4、耳垂れ
私はこの歳になって、愛情とか絆とか考えさせられた。
ゾウは、親子の絆が非常に強いと聞いている。しかし、ゾウは二十二か月もの長い間胎にあって、自分を苦しみ続けてきた異物が産まれ落ちた瞬間、憎しみに駆られそれを踏みつぶそうとする。それを、母ゾウ、姉ゾウ、オバゾウなどが体当たりで回避させるそうだ。
ネコが犬を育てる話とか、犬がサルを育てる話を時々聞く。
やっぱり、いろいろと世話を続けるうちに絆が生まれるのだろうか。
血の繋がりが、親の絶対条件ではないらしい。私は育てることにこそ、親の甲斐性があるという意見に賛成だ。
私を、ひどく煩わせるこのメス犬を養うのはたいへんだ。
それでなくとも手入れの良くない庭を、ますますヒドイ状態にしてしまう。
真夜中に『ブシュン、ブシュン』とくしゃみをしてるから、「どうした。風邪でもひいたのか?」と心配して出てみると、しきりに穴を掘っていた。
鼻の頭を土で真っ黒にして、『なあに?』という顔で見る。
「なあにじゃないだろ~」こんな真夜中に穴なんか掘って、バカタレー。
大切にしていた盆栽や、鉢植え草花も折ったり壊したりする。まったく、罪の意識がハナっからない。困ったものだ。
しかし、私はすでに庭いじりや盆栽などへの情熱が冷めていて『まっ、いいか』などと思ったりもしている。
それから、メシをうるさく催促する。散歩を喧しく強要する。
人が来ると誰彼かまわず、その泥だらけの足で抱きつこうとする。
時に真夜中でも、雨の降る日でもしょっちゅう木に巻き付いて『クゥ~ン、クゥ~ン』と鳴いて、解いてくれと訴える。
それでも、いくら損害を被っても、いくら面倒くさい思いをしてもなぜか憎めない。
あのアッケラカンとした顔を見ると、『まっ、いいか』と思ってしまう。
それに、罪の意識をもたない者に、いくら制裁や懲罰を加えても教育的指導にはならない。
ただのイジメだ。そんなことはしたくない。
近頃マルが太ったようで、太ももの肉がやけに目につく。
散歩の時は、時間前からやけにハイテンションで放すと全力で走りまわる。以前は“タタタタッ”であったのが、この頃は“ドドドドッ”に変わってしまった。身体も一回り大きくなったような気がする。
何しろよく食う。冷蔵庫に乾いた大根があったので『ほらっ』とやったら、“ガリガリ”とかじっていた。さすがにマズイのかかじったままだ。
日曜日、友達が来て昼飯分の牛乳をマルにあげていた。マルはピチャピチャと美味しそうに飲んでいた。牛乳も好きらしい。
8月も終わりようやく涼しくなり始めた頃、困ったことが起こった。
それは不眠症に悩む私がようやく眠りかけた頃、外で異様な気配がして始まった。
『ハア、ハア、ハア』と荒い息音がして、ドドッ、バタバタッと忙しない足音がしている。
外に出てみると
「ややっ!」何としたことだ。
何処の馬の骨とも知らないオス犬が、マルにのしかかっているではないか。
『マルの貞操が危ない!』私は慌てて外に飛び出した。
「くそ!」
オス犬は逃げ足が速い。たちまち、見えなくなった。
その夜は、何度かそのような事があった。ますます不眠症になりそうだ。憎っくきオス犬め。
次の日は、朝からボ~としていた。10時頃、ついうたた寝をしていると、又もや外で異様な気配がする。そして、又もやオス犬がいたのだ。
「おのれ~!」
私が外に出る前に、オス犬は居ない。はるか先まで逃げていた。
赤茶っぽい犬だった。耳が垂れていた。ヘンに真っ赤なシャレた首輪をしていた。
何処かの飼い犬なんだろう。それにしても、何処から来たのか。
一方のマルは、いちじるしく興奮していた。
「マルゥー、ダメじゃないかー」
私の剣幕に、マルは怯えてしまった。
「困ったな~、どうしよう」
マルは私の困惑をよそに、「クゥ~ン、クゥ~ン」と甘える。
それにしても、困ったことだ。マルが発情していたとは・・・・。そういえば、やけにあちこちマーキングしていた。ううむ。
しかし、事はそれだけじゃすまなかった。あの耳垂れスケベ犬が、のべつくまなしに通ってきてマルに乗りかかろうとする。ちょっと油断していると、耳垂れは音もなく忍び寄っていて、私が気付いてでて行くころはサッとはるか先まで逃げている。
オドオドと小心そうな犬だが、実にしつこいスケベ犬だ。
その夜も、イタチごっこが始まってしまった。耳垂れは逃げ足が速い。すぐ見えなくなってしまう。そこで、車で近所を走ってみた。すると、案の定居る。
しかし車から降りるころには、はるか先まで逃げてしまう。また車で追うと、民家に逃げ込んだり、田んぼのあぜに逃げたりする。処置なしだ。
『どうしよう・・・・』
私はいろいろ考えた。大きな檻を買ってきて、マルを入れようか。いや、金がかかりそうだ。だったら、自分で木で作ろうか。どう作ろう。
『そうだ。取り敢えず物置に入れておこう』
私の家は、ドアを開けるといきなり十畳ほどの居間、台所、兼書斎となる。いろいろと不便なので、作業場を兼ねた物置を付け足した。今では、まるっきりゴタゴタと端材のたまった物置となっている。
そこへ、マルを押し込んだ。
「ざまあみろ」
これで耳垂れも、手も足も出ないだろ。
その夜も、耳垂れは来たらしい。物置のガラスサッシに、足跡がついていた。