10、失踪
ちょっとした油断が大変なことに。
チーだけは、私のもとに残った。生まれてから四ケ月たって、だいぶ犬っぽい顔になってきた。ただチーは父親似で、巻き尾のたれ耳だった。
どうも、甘やかし過ぎてしまったらしい。しょっちゅう私と居たがり、私の膝の上が大好きなネコみたいな犬になってしまった。
大変な臆病者で、他の人が来るとすぐ怯えて逃げる。怖がって外に出ない。
「来い。チー。大丈夫だから来い」
二月半ば頃から、外に出るよう促し始めた。ようやく外に出るようになったら、今度は「出るな」と言っても外に出たがるようになった。
マルとの散歩に、まとわりついて来た。
2匹してジャレあい、噛みつきあい、牽制し、まとわりつき、散歩のペースがかなり乱れてしまった。
2日後、試しにマルの引き綱を外してみた。マルは素晴らしい勢いで、走り廻った。チーも必死でついて行く。幸いここは、山中の開発中のかなり広いなだらかな土地だった。いい運動になる。ひとしきり走らせてから家に帰った。
次の日、水道が凍っていた。強い北風が吹いて、寒い朝だった。
またマルを放した。マルはさんざん走り廻った挙句、ヤブに消えた。まったく、懲りない奴だ。困ったことに、チーも一緒だ。マルのことは心配しないが、チーが心配だ。
ようやく10時ごろ、泥だらけになってマルが帰ってきた。チーも一緒だ。
まったく何処をほっつき歩いていたのか、困った奴だ。
3時30分ごろ、いつもの通りマルは散歩を催促しだした。
これからは、チーも一緒になる。チーの引き綱は用意したが、まだ散歩慣れしてないので絡まりあってしょうがない。
それで、どうせマルに纏わりついているのだからと引き綱はしなかった。
家を出て、連続した勾配のあるカーブまで来た時、突然向こうから幼稚園の送迎マイクロバスが現れた。チーが驚いた。恐怖に駆られたらしい。
人間だってビルほどもある物体が、うなりをあげて追ってくれば恐怖を覚えるはずだ。チーはいきなり道路に飛び出し、逃げ出した。その後を、マイクロバスが追うような形となった。
「チー」
私は慌てて追いかけた。チーは道路沿いに逃げているらしい。その後を、マイクロバスが追う。気を利かせて止まってくれればいいものを、マイクロバスは止まらない。
やっと、マイクロバスが止まったのは200mも先で、園児を降ろすためだった。私がそこに着いた時には、だいぶ時間が経過している。私はチーを探しながら走った。マルが事の重大さをまったく理解せず、自分本位の散歩をしようとするのを叱りつけながら走った。
しかし、私はすぐ体力の限界を感じた。引き返すことにした。
とても、犬の足にはかなわない。
私は家に帰り、車で探すことにした。マルもついでに車に乗せて、家沿いの道をどこまでも行き、突き当りまで行き右に曲がった。すると『居た』。
「チー」
違った。犬違いだ。不思議そうに見つめるその犬はほっといて、又捜索を続けた。
しかし、チーは何処へ行ったのか姿が見えない。私は、むなしく引き上げた。
家に帰ってから『マルなら、チーを探せるのじゃないか』と考え、「マル、チーを探して来い」と、引き綱を外して放してみた。
アサハカだった。マルは、それほど優秀な犬ではない。ただ、その辺をうろついているだけだ。
仕方ない。マルがあてにならないなら、自分で探すしかない。私は、また車を出した。そうしたら、役立たずのマルが車の後を追いかけて来る。しょうがない奴だ。見つからなかった。行方不明だ。
私は、チーが帰って来るのを待っていた。しかし、いつまで経ってもチーは帰って来ない。5時すぎ日没前に、もう一度探しに出た。
「居た!」県道わきに潜んでいた。
喜んで近づいてみたら、赤茶色のネコだった。
この寒空に何処でどうして居るのか、人一倍臆病なくせに。腹を空かせているのではないか・・・・。
私は8時ごろには、帰って来るんじゃないかと根拠はないが考えた。
期待していた。いつ帰って来てもいいようにと、物置のサッシの戸は15cm位開けておいた。
仕方ない。メシを食って・・・・私の食事は犬を飼い始めてから、おざなりだ。それが、今日の晩飯は格別にマズイ。砂を噛むような味がした。
7時が過ぎ、8時が過ぎ、9時になっても帰って来ない。今日の寒気は、格別に厳しい。サッシの戸の隙間から、開け放してある居間の開き戸へと流れてくる冷気で、イヤでも実感させられる。
チーは何処へ行ってしまったのか・・・・。この寒空に震えてはいまいか。
心細い思いをしているんじゃないだろうか。
私は、チーがあわれに思えて、あわれに思えて仕方なかった。
私は考えを変えることにした。いつまで心配したって、ラチなどあかない。
このままチーが帰らなかったら、私の負担はだいぶ軽くなるじゃないか。
食費も、時間的制約も、気苦労も半分近くなるはずだ。かえって幸いじゃないか。私は自分に言い聞かせた。
私は、気持ちの切り替えが速い人間だとの思いがあった。
過去いろんな失敗があっても、次があるじゃないかと思うようにしてきた。
反省をしないという訳じゃないが、過去に拘泥するのは良くない。反省点は参考にしながらも、いつまでも拘泥するのは良くない。
それが、今度ばかりはどうも上手く行かない。いつまでも後を引きそうな気がする。
いつも身近にあった温もりを、いつも膝の上にあった温もりを、私を見つめていたつぶらな瞳を、いつも私を見送り出迎えてくれたあの愛しい子を、私は忘れることが出来るのか。
私は、陰鬱な気持ちで床についた。
真夜中、不思議な気配で目が覚めた。フローリングの床を引っ掻くような、忙しない足音。
「チー!」
私はガバッと跳ね起きた。照明をつけると、確かにチーが居た。
激しくシッポを振り、床を踏みならしている。
「チー!」
私は、急いで駆け寄り抱きしめた。
「おーチー」
チーは、私の顔を激しく舐めた。呼吸が「ゼー、ゼー」と、不気味なほど荒く大きい。身体が冷えていて、オコリのように大きくワナワナと震えていた。
必死の思いで駆けてきたのか。ようやく我が家にたどり着いて、よほど嬉しかったのか、チーは失禁していた。
「お~、よし、よし。腹が減ったろ。さあ、牛乳飲むか」
チーは、私の出した牛乳をむさぼるように飲んだ。
「しょうがないな。ほら」
マルが見ていたので、マルにも牛乳をやった。
「これも、食うか」
ドックフードを差し出すと、チーは身を震わせながら夢中になって食った。
泣きながら食っているように、私は思えた。
食い終わると、すぐに私の膝の上で丸くなった。時おり確かめるように首を伸ばして私を舐める。独り怯えて震えていたのか・・・・と、思うと改めて胸が痛んだ。
おそらく、車が通るうちは恐ろしくて帰るに帰れなかったのだろう。
やっと車の通りが途絶えたのを見て、それこそ、必死の思いで我が家を目指したのか。
「よし、よし、チー、もう大丈夫だ。よし、よし」
私は、これでやっと長い一日が終わったと感じた。
マル、人相(犬相)良くない
イスに寝そべるチー