1-8 フェリシアのデビュタント
四月、社交シーズンの始まりだ。フェリシアはデビュタントと、王子の婚約者としてのお披露目を兼ねることになった。彼女はもう十七歳だが、長らく家に隠されていたので、デビュタントを済ませていなかったのだ。
「フェリシア様、とってもお綺麗ですわ!」
フェリシア付きのメイドをやってくれているマリカが笑顔で言った。彼女はとても親しみやすくて、フェリシアをいつもピカピカに磨いてくれる。
デビュタントの慣例に倣い、今日は真っ白なドレスだ。ストンとしたエンパイアラインの、とても清楚な品。ビスチェの部分には、薄い金糸で華美にならない程度の刺繍が施されている。スカート部分はとても細かいプリーツ加工が為されており、フェリシアが動くたびにふわりと揺れて綺麗だった。
桜色の髪は結い上げ、白い薔薇の生花を差している。王宮の庭から摘んできたと言う薔薇は瑞々しく、とても美しかった。
「お待たせ、シリル」
「……シア」
待たせてしまったシリルの元へ行くと、彼は何故だか泣き出しそうな顔でフェリシアの愛称を呼んだ。心配になって、その手にそっと触れる。彼の手は冷え切っていた。
「何かあった……?」
「何でもないよ。何でもない…………」
シリルはぎゅっとフェリシアの手を包み込み、歩き出した。王宮の会場へ向けて、二人は言葉少ないままゆっくりと向かった。
♦︎♢♦︎
デビュタントの儀式が始まった。
位の高い順に紹介され、前に出てカーテシーをする。婚約者のいる者は、エスコートしてもらう習わしだ。
本来であればここで、国王から直接言葉掛けをもらうのだが、現在国王は病床に臥せっている。そのためこの過程は省略された。
フェリシアには、幼い頃の淑女教育の記憶はある。しかし再び歩けるようになってから、もう一度一から復習する必要があった。だから政務をこなす合間に、社交マナーの復習レッスンを詰め込んでもらったのだ。
フェリシアは自分が立派にできるか不安だったが、隣にいるシリルが堂々としているので、終始落ち着いてこなすことができた。
「今日は主要な貴族が揃っているからね。ダンスを終えたら挨拶が待っているよ。ノイラート公爵にもコンタクトを取りたい」
「ええ」
今日のメインはそこだ。デビュタントの大きな夜会は、この国の大物貴族達と、一気に話ができる希少な機会でもある。
「でも、デビュタントは一生に一度だから。ダンスも楽しもうね?」
「そうね」
そう言ってエスコートするシリルが優しく笑ったので、フェリシアも微笑んだ。
今日は一番最初に、デビュタントを迎えた子女がダンスをする。フェリシアたちもホールの真ん中へと進み出た。
電撃婚約した二人は、貴族の注目の的だ。フェリシアは突然現れた侯爵令嬢として、様々な憶測も呼んでいる。前に進み出ると一気に、ひそひそと貴族たちが囁く声や、見定めるような視線に晒された。フェリシアの身は一気に竦んだ。
「俺だけを見て」
その途端、シリルが涼やかなテノールで唱えた。パッと顔を上げると、アクアマリンのような瞳が明らかな熱を持ってフェリシアを見つめていた。
「シア。今日は俺だけを見て。俺だけを感じて」
「……ええ」
熱に浮かされたような心地のまま、頷く。想う人にこんな風に囁かれて、婚約者としてダンスを踊れるなんて、よく考えれば夢のような状況だ。
音楽が滑らかに始まった。それに合わせてゆったりとステップを踏み始める。何度も練習したから、二人の息はぴったりだった。
――この人に、私は何度も第一歩を踏み出させてもらえる。今も……。
フェリシアは言われた通り、シリルだけを熱心に見つめた。輝く巨大なシャンデリアの煌めきを反射しながら、長い金髪が舞っている。何て美しいんだろう。
そっと、彼の胸に頭を預ける。温かくて、心地良いウッディーノートの香りがした。ドキドキと胸が高まるのが抑えられない。
――ううん、今は抑えなくて良いんだ。だって私は、彼の婚約者なんだもの……。
フェリシアは歓喜に包まれて、顔を上げ、ふわっと微笑んだ。シリルがその水色の目を見張る。そこには先程よりも、さらに熱がこもったように感じた。
そうしてダンスはあっという間に、夢見心地のまま終わったのである。
「上出来だね」
「助けてくれてありがとう」
ダンスを終えて飲み物を貰っていると、早速大物が近づいてきた。
「これは、ノルベルト卿」
シリルが言った。
ノルベルト・トラウトマン。三大公爵の一角、トラウトマン公爵である。この国の宰相をしている人物だ。
彼は綺麗な白髪を撫で付け、髭を蓄えており、杖を付いていた。高齢だが眼光鋭く、油断ならない雰囲気だ。
「素晴らしいダンスでしたね、シリル殿下。婚約者殿と、随分と仲睦まじい様子で」
「ええ。そうなんです。紹介しますね。私の婚約者となったフェリシア・モーリス侯爵令嬢です」
「フェリシア・モーリスと申します。以後お見知り置きを」
シリルがフェリシアを紹介すると、ノルベルトはニヤリと笑った。
「フェリシア嬢は非常に頭脳明晰だと聞きました。殿下の政務を、随分と手伝っておられるとか……?」
今の政務の状況について、探りを入れたいようだ。国王の病状も知りたいのだろう。こちらにも情報はないのだが。
「なんだか最近、妙に忙しくてね。一体誰が手を回しているんだろう?……そんなわけで、彼女にはとても助けられていますよ」
「そんな。私は単なる補佐にすぎませんわ」
シリルが真顔ですっとぼけて、フェリシアは謙遜した。ノルベルトは言葉を続けた。
「ご謙遜なさることはない。とても頼もしく思っていますよ。これからも殿下のことは随分と頼りにしていますから……」
「程々にしていただきたいですがね。精々頑張りますよ」
ノルベルトは品定めするような視線を隠しもしないまま、去っていった。
シリルがひっそりと囁いた。
「ノルベルト卿、あれはかなり詳しく、この国の状況を掴んでいるな」
「話している時は建前五割くらいの心の色だったわ。全くの嘘でもなかった」
「あれは厄介な爺さんだ。もしかして、俺に次々と政務が回ってきているのも、あの人の手によるのかもしれないと思っているよ」
「なるほどね……。かといって、シリルの派閥に簡単に付いてくれるわけでもない……」
「そうだね。彼は常に中立派だ。まあ、俺にはまだ派閥らしい派閥があるわけじゃないけどね」
シリルの味方は少ない。クーデターには程遠い状態だ。
「あそこに居るガタイの良い金髪の男。わかる?」
「ええ、わかるわ。騎士服を着て勲章を沢山付けている……もしかしてベルト・ティリッヒ公爵?」
「そう。彼がこの国の騎士団長。見ての通り王太子とべったりだ」
ベルトはまるで王太子テオドールを守るように立ち塞がっていた。時々談笑している様子も見え、仲が良さそうだ。
「彼の魔法は超強力。俺たちの一番の敵だな」
「味方がいなさすぎるわね……」
「味方に付けたいと思っている男はいる。向こうにいる、黒髪に赤い目の騎士。すごいイケメンの。彼がヴィルヘルム・アレキサンダー伯爵だ」
「ヴィルヘルム卿……確か、騎士団の副団長よね?」
「そう。彼、爵位は低いけどとても人望が厚い。騎士団の中での求心力がある。引き入れたいなあ」
クーデターのためにはまず騎士団を掌握する必要がある。彼はキーマンと言えるのだろう。シリルはそうして喧騒に紛れながら何人かの貴族の名前を教えてくれた。フェリシアはそれぞれの顔をよく記憶した。
途中、シリルがふと前方に気づき、くいと手を引いて囁いた。
「シア、あれがノイラート公爵のマティス卿だ」
「ああ、あの方が……」
「行こう」
不自然にならない程度の速さの歩みで、ゆったりと距離を詰めていく。マティス卿はかなり若く、四十前後だ。
娘のアンネリーゼと同じく、薄紫の髪に琥珀色の目をした美丈夫だった。ただし、その表情は神経質そうだ。
「マティス卿。お久しぶりです」
「これはこれは、シリル殿下。お久しゅうございます」
「最近は何度も手紙を送ってしまってすみません。お返事が、どうにも待ち遠しくてね」
要約すれば、さっさと返信よこせやコノヤロウ、である。
そんなことを言いながらも、シリルは至極柔和な笑みを崩していなかった。さすがである。
シリルが先ほどと同じようにフェリシアを紹介した後、腹の探り合いが始まった。
「申し訳ありませんね。領地の運営で忙しくて。なかなか時間が取れず……」
「良いんですよ。ただ、災害対策のことは協力して欲しいなと。これから国策としてやっていこうと思っているんです。是非ともノイラート公爵領にはご協力いただきたい」
「殿下のお考えは素晴らしいことです。しかし、何故うちなんでしょう?私は無能ゆえ、自領のことでいっぱいいっぱいで。どれだけ助けになれることか……」
「ご謙遜を。貴公の手腕ありきで、ノイラート公爵領は大変発展しています。誰もが認めるところです」
フェリシアは黙っているべきかと思ったが、思わず口を挟んだ。二人とも嘘や建前の色の発言ばかりで、きりがないと思ったからだ。
「マティス様。シリル様は本気で国民の安全を思い、災害対策に取り組もうとしておいでです。そこに打算はありません。国民の命を守るために、どうか、ご協力ください。私からもお願い申し上げます」
フェリシアの直裁的な言葉は、マティス卿の心を打ったようだ。彼は少し瞠目した後、静かに言った。
「やれやれ……娘と同じ年頃のお嬢さんに、痛いところを突かれました。フェリシア嬢は、年の割にとてもしっかりしていらっしゃるのですね」
彼は一つ、小さなため息を吐いてから言った。
「良いでしょう。殿下には、うちの領地に視察に来てもらいましょう。来月になりますが、構いませんか?」
「本当ですか?是非行かせていただきます!」
「ありがとうございます!」
若者二人の食いつきっぷりに、マティス卿は気圧されたようだ。
「若きお二人をお待ちしていますよ。どうぞ宜しくお願いします」
苦笑いしながらそう言い、挨拶して去っていった。
「すごいよ、シア。君の真心が通じたんだ」
「そうかしら……出過ぎた真似じゃなかった?」
「全然!」
シリルは目元を緩ませて、とても嬉しそうに笑って言った。
「君は、立派な人だよ。君が思うよりも、ずっと」
「……!」
「胸を張って欲しい。ありがとう」
フェリシアは胸がいっぱいになり、喜びのままシリルに身をそっと寄せた。
少しでもシリルの力になれたなら嬉しい。
しかし、そうしてぎゅっと強く彼の手を握った瞬間である。驚くべき未来が流れ込んできた。
「シリル、大変よ」
「なあに?」
「貴方…………暗殺されるわ。この、夜会で…………」
フェリシアの頭に流れ込んできた未来では、彼は首を切られて血まみれになっていた。その映像のショックでカタカタと小さく震えてしまう。そんな彼女の体を、シリルはそっと包み込んだ。
「安心して。俺は暗殺慣れしているんだ。さあ、敵を出迎えにいこう」
シリルは美しい笑顔で、とんでもないことを言ってのけた。そうして二人、夜会会場の出口を目指したのだった。