出会い
奈落の底を覗いたような、暗い双眸がこちらを見つめている。息遣いは荒く、不快感をもよおす生臭い匂いが漂ってくる。
害意と敵意を含む視線を受け止め、暗赤色の髪の青年は手にした両手剣を体の前で正中に構えた。
狼と猪の中間のような姿をした生き物だ。鋭い爪のある大きな脚は狼に似ているが、硬そうな毛と、口蓋から大きな牙が突き出しているところは猪に似ている。体高は青年の膝くらいだろうか。
切っ先で相手を正確に捉える。途端に相手の殺意が大きく膨らんだのを肌で感じた。
獣が大きく跳躍した。青年を頭から丸呑みにせんとばかりに牙を剥き出しにしている。舌の根までよく見えるようだ。
青年は身体の向きを変える最小限の動きで獣の爪と牙を避けた。青年を捕らえ損ね空を噛み、獣はさらに息遣いを荒くした。
怒りを感じさせる低く短い咆哮とともに、獣が再び跳躍する。
青年は、正中に構えていた両手剣を水平に寝かせた。弾丸のような勢いで飛び込んでくる獣の頭の高さに剣を置いて、身体はやや斜めに逃がすように。
獣の爪が剣を掴んだ。間髪入れずに牙。勢いに負けないよう、青年は剣を支える。余計な力は入れない。
宙ぶらりんになった獣の後ろ脚が青年を蹴りつけようとしたが、青年が身体を逃がしていたので叶わず、やはり空を蹴った。
青年は勢いよく剣を振り上げた。獣が剣から振りほどかれる。体勢を整えて着地しようと獣が四つ脚を揃える前に、青年が斜めに振り下ろした剣が頸筋に食い込む。
ズバッ!
白刃が閃き、鮮血が飛沫く。獣がどうっと地に倒れ伏した。赤い血溜まりがじわりと広がる。
青年は静かに息を吐き、剣をひと振りした。剣にまとわりついた血が弧を描いて宙を舞う。
腰に下げた鞘に剣を収める。ちん、という軽い金属音を合図にしたように、地に伏した生き物の体が、血が、黒い粒となって沸き立ち、そして消えた。
青年が倒した生き物は魔物。グレースドロップに存在する、特殊な生き物である。普通の獣よりも生命力が強く、知能は種によってさまざまだが概して凶暴。絶命すると、いまのように黒い粒に変じて消えてしまう。
魔物は時おり人里に現れては、田畑を荒らし人々を襲った。
「他は……よし、いないな」
周囲に魔物の気配がないことを再確認して、暗赤色の髪の青年――シオン・アトレイドは日課の魔物退治を終了した。
シオンは、彼が住む田舎町イリーナでは名の知れた剣士である。彼自身の恵まれた才能と、騎士であった父親の手ほどきのおかげで、17歳となった今ではイリーナ周辺に出る魔物であれば問題なく討伐できる実力を得た。だから彼は、町の者の頭を悩ませる魔物退治を一手に引き受けている。
だがこれは、本来であれば一市民であるシオンの仕事ではない。
本来、魔物の討伐は各地の治安維持を司る騎士団の仕事である。騎士団は魔物の討伐のほか、犯罪の取り締まりや治水工事・道路整備の統括などを任務とする。
しかし近年、騎士団の活動は著しく縮小している。騎士の姿を見かけることはめっきり減った。
騎士を支配している中央政府に問題が起きていることは確かなようだが、イリーナのような地方に住むシオンたち一般市民に詳しいことは伝わってこない。騎士がいないならいないで、自分たちでなんとかするまでだ。だから、ただの腕に覚えのある一般市民であるシオンのような者が魔物退治を請け負っている。
幸いイリーナは治安の良い町なので、魔物退治さえどうにかなれば今のところ大きな問題はない。
「あらぁ、シオンちゃん! おはよう~」
「ゾフィーおばさん」
町へ入ってすぐ、よく聞き慣れた声を聞いた。声を掛けられた方へ視線を向けてみると、近所に住むゾフィーおばさんが「こっちへ来い」と手招きしている。同じく近所に住む奥さまたちと朝の井戸端会議中らしい。
この年になって「ちゃん」付けで呼ぶのはやめて欲しい、と思いながらもシオンが素直に寄っていくと、ゾフィーおばさんは手にした袋から小さな包みを取り出して差し出した。
「今日も朝早くから魔物退治? いつもありがとねえ。これ、うちで作ったやつ。少しで悪いけど、お母さんと一緒に食べて」
「ありがとう、おばさん」
包みをそっと開いてみると、干しリンゴだった。ゾフィーおばさんの家で採れたリンゴを、冬の間に干して作ったのだろう。シオンは、剣帯と一緒になっているポーチに包みをそっとしまった。帰るまでなら問題はあるまい。
「まったく、最近は土地が痩せて作物がろくにできないよ。皇王陛下の巡幸もないし、どうなってんのかねえ」
ゾフィーおばさんのため息に、奥さま方が「そうよそうよ」と同調する。
グレースドロップ唯一の国、ウェール皇国は皇王が治める。現皇王は何故だか数年に一度行うはずの、土地に活力を与える儀式をやらないので、畑仕事に支障が出ているらしい。
騎士団は仕事をしないし、そのくせ税だけは今まで通り要求してくるのだから……と、女性たちの愚痴が盛り上がってきたところで、シオンはゾフィーおばさんにもう一度礼を言ってそそくさとその場を離れた。こういう女性の話に捕まってしまうと、いつまで経っても帰れないのだ。
シオンは自宅に向けて歩を進める。町の婦人会の奥さま方が道路脇の花壇に植えた花々が、冬を耐え抜き開花の時を今かいまかと待っている。
隅の一株が蕾を綻ばせているのを、シオンは見つけた。明日か明後日には、小さくて可憐な花を咲かせるだろう。そうしたら、もう春はすぐそこだ。暖かくなって、この通りはもっと華やかになる。知らず心が躍る。
ガシャガシャガシャ……
「ん?」
心持ち歩調を速めたシオンの耳に、硬い金属がぶつかる音が届いた。
音のする方を見てみると、町の中央広場を甲冑に身を包んだ男が二人横切っていくところだった。
「近衛騎士だ……」
騎士団は近衛騎士団、中央騎士団(単に「騎士団」と呼ばれることが多い)、辺境騎士団の三つ存在し、近衛騎士団は騎士の中でも選ばれた精鋭のみが所属できるエリート中のエリート集団だ。主に都を担当し、地方では滅多にお目にかからない。
「近衛騎士がなんでこんなところに」
この辺りを管轄する中央騎士さえ見ないのに。
装飾の施された豪奢な鎧――これも他の騎士とは格式が違う――が走り去って行った方を見ながら、シオンはより歩みを速め、中央広場に出た。
その時、
ドンッ!
突然身体の左側に鈍い衝撃を感じ、シオンは少しよろめいた。
よそ見をして角を飛び出したせいで、同じく角の向こうからやってきた人とぶつかってしまったらしい。
シオンは少しよろめくだけで済んだが、相手は衝撃を堪えきれず尻餅をついてしまっていた。俯いて顔は見えないが、腰くらいまである長い銀髪、華奢な身体つき、女の子だ。
「ご、ごめん! よそ見してて……。立てる?」
立たせてやろうと手を差し出す。
少女が顔を上げた。
「…………っ!」
その容貌の、あまりの美しさに息を飲んだ。
少し目にかかる銀の前髪は陽光を反射してきらきらと輝き、肌は透き通るように白く、唇は淡く桃色に色づいている。
また、全ての造形が完璧と言えるほどに整っていた。すっと伸びた鼻筋、つんとした顎のライン、円い額……。
そして、特筆すべきは少女のその瞳。
宝石のように煌めく瞳は鮮血のごとく深い赤色をしていた。全体的に色味の淡い少女の顔の中で瞳だけがはっきりと際立っていて、目を向けずにはいられないのに見つめると吸い込まれそうだ。
少女がシオンの手を取った。少女に見とれて呆けていたシオンはその感触で現実に引き戻される。
腕に力を入れて少女を立たせてやる。思ったよりもずっと軽く、少女はふわりと羽のように立ち上がった。
「大丈夫? 怪我でもした?」
少女が何も言わないので不安になる。
少女は感情の読めない目で周囲を一度見回したあと、シオンに視線を戻した。
「してない、だいじょうぶ」
柔らかな印象の細い声だ。鈴を転がしたような、とはこういう声のことを言うのだろう、とシオンは思った。
怪我はしていないということで、シオンはほっと胸を撫でおろす。こんなに華奢な女の子に自分のせいで怪我を負わせたなどとあっては、申し訳が立たない。
「よかった」
改めて少女を見る。見慣れない服装だ。絹地を体に巻きつけて皮帯を締めただけのようなシンプルなワンピースで、腕や肩が大きく露出している。
少女自体も見慣れない。少なくともイリーナの町の住人ではない。観光地でもない狭い田舎町だ、人の出入りも少ない。こんなに目立つ少女なら、一度見たら忘れられなさそうなものだが。
などと、不躾なほどに少女を眺めるシオンを、少女もやはり感情の読めない目で見つめ返す。
「……。」
「…………。」
沈黙が続き、自分が少女をじろじろ眺め回していたことに気付いて、シオンは気恥ずかしさで慌てた。
「ごめん……。どこか行くところだったんだよね、俺は、これで、」
踵を返して少女から離れようとする。
すると、少女がシオンの腕を掴んだ。
「へっ?」
思わず声を上げて、シオンは少女に視線を戻した。少女はシオンの肩越しに何かを見ている。
ガシャガシャ……。背後から鎧の音が近づいてくる。近衛騎士がこちらに来ている、とシオンは思った。
少女は目元をわずかに険しくした。シオンの目を見据え、
「……ごめんなさい」
と、静かに言った。
「え、」
何が、と問うより早く、異変は起きた。
「?!!」
突然、足もとが眩く光りだす。シオンが驚いて地面を見ると、シオンと少女を――正確には少女を――中心に、円や見慣れない文字のようなものが複雑に重なりあった紋様が浮かび上がって、強烈な光を発している。
予想だにしない異常事態にたじろいで、シオンは思わず後退った。それを逃すまいとするように、少女は掴んだ袖をぎゅっと握る。
光はますます強くなる。少女の赤い瞳はシオンを見つめている。生ぬるい風が巻き起こり、シオンと少女の髪や服の裾をはためかせた。
「きみは、いったい、」
「導け、【レティアの結界】!!」
少女が小さく、けれど高らかに言って、右手を天に向かって突き上げる。ぐんと頭のてっぺんを引っ張られるような奇妙な感覚と浮遊感があって、シオンは気持ちの悪さに反射的に目を閉じた。
なに、とこぼれかけた声は、光とともに空気に溶けて消えた。