【レティアの結界】
瞼の裏で、星が瞬いていた。いま目を開けたらなんだか取り返しのつかないことになるような気がして、シオンは固く目を閉じていた。
一瞬ののち、靴底に地面の存在を感じ、失われていた重力が戻ってきた。それから何の変化もないので、念のため足を地面に擦り付けてその存在を確かめてから、おそるおそる目を開けた。
目の前には銀髪の少女。そして周囲は、
「どこだ、ここ…………」
不思議な空間だった。曲線を多用した見たことのない紋様が彫られ、ところどころに大小さまざまな青い石の嵌められた白い壁、わたりは5メートルくらい。同じ意匠の白い天井は恐ろしく高く、天井までシオンの身の丈の何倍あるのか。青い石が発光して、辺りは冴え冴えとした冷たい光に満ちている。
そしてふと足元を見て、シオンは頓狂な声を上げた。それと言うのも、シオンの立っているはずの場所には「床がなかった」のだ。
いや、動揺したシオンがわずかに動かした足は確かに何かに接地し、靴底が摩擦する音をたてたから、そこに地面が存在することは間違いがない。
だが、その「地面」は星の撒かれた夜空そのものだった。
きらきらと輝く星々の海には奥行きさえ感じられる。床一面に透明なガラスが敷いてあるのだろうかと思ったが、散々靴が擦ったのに傷ひとつついていない。
立っているのに、浮いている。なんだか頭がくらくらしてきた。
「くしゅんっ」
これ以上深く考えるのはよそう、シオンがそう思った時、少女が華奢な肩を震わせてくしゃみをした。
「だ、大丈夫? これ、着てな」
シオンは自分が着ていた皮の上着を少女の肩に掛けてやった。暖かくなってきたとはいえ、肩と腕が丸出しで寒そうだと最前から思ってはいたのだ。そういえば、この場所はシオンが元いた場所より暖かい。いや暖かいというより、寒くない。そして暑くもない。ちょうど良い、と言えば聞こえはいいのだが、それとは少し違うような不思議な感覚だ。気温という概念が存在しないような……。
「ありがとう」
少女は上着にきちんと袖を通した。体格が違うのだから当たり前だが、丈がまったく合っていない。袖が大きく余っているのを認めた少女が袖をくるくる折り返しているのを眺めながら、シオンはこっそり息を吐いた。
よかった。実は目のやり場に困っていたのだ。惜しげもなく晒された女性の素肌というものは、健全な青年には刺激が強すぎる。
「それで……。きみは」
もうひとつ大きく息を吐いて、シオンは改めて少女を見た。
「きみは、誰? ここはいったいどこなんだ?」
ここまであまりに急すぎて、理解が追いついていない。努めて平静を保ちながら、静かに問う。
少女はシオンの鳶色の瞳をじっと見つめ返し、言葉を探すようにして答えた。
「わたしは、レティア」
シオンは音をたてないように唾を飲み込んだ。
珍しい名前ではない。この世界を創ったと言われる女神の名前だ。全てを生み育む創造神。慈愛にあふれる美しい女神であるという彼女にあやかって、我が子に「レティア」の名前をつける親はたくさんいる。
しかし、こと目の前の少女に関しては、「よくある名前」で済ませることはとてもできなかった。
女神レティア、創造を司る女神。またの呼び名を【銀髪と紅の瞳の娘】。目の前の少女の美しい銀髪と真紅の瞳。
「ここは、【レティアの結界】。世界の裏側、世界の向こうに存在する、世界……」
最後の方は声が小さくなり、しかも語尾が上がってほとんど疑問形になっている。煮え切らない答え方だ。それに、世界の裏側とは? 混乱が混乱を呼んで、シオンは頭上に疑問符を大量に浮かべた。
「どういうこと? きみは、女神レティアなのか? それで、ここはきみの結界? ということは神様の世界ってこと? って、え?! もしかして、俺、死んだ?!!」
言葉にして状況を整理しようとしたのに、よけいに頭の中がごちゃごちゃになった。あたふたするシオンを前に、少女はしばらく口を開いたり閉じたり、視線をあちこちにさまよわせたりしていたが、やがて意を決したふうに、
「わたし、…………わからないの」
と言った。シオンはぽかんとして、
「わから、ない?」
と少女の言葉を鸚鵡返しにした。少女が頷く。
「わたし、気がついたらどこかにいて。男が私に声を掛けてきたんだけど、何を言っているのかほとんどわからなくて。怖くなって逃げたら、鎧を着けた人たちが追いかけてきて……。なんとなく、ここへ移動する方法が頭に浮かんだからこっちへ逃げてきたんだけど、ここには何もないから、お腹が空いたら戻らなくちゃいけなくて、それで……」
いわく、戻る場所を変えながら、もとの世界とこの世界を行き来していたのだという。最後はやはり尻すぼみな言い方で、顔が徐々に俯いていった。そのうえ声が震えている。きっと寒いせいではないだろう。
「……怖かったな」
シオンはそっと、なるべく軽く、少女の左肩に手を置いた。少女が顔を上げる。瞳が潤んでいた。
シオンは考える。おそらく少女は、なんらかの原因で記憶を失くしてしまったのだ。そこへ、騎士たちが迫ってきた。理由は不明だが、移動を繰り返しても執拗に追ってきているということだから、暴行とかそういった目的ではないだろう。
わけもわからず、武装した男たちに追いかけ回されて、少女はどんなに恐ろしかったことだろう。
「安心して。俺がきみを守るよ」
するりと口から出てきた言葉に自分でも驚いたが、不思議と本心から外れた気持ちではないように思った。
「でも……。ごめんなさい、とっさに連れてきてしまったけど、わたし、そんなお願いをするつもりじゃ……」
シオンは自分の言葉を胸のうちで反芻する。やはり、嘘の気持ちではない。だから、穏やかに言った。
「いいんだ。俺がそうしたいからそうするんだ」
少女は目を見開いた。赤い大きな瞳に涙の膜が張って、青い石が放つ光を柔らかに弾いていた。
「……もとの場所にも帰してもらいたいしね」
申し訳程度に付け足した言葉はあまりにも言い訳がましくて、シオンは苦笑した。釣られてか少女も少し笑った。
ぐぅ。
「あ……」
小さいが、はっきり聞こえた。腹の虫の鳴き声だ。少女は慌てたようにお腹を押さえて首を横に振った。シオンは笑って、ポーチから干しリンゴの包みを取り出した。母と食べろとゾフィーおばさんは言ったが、お腹を空かせた少女にあげても怒らないだろう。
「食べな。貰いものだけど。ゾフィーおばさんちのリンゴは、甘くて美味いんだ」
「……ありがとう」
壁を背にして座り、包みを開いて差し出すと、少女も隣に座った。遠慮がちにリンゴをひとかけらつまんで、口に運ぶ。もぐ、もぐ……と何度か咀嚼するうちに、ぱあっと表情が明るくなる。どうやら気に入ったらしい。
シオンもひとかけら食べてから、包みを丸ごと少女の手のひらに乗せてやる。少女は申し訳なさそうな顔をしたが、シオンは黙って頷いた。
しばらく、少女が干しリンゴを食べるしゃく、しゃく、というほんのわずかな音だけがしていた。他に何の音もしない、本当に静かな空間だった。
シオンは、少女が美味しそうに、嬉しそうに干しリンゴをかじっている様子を眺めた。
「ごちそうさまでした」
少女は包み紙をきれいに畳む。シオンは立ち上がった。
「それじゃあ、行こうか」
明るく言うと、少女も立ち上がって頷いた。