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目の前より近い心から

作者: ナナシ

 人間の苦しみを、真面目に考えている。そう、真面目に。腹の底から、真面目に。疑問はこう。苦しみながら、死にたいと思いながらも、生きて生きて生きて、最後に安らかに、周りに惜しまれながらも看取られる人間の長い生の苦しみと、自ら命を断つために、苦しんで苦しんで死ぬための刹那の死の苦しみ。どちらが苦しいか。

 私は、後者の方が、死の苦しみが、苦しみとしては、緩やかなものだと結論づけた。間違っているのだと思う。きっと、糾弾されるような思想であるのは、分かっている。だけど、それが真実だった。

 昔は、糾弾なんてされないような優等生だった。成績も良くて、欠席もしない。大人のいうことも聞いてきた。年齢が重なって、勝手に大人になって、もう大人でしょなんて言われた。

 そこで、一つわかった。この世界の大人というのは、大人になったのではなくて、子供でいられなくなった人たちだった。

「千春、どうしたの。そんなに考え込んで」

 恋人の春樹から声をかけられる。そのまま、ベッドの隣に座ってくる。

「苦しみについて、考えてたの」

「今の生活、苦しい?」

「そんなことない。二人で逃げ出して、世界の端を目指して良かったと思う。今の貧しい生活と、社会に揉まれて心が貧しい生活、断然、今の方が幸せよ」

「……今夜、一緒に死のうと誘われたら嫌?」

 すごく、急に彼から死という単語が出てきて、息がつまる。

「……なんで今夜なの?」

「俺、今日のバイトで聞かれたんだ。いつまでここで働くのかって。俺は、答えられなかったよ。もう、社会のレールから外れてしまったから、答えられないと言った方が正しいかもしれない。今は、お互いに働いて最低限の生活を送ってる。だけど、この逃避行は、長く続かない。千春も、なんとなくわかるでしょ」

 痛いほどの現実を提示されて、言葉が舌の先まで出てきてくれない。空気がなくなって、言葉が伝わらないような感覚にも飲まれる。

 何も言えずに私は、首を縦に振った。

「俺も、音楽で飯を食うなんて夢に挫折して、競争に負けて、否応なしにレッテルを貼られて、才能の証明すらもできなかった生活よりも、今の生活のほうが比べるまでもなく、苦しくない。だけど、またどん底にもどって、死にたいと思いながら生きるより、生きたいと思っているうちに死にたい」

 彼の眼は、変わらず厭世的だった。その厭世的な眼には、この世界に対する絶望と、私を死に誘ってしまったことによる、自分に対する絶望がひどく滲んでいた。その絶望が分かった途端に、隣に腰掛けている彼が、私を救ってくれた音楽を創った救世主から、断罪を待つ咎人のように見えた。

「死ぬのは怖い?」

「……死ぬのは、怖くない。全てを置いて、春樹と逃げ出したあの日、死にたいと思いながら、生きたいがために逃げた。死ぬのが怖いというよりも、名残惜しい。春樹と離れ離れになるのが、嫌。死は、怖くない。別れが、ただ辛い」

「……そっか」

 しばしの、沈黙。一瞬にも、永遠にも感じられた。

「俺、幸せ者だな」

「私もよ」

 世間から見れば、こんなものは幸せではないのだろう。ただ、世間よりも上の見地で見るなら、間違いなく、これは尊い愛だと思う。

「だけど、ごめん」

 この、ごめんというのには、それでも死のうと思っている。私の意見を聞けないでごめん。生きていけなくてごめん。という、意味が含まれているのが、嫌でも分かった。そして、さっき、私も幸せ者といったのに、彼は、自分で幸せにしてあげられなくてごめんという、自己嫌悪も含まれているのも、すぐに分かった。

「謝らないで。私も、死ねるなら、あなたと死にたい。残されて、生きるなんて嫌だから」


 その後、思い残しがないように、やっぱり生きていたいと思わないように、もしもそう思ってしまっても、生きる術がないように、なけなしのお金を持って街に出た。生活費として残っていたお金は、安っぽいご馳走に姿を変えた。最後の晩餐だった。

 ご飯を食べ終わった後、綺麗な景色を見るために移動することになった。最後の逃避行だった。バスと電車に乗った。夏に二人で、バスをまって、電車を待つというのは、正しい夏な気がして、心のうちにある劣等感がいくらか落ち着く。

 ずっと夏が嫌いだった。高校野球の甲子園に飽き足らず、若い人間たちが夏に活躍するのを見るたびに死にたくなっていた。自分に、そんな経験はなかった。単純に羨ましかった。

 電車の車窓から見る海は、空を反射してオレンジ色に輝いていた。その中でも日が強く当たっている箇所は白くなっていた。綺麗だった。今から、自分たちはこの海に潜っていくんだと思うと、少し不安になった。

 隣に座っている春樹が、握っている手を少し強く握ってきた。

「不安?」

「……少し」

「そっか」

 ガタンゴトンと、電車は進む。田舎の電車は人が全くいなく、ドラマのような雰囲気があった。この電車は、優等生だった頃の私と同じで、誰かが敷いたレールの上を走っている。見た目はボロボロだ。容姿がそれほど良くない私みたいで、何か親近感が湧く。

「何が不安?」

「……死ぬ時に苦しくないかって」

「……このまま生きるよりは苦しくないよ」

「そうね」

 私も、春樹の手を握る力を強めた。春樹の温もりがじんわりと私の手に伝わり、白かった手は車窓から見た海の色に近づいた。


 駅を降りて、浜まで来た。浜に着くまでも、春樹とは手をずっと繋いでいた。海が近づけば近づくほど、手から全身に温もりが走っていくのがわかった。

 少し海に近づくと、春樹は浜に座った。

「少し、話さない?」

 春樹に倣って、隣に腰を落とした。浜の柔らかい砂が沈む下半身を包んだ。

「俺さ、あんな安くて、最低限の生活が、人生の中で一番幸せだったんだよ。生きてるって、そう強く思った」

「私も。世間も、名声も、お金も、全て投げ捨てた後の方が、幸せだった。学校では教えてくれないことばかりだった」

 少し、春樹が俯いた。口が、少し震えている。

「……やめる?」

 唇が震えたまま、首を横にふる。そのまま、少し黙り込んだ後に、口を開いた。

「こんな罰当たりのことを、一番、愛している人間を殺すような人間が、こんなことを言っていいのかわからないけどさ」

 言わなくてもわかる。きっと、私と同じことを想っている。

「うん」

 春樹は、重々しく口を開いた。

「もしも、来世があるなら、また千春と逢いたい」

 やっぱり、私と同じことを想っていた。

「私も。来世なんて、ごめんだけど、生まれ変わっちゃったのなら、また春樹と逢いたい。暮らしたい。また、春樹の歌が聴きたい」

 幸せになりたい。と、口を滑らせそうになって、思わず口を閉じる。それを言ってしまったら、この人生の幸せを否定することになってしまう。それだけは嫌だった。

 来世なんて、本当は嫌い。来世になって救われるなんて嫌い。幸せな人間は、前世の自分に感謝なんてしないだろう。そもそも、私は今生きているのなら、今救われたい。幸せになりたい。

 そんな私を、救ってくれたのは、春樹だ。その春樹を傷つけるようなことは、今の私を傷つけるようなことは、言いたくない。

「……そっか、ありがとう。そしたらいこうか」

「……うん」

 嬉しいような、悲しいような、決まりたくなかった覚悟が決まったような目をして、春樹が立ち上がる。私も倣って立ち上がる。

 手を繋いで、海に進んでいく。オレンジに輝いていた海は、少し暗くなってきていた。ドン! と夏の音がした。花火だ。電車で遠くに来たからわからなかったが、どこかで祭りが開かれているらしい。

 振り返ることはしなかった。春樹も振り返らなかった。それでも、花火は見られた。海が反射して映した。海に火の花が咲いた。

 花を揺らして進む。ずっと夏の音がする。下半身が全て海に入る。花の海に入る。手を握る力が強くなる。

 身長が高くてよかったと思う。学生の頃は、ずっと無駄に高くて、いじられる身長を恨んでいたけど、今は背が高くてよかった。春樹と同じ早さで、花の海に沈んでいける。

 歩く。

 歩く。

 歩く。

 歩く。

 歩く。


 泳ぐ。


 全身が沈んでいく。深い海に沈んでいく。繋いでいた手は、春樹を抱きしめていた。春樹も私を抱きしめていた。

 もう、苦しいとも思わなかった。意識がどんどん遠のいていく。まどろんでいく。口から出た気泡が、白い花弁のようだった。

 海に入っても、微かに聞こえていた花火の音は、もう聞こえなくなっていた。それは、聞こえないほどまでに、深く沈んでいるのか。または、もう私の体が死に近づいて、耳が聞こえないのか、分からなかった。

 私を抱いていた春樹の手は、私の頬に移った。そして、私の顔と、春樹の顔が向き合った。

「ごめん」

 確かに、そう言った。口が動いた。音は、聞こえなかったけれど、ゆっくりと、三文字を口にした。

 また、春樹を抱きしめた。もう、自分を許して。そう言うように抱きしめた。もう、言葉も出ないから、心で伝えるしかなかった。目の前で言う言葉よりも、ずっとずっと重く、ずっとずっと近く、伝わるように。

 春樹も、強く抱き返してくれた。抱擁は、強ければ強いほど、二人を一緒に海に沈ませて、死を近づける、残酷なものだった。体は、もう冷たいとか、温かいとか、分からなかった。

 それでも、近づいた心は、確かに温かかった。


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