樹には、その笑顔がまるで「仮面」に見えた。
――「どうせ裏で悪口を言い合っているんだろう」
心の中で毒を吐き出すと、不思議と少し安心する。
他人を疑うことは、彼にとって自己防衛の儀式のようなものだった。
家に戻ると、母は夕食を用意していた。
「おかえり。今日はどうだった?」
母は笑顔を見せる。
大樹は「普通」とだけ答え、自室にこもる。
母の笑顔の裏に、どんな感情が潜んでいるのか―― 大樹には想像することしかできない。
夜、布団の中で目を閉じると、今日観察した人々の顔が浮かんでくる。
笑う女、黙る男、疲れた母親、虚勢を張る学生。
その一人一人の裏側に、必ず「歪んだ心」を描き加える。
そして最後に浮かぶのは、自分自身の顔。
「俺の裏側には……何がある?」
答えは見つからない。だが確かなのは――
人間は恐ろしい。
誰一人として信用できない。
それが大樹にとって、唯一の真実だった。
そして彼はまだ知らない。
この歪んだ観察癖が、やがて彼の運命を大きく狂わせることを。
人間の心の奥底に触れてしまう「目覚め」が、もうすぐ訪れることを。