2-8 薄幸令嬢の苦しみ
ディルカ族の祝福の宴から間を開けず、ノイラート公爵家でも感謝の食事の席が設けられた。シリルとフェリシアはご馳走に舌鼓を打ち、和やかで楽しい時を過ごした。
食事の後フェリシアは、娘のアンネリーゼに呼ばれ、彼女の部屋で二人きりになってお茶をした。
「ねえねえ、シア。シリルとは、どこまで進んでるの?」
ごふっ。
フェリシアはお茶を咽せてしまい、しばらくケホケホとした。
「変な質問をしてごめんね!二人はとっても仲が良いから、ちょっとその、興味があって……」
「ううん、いいの」
進んでいるといえば、肉体的にはある程度進んでいるが、精神的には……。
フェリシアはその薄緑の瞳を、ひどく翳らせて言った。
「私たちは、実は両思いじゃないの。私の片思いだから……」
「……え!?」
アンネリーゼはその目をまん丸くして、仰天した。
「う、嘘でしょ!?だってシリル、あんなに…………」
「ううん、本当よ。はっきりと振られているの。他に、好きな人がいるみたい…………」
改めて言葉にすると、とても惨めだ。泣き出しそうに顔を歪めてしまったフェリシアの背を、アンネリーゼは必死にさすった。
「そんなこと、ないと思うわ。シリルは貴女のことが、心底大切そうだもの……。きっと、何か事情があるのよ……」
「そうなの、かな……もう、私、良く分からなくなっていて…………」
「そんなに苦しんでいたのね、シア。変なことを聞いて、本当にごめんね」
アンネリーゼは隣からフェリシアの体をぎゅっと抱き締めた。ほっそりした彼女の体は、とても温かかった。
「…………実は私もね、叶わない恋をしているの…………」
「アンネが?」
「そう。相手は、この国の騎士団副団長の……ヴィルヘルム・アレキサンダー様」
「へえ……!」
「小さい頃にね、物盗りに襲われそうになったところを、助けてくださったの。私の憧れの、騎士様なの……」
アンネリーゼは自分の大切な宝箱を見せるみたいに、それはそれは大切そうに言葉を紡いだ。
「でも……私は、公爵令嬢。向こうは……伯爵。それに、年齢差もある。直接お話ししたことも、数えるほどしかない……。どう考えても、叶わない恋よ。それでも、どうしても諦めきれないの……」
「そうなのね……気持ちは、よく分かるわ……」
片思いは、とても辛いものだ。でも、相手を恋しく思う気持ちは、抑えようと思えば思うほど――――逆に燃え盛るものなのだった。
「私も、誰かにこれを打ち明けるのは初めて。今、少し心が軽くなっちゃった」
「それなら、私もよ。シリルとのことは、誰にも相談できずにいたから」
「たまに、こうしてお話しましょうよ。手紙でも良いし。吐き出せば、お互い少し楽になるはずだわ」
「ええ」
こうしてフェリシアとアンネリーゼは、恋の秘密の共有者となった。お茶をしたり、手紙のやり取りをしたりして、お互いの辛い気持ちを相談し合う仲になったのである。
♦︎♢♦︎
その晩、シリルとフェリシアは公爵邸に宿泊させてもらった。
夜中になり、フェリシアは目が覚めてすっかり喉が渇いてしまった。そこで、お水をもらえないかと使用人を探していた時である。
この家の主人、マティスと誰かが密やかに話しているのが、偶然聞こえてきた。相手の声は――フェリシアが間違えようもない。シリルだ。
「シリル殿下のことは、心から尊敬しています。貴方は素晴らしい人物だ」
「俺を褒めても何も出ませんよ、マティス卿」
「本心から言っているのです。はは、もしフェリシア様と婚約していなければ、是非アンネと婚約して欲しかったくらいですよ」
フェリシアは盗み聞きを止めて通り過ぎようとして――――だが、びくりと立ち止まってしまった。
アンネリーゼとシリルは、正直とてもお似合いだ。フェリシアなんかよりもずっと。見目もそうだし、二人は気心も知れている。アンネリーゼは中身も賢く、優しい女性だ。それに何より、彼女と婚約すれば……三大公爵家の一角が、シリルのバックにつくことになる。
しかしシリルは間髪を入れず、きっぱりと言った。
「それはありません。俺は、フェリシアを愛していますから」
――――え?
フェリシアは今度こそ、完全に固まった。
今、シリルは何と言ったのか。
だって。
――――嘘の、色じゃ、なかった…………。
≪心視≫が使えるフェリシアには、はっきりと分かってしまった。その言葉が、建前なんかじゃないということが。むしろ、痛いくらいひたむきな真剣さが、そこに詰まっていると言うことが。
フェリシアは居ても立ってもいられず、バクバクと鳴る心臓を押さえながら、その場を立ち去った。
♦︎♢♦︎
翌日の夜、フェリシアはいつも通り部屋まで送ってもらって、シリルとキスを交わしながら、酷く泣き出してしまった。
「シア……!?どうしたの?」
「…………て」
「え?」
「私を抱いて。シリル。お願い…………」
シリルの胸に縋って泣きじゃくる。フェリシアの心はぐちゃぐちゃで、全然平静を装えなかったのだ。
「……それは、ダメだ」
「どうして……?」
「どうしても」
「分からない。分からないよ……シリル!」
フェリシアは肩を震わせ、声を上げて泣きじゃくった。
「昨日、マティス卿とっ、話しているのを、偶然、聞いてしまったのっ……。シリルは…………っ、私を、愛して、るって…………」
「!」
「私も、貴方を愛してるわ。こんなに、好きなの!貴方だけがっ!それなのに……どうして、私の気持ちに…………応えてくれないの…………!?」
フェリシアは、自分が惨めで仕方がなかったが、シリルに泣き縋った。
しかしシリルは強張った顔をし、ひどく硬質な声を出して、突き放したのだ。
「それだけはできない。君の気持ちには応えられない」
「…………っ!!」
「ごめん。俺も、今まで中途半端にキスしたりして、君を苦しませた。本当に悪かった」
シリルが、離れていく。
なんで?
どうして?
貴方も泣き出しそうな目をしているのに、何故私から離れていくの?
「もう君に触れることは、止める。魔法のために、手を繋ぐだけだ」
「な、なんで…………!!」
「……ごめん。おやすみ、シア」
愛おしいシリルの体温が遠くなり、ついに扉が閉められた。フェリシアは絶望してその場に崩れ落ち、身も世もなく泣き叫んだ。
――もう、何も分からないよ。
シリル。
こんなに苦しいなら、貴方を好きになんてなりたくなかった……。
フェリシアはその晩一人で、声が枯れるまで泣き続けたのだった。




