まずは建設会社を買収し、開発部を作ろう
「社長! 開発部の提出書類はひどすぎましゅ!」
あ、噛んだ。まあ、どうでもいい。
あいつが消えたあと、その成果を仕事にするために人を雇うことにした。俺だけでは管理が追いつかない。実務は増える一方だし、営業もかけていかなくてはならない。
この十年間、あいつの研究に何百億も投資したが正直わからない。だが、あいつはマメでそれなりに貢献してくれた。トータルではマイナスだが、利益がまったく出ていないわけではない。主に権利関係の譲渡による収益だが、これがなければ支援は続けられなかった。今はまだマイナスだが、権利関係には将来プラスになる可能性があるのが救いだ。
先日の「消える」宣言には困ったが、あいつが提携できそうな会社をピックアップし、リスト化して送ってくれた。裏事情まで含めて、「このくらいの価格で買収すればいい」とまで提示している。
それを気持ち悪いと思うか? 営利企業は存続するために利益を上げ続けなければならないのだ。今のところ、まだマイナスだが。
そうして、このミニマムな会社に初めて営業部ができた。……マジか? 営業がいなかったのか、この会社?ま、二人だからそうか。
まあ、俺の人脈でなんとかなってきたから俺が営業だったということだな。しかし、これからは真面目に事業をしなければならない。
そこで、あいつが推薦してきた会社の中から、後継者不在で畳もうとしていた建設会社を買収することにした。買収の話は簡単ではなかった。相手企業の社長は引退を決めており、社員の将来に強い不安を抱えていた。特に年配の社員にとって、急な環境の変化は大きな負担となる。そこで退職金は通常より割増して支払うことを約束し、実質的には他の会社への転職という形を整え、定年まで働ける環境を用意したのだ。
買収にあたっては事業の引き継ぎだけでなく、社員の生活や福利厚生にも細心の注意を払った。旧経営陣と密に連絡を取り合い、社員一人ひとりの希望や意見を聞き、できる限りスムーズな移行を目指した。転職を希望する社員もいたが、新たなキャリアパスの提示などを行い、不安の軽減に努めた。
また、買収した会社の拠点は自社ビルを持ち、重機などの設備も充実している。これを活かして建設現場の作業効率や安全管理の向上に取り組んでいる。若手社員にはIT教育を徹底し、従来の現場作業に加え、新しい技術を活用した営業や企画にも挑戦させている。こうした取り組みが、旧態依然とした体質からの脱却と、未来志向の組織づくりの第一歩となっている。
買収後の調整期間は決して楽ではなかったが、今では社員の多くが新体制に馴染み、変化を受け入れつつある。特に四十代前半までの社員には「変化についていける者は残れ」というメッセージを伝え、日々の業務と並行してITパスポートの取得を義務付けている。これによって、建設業界の枠にとらわれない新しい価値創造を目指す会社の土台が少しずつ形作られているのだ。
俺はITパスポートは持っていないが、ITSS Level4の資格をいくつか取得しているので問題ない。
ああ、そうそう。ついていけそうにないと言った中堅以下の社員には割増退職金を払って円満に退職してもらった。
意外だったのは工事部の職人たちだ。年配者も多く、半減どころか全滅も覚悟していたが、建設機械の分野は新しい機械が次々と登場し、各種免許取得が日当アップに直結するため、日々の勉強は当然のことだったらしい。そのため工事部に限っては、五十代の社員も含めて全員が付いてきてくれた。
高卒どころか高校中退の職人もいる。学歴だけで人を判断できないものだと改めて思った。日銭を稼ぐ工事には職人が不可欠で、本当に助かった。壊滅的に英語ができなくても、数文字の単語の意味を理解するのは問題ないらしい。つまり機械を扱うだけなら、経験を積めるということだ。
冒頭の開発部はあいつを中心に、オーバードクターなど職を失い困っている大学院生――博士論文を書き続けているが生活に困りバイトなどをしている連中――をあいつにノミネートさせ、俺が直接面接した。
さすがに博士論文候補ともなると、修士風情の俺が読んでも詳細はさっぱりわからないことが多いが、日本語と英語で出してもらえば英作文能力を含め理系的リテラシーはある程度判断できる。あいつの推薦がある時点でOKとみなし、俺が承認すれば採用だ。
難しいことはない。ある程度真面目に働いてくれればいい。1時間の面接で全てを把握することはできないが、俺も一般企業経験があり、それなりに勘所は掴める。七十点以上なら採用に値する。百点満点は逆に珍しいし、必ずしも良いとは限らない。
だから、俺が「人が足りない」と言った時に、あいつが建設会社買収を提案してきたときは驚いたが、結果的には納得だった。よくもこんな会社を知っていたものだ。
その結果として、一時的なマイナスはさらに膨らむことになったのは言うまでも無い。
……
少なくともこの会社の慣習として、夜間工事の待機がある場合、待機時間は残業時間に含めず、食事だけは提供する、というものがあった。その規程が不明瞭だった。
なので、会社からの移動時間が1時間を超える場合は移動時間前後1時間を含めて作業時間+2時間、それ以下の場合は作業時間+1時間、あとは従来通りの食事提供とした。
以前はよっぽど遠いとき以外は作業時間のみだった。かつ、規程になっていなかったので「なんとなく」の時間だったそうだ。基本的に残業代は増える方向になるので職人達からは好評だ。
開発部は「みなし残業」で、残業ゼロでも数百時間でも給料は変わらない。その代わり、勤務時間外なら自分の論文も会社の設備を使って書いていいことになっている。
前述したとおり、買収した会社は自社ビルを所有し、重機なども揃っているため、駅からは遠い。だが、宿直室や待機用個室、シャワールーム、調理室があり、冷蔵庫も大きい。
なので、食事提供を職人に限らず、希望者全員にしてみるというのも『福利厚生の機会均等』の一環だった。
調理は腕に自信のある社員がで担当し、朝は七時半に朝食、昼は希望者全員に昼食、夜は十九時半に夕食を提供する仕組みだ。中会議室という名だが、実質的には食堂として機能している。
調理がボランタリーベースなのが仕組みとしてはイマイチだが、調理人を雇うほどではないし、調理時間も給与支払い対象の勤務時間とすることでバランスを取った。
当然、待機職人の食材費は買収前も今も会社負担だが、運用方法は変更した。
酒類は提供しないが、自己負担で買って冷蔵庫に入れるのは黙認している。夕食時は飲まず、その後に勝手に飲む分には問題ない。ただし、夜間工事待機の職人がいる時はその前では呑まないように徹底させている。
偏見かもしれないが、職人は酒好きが多い気がするし、食堂の一角で飲んでいる面子がいるのに自分だけ飲めないのはイラつくだろうと配慮?になっているのかならないのか、という話だが まぁ俺も適量なら飲みたいタイプなので、そうなんじゃないかな、くらいの話だ。
開発部、職人達も含めてみんな納得していたのでそれでいいだろう。
もちろん、夜間工事上がりで、本日日勤帯はお休みの、一杯やりたい職人たちが通称職人部屋こと機材室で、朝から飲んでいても黙認だ。車で通勤していないのなら、という当たり前の前提が付くが。機材室は騒音が出る前提の部屋なので、防音や換気もしっかりしている。社内を含め、多少騒いだくらいでは周囲に迷惑を掛けることはない。
以前は隠れてやっていたようだが、回りには朝から呑める飲食店はないし、公認の黙認という微妙だが安定した状態になった。
しかし、俺としては頭の痛いことに、三食ベッドありに魅力を感じすぎた開発部の社員の一部が会社に“住みつく”ような状態になってしまった。朝から晩まで仕事に没頭し、平日はもちろん、週末もろくに帰宅せず会社に居座る。中には私物をロッカーどころか個室に持ち込んで、まるで寮生活のように暮らしているやつまで出てくる始末だ。どう良いほうに表現してもショボくて狭いカプセルホテルが関の山だが、研究室の硬くて冷たい床で寝袋で寝るよりはずっと快適なんだそうだ。『まぁ、そりゃそうだろうね』としか言いようが無い。
これはさすがにまずいと感じた。健康面や労務管理上の問題ももちろんだが、なによりも「そういう生活が普通(美徳?)にしてしまう空気」が蔓延するのがイヤだった。根詰めすぎて燃え尽きるやつも出るだろうし、一時的な成果なんていらない。これは投資なので長期保有が前提なのだ。そもそも会社としてそんな働き方を許可していると思われたくもない。それなら、夜勤明け本日代休職人の深夜工事お疲れ様会のほうがずっと許せる。何ならビールか酎ハイを一人2缶までにしてくれるなら、月一くらいなら差し入れしてもいいほどだ。500の缶でもいいぞ。
だから、就業規程を改正し、開発部に限り金曜十八時までに完全シャットダウン、全員強制帰宅にしたのだ。
ところが――だ。そうしてもなお、月曜の朝早くからやってくるやつがいる。別に納期や締め切りが迫っているわけではなく、ただただ、自分の研究が面白くてたまらない。寝ても覚めても実験や論文、計算やデータ処理のことばかり考えている。こういうのは「真面目」とか「努力家」とかいう話ではなく、完全に「研究バカ」だ。
別に命令されているわけでもなく、自発的に、しかも楽しそうに仕事・・・というか仕事兼自発的研究をし続ける。こちらとしても「働くな」と言うのも変な話だし、好きでやってるし、採用時にこの会社のメリットととして提示していた事実もある。
正直なところ、そういう連中の中から本当にでかい発見や成果が出てくることは否定できない。ただ――会社、経営者としてそれを放置しておくわけにもいかないし、無理に止めると逆に彼らのモチベーションにも影響する。
結果として、いまのところは「金曜十八時で強制シャットダウン」だけは維持しつつ、それ以外はある程度黙認している状態だ。ただし健康診断は最低年イチ、労働時間ではなく滞在時間によって6ヶ月、3ヶ月毎と短期の義務化とし、産業医も契約して悪質というか長期滞在群は毎月の体調チェックの面談を義務とした。
まあ、俺としては――「研究バカ」は嬉しい悲鳴だが、燃え尽きるの困る――それだけのことだ。元から何年もかかる研究だというのはわかっている。成果が出るには10年以上かかるかもしれない。その時まで社員でいてくれれば、いろいろと・・・いやほぼお金か。で成果を配分できるんだ。
話を食事に戻すが、これらを全て福利厚生費として処理すると税務署とトラブルになる可能性があるため、顧問税理士に相談し、社員用の申請フォームを作成。会社が提供すべき食事とそうでない食事を区別し、毎週提出してもらう形にした。
職人達の待機のための食事の食材費は前年度までの税務申告に入っているので、税務署としても新たに文句は付けづらい。ただ、希望者全員に拡張してしまうと、実質的給与と捉えられる可能性があるのだ。
原価は概算で構わないらしく、取り敢えず一食三百円で固定だ。これは顧問税理士を通じて税務署に確認済みだ。まったく面倒だが、こういうのを一々確認しておかないと税務調査で揚げ足を取られる。
「清水さん、開発部の何がひどいの?」