表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/12

伝えるということ

 それから私たちは、交換日記を続けた。

 夏休み中は私も余裕があったので、ほとんど毎日漆串公園で会ったり、暑くなってきたら涼しい図書館で話したり、天気のいい日の夕方はたまに紫雲山に登ったりもしていた。


 どれだけ話しても、話題は尽きなかった。

 私は私の学校のこと、家のこと、私の昔話、百合子のことも話した。

 秋斗は基本的に私の話をうんうんと聞いてくれていたが、時々思い出したように自分の話もしてくれた。秋斗が話す話題は当たり前だが大体が中学の頃の話で、中学では吹奏楽部に入っていたこと、トロンボーンを担当していたこと、中学の頃は学校の成績が良かったことなどを自慢気に、楽しそうに話してくれた。

 ただ唯一、友だちの話はしてくれなかった。

 秋斗はこんなに人懐っこい性格で話すと面白いのに、中学では友人がいなかったのだろうか。

 でも余計な詮索だと私は自分に言い聞かせ、秋斗の友人の話はあえて聞こうとしなかった。いつか秋斗が話してくれると信じて。

 

 そして、秋斗は夕方になるとよく自分の将来の話をする。

 将来何になりたいか。何が目標なのか。でも本当に自分にできるのか、不安なんだとも打ち明けてくれた。


 夏休みも終わりかけていたある日、秋斗が今日は家に来ないか、と誘ってくれた。私は少し躊躇ったが、秋斗に「母さんに夕凪ちゃんの話をしたら、ぜひ来てほしいって言ったんだ」と言われてしまったので断るに断れなかった。……という感情とは裏腹に、秋斗の生まれ育った家に行けるということが単純に嬉しかった。


 ❖ ❖ ❖


「あらあ〜いらっしゃい!まあまあまあ、この子が噂の夕凪ちゃんね!やだもう、お人形さんみたいに可愛らしいわあ」

 秋斗とは随分とテンションの差がある秋斗のお母さんに、私は驚きつつも挨拶を返した。

「はじめまして、春海夕凪と申します。秋斗くんにはいつも仲良くしてもらっ……」

「はいはい、もうそんな硬い挨拶いいから〜!さ、上がって上がって!ケーキ買ってあるのよ、モンブランはお好きかしら?」

「えっ、あっ、はい!好きです!」

「そう!それは良かったわ〜!紅茶もあるわよ!」

「あっ、ありがとうございます……!」

 元気いっぱいのお母さんだね、と秋斗に小声で耳打ちすると、秋斗は疲れ気味に唇を片方だけ上げて、はは、と乾いた笑いを漏らした。どうやら秋斗は毎日このテンションに一回一回慣れなければならないので、記憶こそなくとも心労が溜まっているようだった。

 秋斗は何も言わなかったが、表情からそれが伝わってきたので、私もそれ以上は何も言わないことにした。


「これが、生まれた頃の秋斗よ。で、こっちが二歳の頃の秋斗。可愛いでしょう?」

「はい……!とても可愛いです……!」

「そうでしょうそうでしょう!でね、こっちが……」

 いつまでたっても終わりが見えない女子トークを聞きながら、秋斗はつまらなさそうに、それでいて少し恥ずかしそうに紅茶を啜っていた。

 そんな秋斗には申し訳ないが、私は楽しくて仕方がなかった。秋斗の知らなかった部分をどんどん知れていっているみたいで、それまでの秋斗のミステリアスなイメージはすべて吹き飛んでいた。


 秋斗のお母さんの名前は香菜さんといった。実はケーキを食べる前に香菜さんの自己紹介が始まり、「香菜さんって呼んでね〜」と言われたので、そう呼ばせていただくことにした。香菜さんはとても若々しく、エネルギーに満ちあふれた素敵な女性だった。


 ケーキを食べ終わり、ひと通り秋斗のアルバムの説明が終わると、香菜さんは「秋斗、お部屋に案内してあげたら?」ととんでもないことをおっしゃった。

 秋斗もさすがに嫌がるだろうと思って秋斗のほうをちらっと見ると、例の秋斗は微笑みながら「別にいいよ」と言った。まさかの返事だったので、私は頭の中で必死に言い訳を考え始めたがそれは香菜さんの前では無駄な抵抗であり、あれよあれよという間に二階の秋斗の部屋に押し込まれてしまった。

 ぱたん、と扉が閉まると、部屋中に秋斗の香水のにおいが漂っていて少しだけドキンとした。


「……座りなよ」

 しばらくの沈黙の後、秋斗がやっと口を開いてくれたが、とても座ろうなんて気にはなれなかった。

 でも黙っていても仕方ないので、私は部屋からの脱出を試みる。

「や、やっぱり嫌だったよね!ごめんねっ」

 そう言って扉に手をかけると、後ろから秋斗が覆いかぶさってきた。私の肩にぽすっと小さい頭を乗せ、呟く。

「別に嫌じゃないし」

「ちょ、秋斗、近い……」

「あ、ごめん」

 秋斗は小さい声で謝って、すぐに離れたが、私の心拍数はとっくの昔に限界を超えていた。

 秋斗の部屋、秋斗の服、秋斗のにおい……

 それだけで私をドキドキさせるには十分だった。


 私は諦めて、とりあえず床に敷いてあった座布団にちょこんと座った。

 秋斗は小さい折りたたみテーブルを挟んで向かいに座った。いつもならどちらからともなく話し始めるのに、このときだけは二人とも何も言い出せなかった。


 再び先に沈黙を破ったのは秋斗だった。

「なんか変な感じ」

「……そうだね……」

「……僕の日記読んでみる?」

「えっ?」

 まさかの言葉だったので驚いたが、私はこくりと頷いた。秋斗は立ち上がり、窓際の机に立ててある日記を手に取った。私がそれを日記だとすぐに認識したのは、前に秋斗が革の表紙の日記帳だと教えてくれたからだろう。

 秋斗が壁にもたれかかり、自分の横の空いている床をぽんぽんと叩き「ん」と言ったので、来いという意味かなと思い、少し距離を開けて隣に座る。すると秋斗はあろうことかずいっと私の近くに寄ってきた。

 ……もう何でもいいや。ずっとドキドキしていたら私の身が持たない。気にしない、秋斗は今空気。そう考えることにした。


 秋斗の細くて長い指が表紙をめくった。

 最初のページには、前に秋斗が話してくれた一行の文が書かれていた。


 ──── 僕は記憶障害です。朝起きたらこの日記を読むこと。


 その文字が、私の知っている今の秋斗の筆跡と比べると随分幼かったので、秋斗はこんなに長い時間この日記を書き続けているんだ、ずっと自分の記憶と向き合ってきたんだと思うと、なんだか胸がきゅっと痛くなった。

 秋斗がまたページをめくる。


 日記を読み進めるにつれて、私の目には涙が溜まっていた。秋斗は嫌なことは書かないと言っていたが、それでも私からしたらつらい日常だった。

 日記も終わりに近くなってくると、私の名前が登場する。私の話したことをほぼ正確に書き留めていて、私は単純な嬉しさと、さっきとはまた違う胸の締めつけを感じた。

 いよいよ最後のページ。右のページは空白だったので、これから埋められていくのだろう。

 そのページの真ん中あたり、書かれていた文字に私は目を疑った。


 ────夕凪が、好きだ。


 え?


 どういう意味だろう。友だちとして?うん、きっとそうだ。親友だと思ってくれているのだろう。そうだ、そのはず。

 秋斗は何も言わない。ただじっと、ページを見る私のことを見つめているのが分かった。

 これはさすがに何か言わねばまずいと思い、次の瞬間私は口走った。

「こっこれは、嬉しい……な……」


 あー!もう!

 何を言ってるんだ私!

 これじゃまるで、私も秋斗のことが好きみたいになっちゃったよ!


「……え」

 ほら秋斗引いちゃってるもん!

 あああ……と自己嫌悪に陥った私は、もうなりふり構わず秋斗の目の前で文字通り頭を抱えた。


「夕凪ちゃん」

「……」

「夕凪ちゃん」

「……」

「……夕凪っ!」

「はいっ!」

 秋斗がいきなり大声を出すものだから、私は飛び上がった。

「夕凪ちゃん、こっち向いて」

「……はい……」

 観念した私は、秋斗の顔を見てまた驚いた。

 秋斗は白い顔を真っ赤に染めて、まっすぐな目で私をじっと見ていた。私は、その吸い込まれそうな瞳から目を逸らせなかった。

「夕凪ちゃん、今から僕が言うこと、ちゃんと聞いて」

 私は頷く。

 秋斗は、日記をテーブルに置いて私の両手を包み込み、またじっと私を見つめた。

「あのね」

 何を言われるのだろう。怖かった。嘘だと言われたら?冗談だったら?私の思い違いだったら?

 それこそ私は、立ち直れなくなる……。

 悶々と考え込む私の不安を取り払うように、秋斗ははっきりと言った。


「好きだ。僕は、夕凪ちゃんのことが、好きなんだ」


 その言葉を耳にした瞬間、私の目からは信じられない量の涙がこぼれ落ちた。不思議と、その感覚はなかった。

 本当に?嘘じゃない?秋斗がそう言ったの?

 

 いつもの秋斗なら慌てふためく場面だが、秋斗も腹を決めて話してくれたらしく、その表情は決意と優しさに満ちていた。


「夕凪ちゃんがね、僕のことを受け入れてくれただろう?僕の記憶障害のこと。あれを話したら大体の人は僕から離れていくんだ。忘れられたくない、って。もうあいつとは関わらないほうが自分の為だ、って。僕の親友さえそうだったらしい。」

 秋斗の顔は話しながらだんだんと歪んでいき、最後にはとても苦しそうな表情になった。

「僕の親友はね、小さい頃からずっと一緒だったんだ。一時たりとも離れたことはなかった。トロンボーンだって親友と一緒に習った。親友は僕の一部だったんだ」

 私は軽く頷く。目は逸らさずに。

「でもある日、事故に遭って。親友は勿論お見舞いに来てくれていた。だけど、僕が記憶障害のことを何も考えずに話してしまったみたいなんだ。親友は最初、『つらいな』とか『俺も支えるから』とか言ってくれたけど、やっぱり毎日毎日僕に忘れられることが苦しかったみたいで、結局離れていったらしい。今はどこで何をしてるのかも、元気にしてるのかも知らないんだ」

 嗚咽を堪えることができなかった。あまりにも秋斗が不憫で。一度は寄り添ってくれた大切な人が離れていくということは、どんなにつらいだろう。経験したことのないことだからこそ、秋斗の計り知れない心の傷を想像してしまって苦しかった。

「だから、僕は記憶障害のことはもう誰にも言うまいと決めたんだ。でも、夕凪ちゃんが僕の前にあらわれた」

「え……?」

「夕凪ちゃんの学校で初めて会ったとき、僕は母さんと喧嘩して家を出たんだと思う。母さんが親友と会え、って、話せ、って言ったらしいから。もうそれ以上傷つきたくなかった僕は猛反発したらしい。生まれて初めてってぐらいに怒りを覚えたようで、僕の気持ちはどうでもいいのかって怒鳴ったみたいなんだ。そんな自分がすごく嫌だったけど、母さんが泣いてるのを見て、そのときはなぜか猛烈に腹が立って、家を飛び出たんだと思う」

「……うん」

「その後紫雲山の入り口まで行ったけど、一人で登る気にはなれなかったんだと思う。誰かと話しながら、話を聞いてもらいながら登りたかったんじゃないかな。それで僕と同年代の無関係な子を探して聖ニコラウス学園に入ったんだ。多分、よりによってそこが女子校だとは知らずにね」

 そこまで言って、秋斗の顔がようやく緩んだ。

「下校していく生徒たちを見ながら、誰に声をかけようか迷っていたんだ。そしたら君がいたんだって。夕凪ちゃんが僕の目の前を通り過ぎた。そのときの僕は夕凪ちゃんの表情を見て確信したんだよ、ああこの子は何かを諦めている顔だ、って」

「……分かってたの?」

「勿論だよ。他の人が気づかなくても、僕だけは気づいたらしい。だってそのときの僕と同じ顔に見えたみたいだったから。まるで鏡を見てるみたいな感覚で」

 恥ずかしくなって、一瞬俯く。が、秋斗が話すのをやめたので、はっと気づいてまた秋斗の顔を見た。すると秋斗はにっこりと笑って、私の手を握りなおし、また話し始めた。

「僕は玉砕する覚悟で話しかけたそうだ。不審者だと叫ばれても逃げないぐらいの覚悟で。そしたら、君は僕についてきてくれたんだね。山を登りながら、不思議で不思議でたまらなかった。でも、何も話さなくても良かった。ただ必死に僕の後ろをついてくる君を見て、この子は僕が守ってあげなくちゃ、って感じたんだと思う。どうせ忘れるくせにね」

 秋斗が苦笑いを浮かべる。私は小さく首を振った

「結局僕は、親友にしたことを夕凪ちゃんにもしてしまっただろう?夕凪ちゃんのことを忘れて名前を聞いてしまった。君の傷ついた顔は、その日一日だけだけど脳裏に焼きついて離れなかった」

「そんなことない。そんなことないよ。確かに驚いたけど、本当にただ驚いただけで……!」

「分かってるよ、夕凪ちゃん」

 そう言って、秋斗は私の頭をそっと撫でた。

「でもね、僕は一瞬だけ親友のことを思い出した気がした。本当に気のせいだったかもしれないけれど、記憶があったんだ、あのときは確かに。だから、慌てて約束を取り付けた。『明日会おう』って。僕にとっては初めて会った子なのに、目の前の傷ついた顔をした夕凪ちゃんだけは手放してはいけないと強い感情がわき上がってきた」

 嬉しかった。今、私はあの日を昨日のことのように鮮明に思い出している。私の目から流れる涙はとどまるところを知らなかった。

「夕凪ちゃんに話す前日、きちんと日記を書いた。だけど、ベッドに入ってからとても怖くなった。朝起きて日記を確認したときも同じだった。親友みたいに離れていったら?僕はもう立ち直れなくなるかもしれない。……でも、夕凪ちゃんと二度と会えないことのほうが僕にとってつらい現実だった」

「うん……うん……」

「でも夕凪ちゃんは受け入れてくれた。全部話しても、僕から離れることなく、むしろ交換日記をすることを提案してくれた。夕凪ちゃんにはなんのメリットもないのに」

 私は、今度は力強く首を振った。そんなことない。私が秋斗とどこかで繋がっていたかったからだよ。私の我儘なんだよ。

 そう言いたかったけれど、泣きすぎて言葉が出てこなかった。後できちんと伝えよう。秋斗も話してくれたのだから。

「僕は心底嬉しかったはずなんだ。でもその感情も覚えていない。だったら残しておこうって、日記に書いた。だからこんなかたちで告白することになってしまって、ごめん」

 私は我慢できなくなり、わあんと声を上げて泣いた。

 下には香菜さんもいるのに。

 羞恥心など忘れ、ただ秋斗の胸にすがりつくように泣きじゃくった。


 ❖ ❖ ❖


「……落ち着いた?」

「うん……」

 私が泣き止んでしばらくして、秋斗の優しい声が頭上から聞こえた。

 そこで私は初めて、秋斗に抱きしめられている体勢になっていることに気づき、急いで離れようとした。が、秋斗の力強い腕で引き戻される。

「もうちょっと、このまま。ね?」

「……分かった」

 もう私に、離れようとする意思などは無いに等しかった。

 

 秋斗は、私を好いてくれているのだ。

 だから今こうして、大切なものでも守るかのように優しく抱きしめてくれている。


 ────じゃあ、私は?


 私はどうなんだろう。

 秋斗のことが好き?恋愛対象になる?

 そんな考えは、もはや愚問だった。

 

 大昔にすでに気づいていたはずだ。自分の気持ち。


「私も、秋斗くんが、好き」

「……え……?」


 秋斗は拍子抜けしたような、今にも消えそうな小さな声を出した。まるで私からの返事を期待していなかったかのように。

 そして、秋斗は今度は慌てたように私を引き剥がして私の肩に手を置いて、私の目を見て言った。

 「夕凪ちゃん。ごめんね、僕がこんな話したからだよね。同情して、そう言ってくれたんでしょ。やっぱり二人ともが笑顔のときに言うべきだったな」

「違う、違うよ。秋斗くん」

「いや、違わない。きっと夕凪ちゃんは優しいから、僕のことを可哀想だと思って言ってくれたんだ。ごめんね、僕が間違って……」

 

「秋斗!」


 秋斗が止まってくれなくて、どうにかして止めないとと思って、気づけば私も呼び捨てで叫んでしまっていた。秋斗くんがしてくれたように。


「秋斗くん、今から私が言うこと、ちゃんと聞いて」

「はい……」

 秋斗は初めて聞くであろう私の大きな声と、呼び捨てにされたことに驚いたのか、目を丸くして、なぜか口調も敬語になった。

 私はそれが可笑しくて、ふっ、と吹き出してから今度は私が秋斗の手を包み込んだ。────と言っても、私の小さすぎる手では大きい秋斗の手は包み込めず、添えるかたちになったのだが。

「秋斗くん、あのね」

 少しずつ、考えながら、言葉をひとつひとつ丁寧に選びながら、私は話しだした。


「秋斗くん、初めて会ったときの私の顔見て、『何かを諦めている顔だ』って言ったよね」

「……うん」

「その通りなの。私、諦めてた。ちょうど、秋斗くんと出会う半年ぐらい前かな」


 ❖ ❖ ❖


 私は、半年前まで生徒会の書記をしていた。別にやりたかった訳でもないが、仲の良い百合子が生徒会長に立候補する、当選したら夕凪がそばで私を支えてほしい、と頼まれ、嫌だった訳でもなかったので、私も百合子が選ばれたら生徒会に入るつもりだった。

 そして百合子は見事生徒会長に当選、書記として私をつけたい、と担当の先生に直談判までしてくれた。


 だが。事は生徒会に入って数ケ月が経った頃に起きた。

 生徒会室から、妙な話し声が聞こえた。

 こそこそと小さな声で話す二〜三人が見えたので、盗み聞きは良くないと思いながらもドアの近くに体を滑らせ、少しの隙間から会話を聞いていた。

 

 内容は、百合子の悪口だった。


 思い出すのも嫌になるほどおぞましい言葉の数々。百合子を罵り、馬鹿にする内容が次々と聞こえてくる。私は一度耳を塞いだが、はっと我にかえって、教室のドアを勢いよく開けた。


 私は心底驚いた。百合子の悪口を言っている人間なんて、せいぜい百合子の態度が気に食わない程度の関わりしかないと思っていたからだ。

 しかし、そこで話をしていた三人は、百合子をよく取り巻いている派手な女子たちだった。

「……は?何、あんた。聞いてたの?」

「え〜、趣味わっるー」

「サイテーだよね」

 先刻まで百合子に向けられていた攻撃の矢が、一斉に私のほうを向いた。

「ね〜ぇ春海ちゃん?今のこと、百合子には言わないよねえ?」

 猫なで声で話しかけられて、背筋が凍りついた。


 どうする?嘘でも『言わない』と言う?

 でも……


「ごめんなさい。見過ごすことはできません」

「……はあ?」

「百合子のまわりには、常に百合子を大切に思ってくれてくれる人たちにいてほしいから。百合子には、いつも笑顔でいてほしいから」

「何あんた……っ!むかつくんだけど!」


 叩かれる……!

 そう覚悟して目をつぶった瞬間、ぱあんと言う音が教室に響きわたった。

 目を開けると、見慣れたポニーテールが私の前にあった。叩かれたのは百合子だった。


「……やったわね」


 そう言った百合子はよっぽど恐ろしい形相だったのだろう、途端に取り巻き達はへらへらと笑い始めた。

 「だ、だってー。春海ちゃんが、百合子の陰口言ってたか、らっ……!」

 百合子は率先して悪口を言っていた、一番派手な女の首元を絞めた。


「夕凪がそんなこと言うはずないでしょう!」

「ひっ……!」

 さっきの平手打ちよりも響く大声で百合子が怒鳴った。長年連れ添った私でも、見たことのないほどの剣幕だった。

「なんだなんだ?」

「なんの騒ぎ?」


 幸いなことに、近くの教室で部活中だった文化部の顧問の先生たちがわらわらと集まってきた。

 そして、百合子と女子生徒三人、床にへたりこんでいた私を見て「そこの五人、今から職員室まで来なさい」と言った。


 私は百合子が悪くない旨を懸命に伝えた。元々、取り巻き三人は素行がよろしくなかったらしく、先生たちは生徒会長である百合子と、その百合子が信頼している私の話を信じてくれた。

 結局、三人の生徒は一週間の自宅謹慎を命じられ、復学してからもクラスメートたちからは白い目で見られるようになった。百合子と私は相変わらず生徒会の仕事を続けたが、生徒会室に入るたびに、百合子の腫れた頬を見るたびに、一連の出来事を思い出して震えが止まらなかった。

 百合子は、無理しないでほしい、と私に言ってくれた。私は、その言葉に甘えて逃げるように生徒会をやめた。


 私は百合子のまわりの人たちが恐ろしくなり、ほぼ全員が百合子に関わっていたクラスメートたちとも話すことができなくなった。百合子は変わらず接してくれたが、生徒会の話は最低限しかしなかった。


 ────どんなにまわりから慕われているように見えても、人の心のうちは見えないものなのだ。


 それが私の結論だった。もう関わらないでいよう。あの三人組にも、クラスメートにも。あと一年耐えれば卒業なのだから。私には百合子がいれば大丈夫。そう思っていた。


 私があの日、『何かを諦めている顔』をしていたのなら、それはきっと人とのつながりを諦めていたのだろう。


 その半年後、秋斗に出会った。


「あの……大丈夫ですか?」


 ❖ ❖ ❖


 私が話し終えた頃、今度は秋斗が泣いていた。

「もう〜。なんで泣くの?」

「だっで……」

 秋斗はずびずびと鼻を鳴らしながらも言ってくれた。


「夕凪ぢゃんはやっばりいい子だな、っで思っで」

 いつもの爽やかな青年はどこへ行ったのか、秋斗は小さな子供のように私に抱きついてきた。

「つまりね、秋斗くん。私も秋斗くんに救われたんだよ」

 秋斗が私を見上げる。

「だから、私が秋斗くんを好きって気持ちに間違いはないんだよ。そんなに自分を卑下しないであげて」

「ゔん……うん……っ!分かっだ……!」

「はいはい。ほら、鼻水拭こ?顔すごいことになってる」

 私も涙ぐみながら笑った。

「夕凪ぢゃん、あ゙りがどう……」

「もう夕凪でいいよ」

「夕凪あ……大好きぃ……」


 そう言って、私たちは顔を見合わせて笑った。

 その日に今までの、お互いの心に背負ってきた重荷を、やっと下ろせた気がした。




 ────『何事も、つらいことはいつか終わるし、その先には良いことがあるってこと』


 あの日の秋斗の言葉が、痛いほど身に沁みた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ