別れ
私たちの愛と涙の告白から、約半年が過ぎた。
年が明け、季節はしっかりと冬になっていた。
私たちは今も変わらず交換日記を続け、たまに漆串公園で会うという日常を送っていた。
そして、告白してから変化したことが二つあった。
一つは、秋斗が携帯を持つようになったこと。
今までは交換日記だけの連絡手段だったが、それだとさすがに不便すぎるということで、二人で香菜さんにおねだりしたら即オーケーが出た。実は、香菜さんも秋斗には安全を兼ねて携帯を持ち歩いてほしかったのだと、私にだけこっそり教えてくれた。ちなみに、香菜さんには私たちのことを秋斗と付き合うことになった日に報告済みだ。つまり親公認。片方だけだけれど、こんなに心強いことはなかった。秋斗は香菜さんに知られるのを最後まで渋っていたが。
二つ目の変化もそれに関係していて、秋斗の家でも会うようになったこと。いわゆるおうちデートだ。香菜さんはよく気を利かせてくれて、何かと理由をつけて外出し、秋斗と二人きりになれるようにしてくれる。
ただ、私には一つ不安があった。
秋斗が忘れっぽくなったのだ。
いや、忘れっぽいのは元々、というか承知の上なのだが、長くて六時間、短いと二、三時間で眠ってしまうようになったのだ。────だから家で会うことが増えたとも言えるのだけれど────秋斗が眠った後は私が部屋をこっそり抜けて一階に下り、しばらく過ごしていると起きて日記を読み終えた秋斗が下りてきてまた話し始める、というルーティーンができあがっていた。
なんだかへんてこなカップルだが、私たちはこれでいい。これがいいのだ。
❖ ❖ ❖
ある日の午後、早めにお暇することにして、おじゃましましたーと秋斗の見送りを受けながら家を出ようとすると、ちょうど香菜さんが帰ってきた。
「あらあら夕凪ちゃん!いつもありがとうねえ〜」
「いえ……!こちらこそです!」
すると香菜さんは玄関にいるであろう秋斗のことを気にしてか、少し声のトーンを落とした。
「……夕凪ちゃん、帰ろうとしてるところ申し訳ないんだけど、今から少し話せるかしら?」
いつもはつらつとして元気な香菜さんが、明らかに暗い表情に変わっていくのが分かった。
私は何かあると思ってこくり、と頷き、香菜さんが歩いてきた道を二人で戻った。
「うーん、何から話せばいいのかしらねえ……」
少し考えて、香菜さんはこう切り出した。
「秋斗とはうまくいってる?あの子時々何考えてるか分かんないから、扱いづらいんじゃない?」
「そんなこと、ないです。秋斗くんにはいつも良くしてもらってます」
「そう?それならいいんだけど……」
それから少しの間沈黙が流れ、香菜さんは突然歩みを止めた。
「……あのね、夕凪ちゃん。話さなきゃとは思っていたんだけれど、あの子には口止めされていたから。今になって言うこと、私の口から伝えることをどうか許してね」
そう言って、香菜さんは私にすべてを教えてくれた。
❖ ❖ ❖
家に着くなり、私はただいまも言わずに二階に駆け上がり自室に入って勢いよくドアを閉めた。途端に体中の力が抜け、へなへなと床に倒れこむ。
────香菜さんの『話』は、秋斗の脳についてだった。
実は秋斗の脳は、だんだんと悪くなっているらしい。
私は医療の知識がないので香菜さんの話を聞いても理解しきれなかったが、要するに秋斗の記憶が保つ時間が減ってきているというのは私の気のせいではなかったらしい。
香菜さんが私にも分かるように丁寧に噛み砕いて説明してくれたが、脳の傷ついた部分が今になって悪くなり、秋斗の記憶力にも影響を及ぼしているというのだ。
それは私も薄々気づいていたので、それだけなら私も受け入れられた。今まで通りにしていれば大丈夫だと思ったからだ。
だが、香菜さんの話には続きがあった。
────秋斗、もう長くは生きられないみたいなの。
香菜さんの弱々しく掠れた声が頭にぼんやりと響く。
私はその先の香菜さんの話はどうしても頭に入ってこなかった。でも人間とは嫌なところでしっかりしているもので、もって三ヶ月ほど、という数字だけが頭に残っていた。
秋斗が、死ぬ……?
どうして?
なぜ?
あまりにいきなり目の前に突きつけられた最悪の事態に、私は疑問を浮かべることしかできなかった。私はそんな私が憎くて、悔しくて、自分のことを生まれて初めて心の底から嫌いになった。
私はのっそりと重い腰を上げて立ち、少し歩いてベッドに倒れこんだ。
それから、枕に顔をうずめて声を押し殺して泣いた。
秋斗……。秋斗、秋斗。
どうして言ってくれなかったの?
いつから知ってたの?
どれくらい前から秋斗は苦しんでいたの?
ねえ秋斗。
私は、そんなに頼りない彼女なの────?
聞きたいことは山ほどあったが、その日はやるべきことをすべて放棄し、携帯すら触る気になれなかった。
❖ ❖ ❖
次の日、目が覚めてすぐ、私は絶望した。
夢だったら良かったのに。
枕には涙のシミがくっきりと大きく残り、服は昨日着ていたもののまま。しわくちゃになったスカートも気にせずに、私はもう一度ベッドに潜り込んだ。
その日も秋斗と会う約束をしていたが、とてもこの泣き腫らした顔は見せられないし、秋斗の顔もまともに見られそうになかった。
昨日の昼間ぶりに携帯を起動すると、香菜さんから何度もメッセージや電話が届いていた。私は香菜さんならすべて知っているから、とメッセージの入力画面を開いた。
────ご連絡に気づけず、すみません。今は少し考える時間が欲しいので、秋斗くんには『今日は用事ができて会えなくなった』とお伝えください。ご迷惑をおかけして申し訳ないです。よろしくお願いいたします。
送ってすぐ、香菜さんから返事が来た。
────分かったわ。でも私は夕凪ちゃんに伝えたことを後悔していないし、正しい選択だったと思っているの。ごめんなさいね、親のエゴで。これからのことは二人で話し合って決めるのが良いと思うわ。秋斗に会えるようになるまで、私で良ければ話聞くからね。とりあえず、今日はゆっくり休むように!
まるで本物のお母さんのような香菜さんの文面を読み終わってから、スタンプで返信をして画面を閉じた。
香菜さんは間違っていない。むしろこんな他人にも大事なことをきちんと話してくれて、さらに私のその後まで気にかけてくれる香菜さんには感謝しかなかった。
……秋斗、今何してるかな。
時計の針はすでに午前十時をまわっていた。この時間帯だと、秋斗は一回目の仮眠を取っている頃だ。電話しても出ないだろう。そう理由づけて、私は秋斗に連絡することから逃げた。
怖かった。
ただ、ただ怖かった。
秋斗を失うことが。
秋斗が私の隣からいなくなることが。
秋斗のいない世界なんて、想像もしたくない。
秋斗は私の大半を占める、心の拠り所になっていた。
私は枯れたと思っていた涙がまた溢れてきたことに気づき、もうどうにでもなれと感情に任せて泣き続けた。
❖ ❖ ❖
夜になってもずっと部屋から出てこない我が娘をさすがに心配したのか、母が部屋の扉をノックした。
「夕凪?起きてるの?ご飯、食べないの?」
「……ごめん、食べれない。食欲、なくて」
「そう……分かった。食べたくなったら言ってね、いつでも準備するから」
「……うん、ありがとう……」
トントントン、と階段を下りる音が遠くなってから、私は重くだるい体を無理矢理起こした。
食べる気にはなれなかったが、どうしてか交換日記は書く気になった。
自分の机に向かい合い、日記帳を開いてペンを持つ。ここまですれば自然と言葉が出てくるだろうと思っていた私は甘かった。今まさに書こうとしたページの裏に書かれた秋斗の文字。もう半年以上、毎日見てきた少し右上がりのスタイリッシュな筆跡。文の一番最後に書かれているお決まりの「好きだよ」の四文字。
日記帳のそこかしこから秋斗の存在を嫌でも感じさせられる。当たり前だ、日記は秋斗とつけているのだから。
私はまた泣きそうになったが、ぐっと飲み込んだ。
────私は、秋斗と最後まで生き抜くと決めたのだから。
一晩と一日、しっかり自分の頭で考えて、そう決意した。何があっても、何が起きても秋斗と離れたくはない。その気持ちは揺らぐことがなかった。
でも、秋斗が自分の口から私に伝えてくれなかったのは悲しかった。どうしてもそこだけは、秋斗本人から聞かせてほしかった、という醜い考えは拭いきれなかった。
だから、私も『言わない』ことにした。何も知らないふりをして、今まで同様普通に振る舞う。それが、私にできる秋斗への唯一の恩返しだと思ったのだ。
カレンダーアプリを確認すると、次秋斗に会う約束をした日はちょうど一週間後だった。
一週間で気持ちを切り替えて、秋斗に会えるだろうか。秋斗の顔を見ても泣かずにいられるだろうか。秋斗と何を話そう。どうやって話をしていたっけ。不安要素は挙げればきりがなかったが、ただ純粋に、秋斗に会いたいという気持ちのほうが強かった。
だから私は、できるだけ早く脳内を整理して切り替えられるように引き出しからノートを引っ張り出した。
ひと昔前に流行ったキャラクターがでかでかと表紙にプリントされたノートは、去年のクリスマスに秋斗からプレゼントされた文房具セットのうちの一つだった。
表紙にペンで『秋斗』と書いて、ノートを開く。一ページ目に私はこう書いた。
────秋斗とやりたいことリスト
そう、考えに考えた挙句私が出した答えは、『秋斗とやりたいこと』をノートに書き出すことだった。ドラマなどで見てきた作業をまさか自分が実践する日が来るとは思ってもみなかったが、成績が中の中である人間の頭からひねり出されるアイデアはこのぐらいしかなかったのだ。
私は次のページに
────紫雲山にもう一度登る
と書いた。不思議なことに一つ書くとすらすら出てきて、私は夢中でペンを走らせていた。
『漆串公園でお花見をする』『夏祭りにもう一度行く』
『栗拾いに行く』『バレンタインにデートをする』
四季折々、思いつく限りの秋斗とやりたいことを一ページに一つ大きく書き出して、私はノートを最後のページまで埋めようとした。
しかし、ここは秋斗に書いてもらおう、と思って最後から二番目のページで終わることにした。でもどうやって書いてもらおう……黙っておくと決めたし……。
うんうんと唸りながら考え始めた私の机の上、開きっぱなしにされた最後から二番目のページ。そこには
────秋斗と結婚式(仮)がしたい
と書いていた。
❖ ❖ ❖
一週間後、秋斗の余命の話を聞いてから初めて秋斗の家に行った。この一週間、秋斗とは一回も連絡をしなかった。交換日記は続けていたので、秋斗が元気だということは分かっていた。
ピーンポーン。
私は緊張しながらチャイムを鳴らした。
すると中からものすごい音が聞こえて、信じられないスピードでドアが開いた。そこには、泣き出しそうな顔をした秋斗がいた。私は動揺しつつも、いつものように
「こんにちは」と笑った。
すると、秋斗はとうとう涙を流し始めた。人通りもあったのでこれはまずい、と思い、私は泣いている秋斗をぐいぐいと家の中に押し込み、ぱたんとドアを閉めた。その間秋斗は玄関の段差に座り込んで膝を抱えていた。小さいが、まだ泣き声は聞こえてくる。
「……秋斗」
「……」
「秋斗」
「何」
「こっちの台詞だよ。どうして急に泣くの?」
秋斗はばっと顔を上げ、信じられないという表情をした。
「だって、聞いたんだろ」
「え」
「母さんから聞いたよ。夕凪ちゃんに言ったって。僕がいつまでもぐずぐずしてるからだって」
「……」
香菜さん……。
私の決意が音をたてて崩れ落ちていった瞬間だった。
もう知っていることを本人に知られているのならば仕方ない、と私は秋斗の手に自分の手を重ねた。大切な話をするときはこうすることが二人の間での暗黙の了解だった。
「秋斗。あのね、私考えた。足りない頭を必死に使って、たくさん考えた。それで決めたの。秋斗と最後まで一緒に過ごすって。秋斗と絶対に離れないって」
「どうして」
「どうしてって……そんなの、決まってる。秋斗が好きだからだよ。大好きで、大切な人だからだよ。この世で一番」
「夕凪……」
私は小さい子どもに言い聞かせるように、続けた。
「秋斗に何があっても、秋斗は秋斗なの。私のこと、日記を読んでもすぐ忘れちゃうぐらい秋斗の記憶力が弱くなっても、私が秋斗を覚えてるから、秋斗のそばにいたいの。秋斗がどれだけ嫌がっても、絶対に離れないし離さないから。だから、秋斗の貴重な時間、私に少し頂戴?」
秋斗は一度止まったはずの涙をまた流しながら、こくこくと頷いた。私はそんな秋斗が愛おしくてたまらなくなって、秋斗の手を放して抱きしめた。かつて秋斗が私にしてくれたように、一生懸命嗚咽をこらえようとする秋斗のことを大切に、大切に抱きしめ続けた。
❖ ❖ ❖
「やりたいことリスト?」
「そう」
私はこっそり持ってきていたノートを秋斗に渡した。
秋斗はノートを何枚かぺらぺらとめくり、急にぱた、と閉じた。
「……」
「どうしたの?」
「いや、これ以上読んだらまた泣いちゃうから。これ以上夕凪に格好悪いところ見せられないから」
私の彼氏は時々本当に幼い一面を見せる。まあそういうところも好きなのだけれど。
「はいはい、分かったから。とりあえず私がいないときにでもひと通り目を通しておいてね」
「分かった」
「で、最後のページなんだけど」
開いてみて、と秋斗を促す。今度はすんなりと最後のページを開いた秋斗は、目を丸くした。
「……どう?」
「どうって、え?何これ、逆プロポーズ?」
「あ、確かにそうなるね」
「いやいや、『そうなるね』じゃないでしょ。こんなに軽いプロポーズある……?ていうかプロポーズは僕からしたかったのに……」
一言発するたびにどんどん声が小さくなっていく秋斗を見て、私は笑いを我慢するのに必死だった。
「まあまあ。で、どう?これが私の一番やりたいことなんだけど、秋斗は?」
「そりゃ……結婚式はしたいけど……」
どうも煮え切らない秋斗の返事に、私は首を傾げた。
「したいけど?何?」
「……夕凪、まだ結婚できない歳じゃないか!」
「はっ?」
あまりに当たり前のことを言った秋斗に、今度は遠慮なく大いに笑わせてもらった。私が笑っている間秋斗はむすっとした顔で私を睨んでいたが、私はお構いなしに笑い続けた。
「だって、そうだろ?夕凪、まだ十七歳じゃないか!」
「そりゃそうだよー、ああ面白い」
「じゃあどうやって叶えるの」
頭の上に疑問符を浮かべている秋斗に、私はタネ明かしをしてあげた。
「いい?実は今まで言ってなかったけど、私の誕生日は二〇〇七年の三月十九日なの。要するに早生まれ。で、秋斗の誕生日は二〇〇六年の十月十二日。つまり、私たちは同じ学年!」
そこまで一気に話すと、秋斗はありえないといった様子で口元を抑えた。それもそのはず、今まで秋斗はずっと自分が年上だと思い込んでいたのだから。
とはいえ私がこの事実に気づいたのも最近の話で、私もある日偶然香菜さんに秋斗の生まれ年と誕生日を聞いて驚いたものだ。
「え、じゃあ僕は今の今まで、夕凪を子供扱いしてたってこと?……うわ、ごめん。やば、めっちゃ恥ずかしい」
「いいんだよー、別に。気にしてないし、実際秋斗が年上なことに変わりはないんだから!ちょこっとね」
「……最後の一言、要るかな」
「えー?」
それから、今度は二人で笑い合った。
❖ ❖ ❖
秋斗と私の間に秘密がなくなったあの日から、一ヶ月と約二週間が過ぎた。
秋斗はだんだんと外出を制限されるようになり、ついにはベッドから動けなくなった。
動けなくなるまでの時間、私たちはできる限り『やりたいことリスト』を実行していった。ただ季節の行事はどうしても出来ないものが多かったので、それらはだんだんと『憧れ』に変わっていって、最後には太いマジックペンで塗りつぶされた。叶えられないことが分かっている『憧れ』をノートに残しておくのは私も秋斗もつらかったので、二人で決めたことだった。
残る『やりたいこと』は、最後から二番目のページに書かれた結婚式だけになっていた。やろうと思えばいつでも実行できたが、会場などの調整がいろいろと難しく、さらに秋斗の体調もあったため何となく先延ばしにしていた。
❖ ❖ ❖
────その日の朝は、珍しく雪が降っていた。
秋斗の体調が悪かったので、前日から香菜さんに無理を言って泊まらせてもらった。
「……秋斗?おはよう」
朝になって私は目を覚まし、秋斗に声をかけたが返事がなかった。ベッドにもたれかかるかたちで寝ていた私は体中が痛く、さらに右手は秋斗の左手と繋がっていた。
だんだん意識がはっきりしてきて、はっと嫌な予感がした。
いつもひんやりしていた秋斗の手が、さらに冷たくなっていた。
「秋斗?……秋斗、秋斗。秋斗?」
何度も名前を呼ぶが、秋斗は目を覚まさない。
震える手を伸ばし、秋斗の口元に当て、次は手首に当てた。最後に秋斗の左胸に手を置き、確信した。
「……秋斗。今まで、よく頑張ったねえ……。お疲れ様」
不思議と涙は出なかった。
窓からは雪が反射した光が差し込み、眠るように息を引き取った秋斗の柔らかい表情を優しく照らした。
──── 郡崎 秋斗。享年十八。
晴れているのに雪が降っていた、少しおかしな天気の日の朝、秋斗は私との最後の約束を一つだけ叶えることが出来ないまま、遠くへ旅立っていったのだ。
『夕凪!』
彼が私を呼ぶ声が、どこかから聞こえた気がした。