9・秋田川反とバー・こもれび
まだ現在&過去で話は進みます。ボチボチ合流するつもりです。
9・秋田川反とバー・こもれび
午後七時半だ。
秋田はどうやら川反というのが飲み屋のメインスポットだった。川反と書いてかわばた、と読むらしい。
緋堂美雪の言いつけに倣い、コンビニでマジックを買っていた彼女は、シャッターの降りた商店の脇道で段ボールを調達し、
『静岡からの流れ旅です! 札幌から東京に南下してます!』
照れ臭かったが看板を書いた。
川反はどうやら規模の大きな飲み屋街で、風情のある石橋を渡ると古くからの佇まいに圧倒された。細々とした密集地があるかと思えば近代的な背の高いビルもあり、場所の選択に悩んだ。いつもなら目安となるはずのコンビニも見当たらない。念のために駅前のコンビニで鬼ころしを一パック買っていたのでそれを燃料にすることに決めた。
ボンヤリと上ばかり見て歩くのにも疲れ果て、たまたまそこにあった七番館という威勢のいい佇まいの店舗の角で唄わせてもらうことにした。演奏するに当たり挨拶すべき店もなさそうで、ただし民家が見え隠れするので苦情の来ないうちに唄い倒すつもりだった。
譜面台を立て、ギターを出していると、
「おう珍しい。流しさんがいるでねが」
数人のサラリーマンが好意的に見つめながら通り過ぎた。どうやら雰囲気はいいと踏んだ彼女は、急いで支度を終える。佐々木にチューナーをもらってからというもの、チューニングがはかどっている。
準備を終えるとすぐにギターを鳴らした。いつもの曲でスタートだ。佐々木に勧められてスマホで落としたブルーハーツの『青空』も、そろそろ試してもよさそうだと思った。
スピッツの『チェリー』を唄っていると、近所のおばあさん、といった感じの人が五十円玉を入れて頭を下げていった。演奏途中だった優希もまた会釈を返す。
九時を回り、持ち歌のすべてを唄い終えた。が、入ったのは老婆の入れてくれた小銭だけだ。本気になるなら十二時辺りなのだが、それまでに苦情が来ないか心配だった。今のところ大丈夫だが、民家の苦情は九時くらいに集中する。
考えても仕方ないと、彼女は一周したレパートリーを二周目に突入させた。せっかくなのでブルーハーツの『青空』を試しに唄ったが、途中のコードを間違えてしまいボロボロになった。「要練習」と呟き、彼女は次の曲へ移る。そこへ、
「なんか唄ってらのが」
お腹の大きな中年のオジさんが通りかかった。翻訳は上手く出来なかったが、
「はい、まだまだ初心者なんですけど」
そう答えると、
「春日八郎唄えるが」
「いや、まだ勉強中でそういうのは」
「じゃいい」
オジさんはくるりと背を向けると歩き去った。こういう時は「じゃあ何が出来る」「いちばん得意な奴唄ってくれ」と言われるのが普通だった彼女には、鮮烈な体験だった。
(曲……増やさないとな)
もちろん、どれだけレパートリーを増やしても、春日八郎の入り込む余地はないだろうことを彼女は知る由もない。ただ、飲み忘れていた鬼ころしにストローを差し、一口啜るとやる気が起きてきた。出来ることはひとつだけ。唄うのみだ。どうやら苦情も来ないらしい。雨も大丈夫。夜はまだ早い。
鬼ころしが効いたか効かずか、ちらほらと通行人が反応を見せている。優希は一人一人に会釈をする。気のいい旅のミュージシャンを演じる。そうして一人を噛みしめる。この旅最大の孤独感を、しかし傍観者のような気持ちで眺めている。自分の身体から離れたもう一人の自分が目の前に立ち、何かを問いかけようとしているのだった。その問いかけは自分という存在の根源に迫るもので、一瞬にして何もかもが不意になるそんな危うさを孕んでいた。
三周目のレパートリーを、彼女は無心になって唄った。それしか打開策はない。そして誰も止まらない、見向きもしない。そんな時間が三時間ほど続いた。レパートリーは五周を終え、弦を押さえる左手の指先が痺れ切っていた。
(終わろう……)
優希は無言で荷物をまとめ、手描きの看板をギターケースの底へ敷き、ゆっくりと立ち上がった。老婆のくれた五十円をポケットへ入れて。
*
寒さで目が覚めると、小樽のアーケードでは朝市が始まっていた。優希はシュラフから這い出ると大きなくしゃみのあと洟を啜った。これは朝から熱燗が必要だと、九月の北海道の寒さに恐れ入った。
とりあえずベンチの下のギターを取り出し、シュラフをまとめ、目の前の販売機で温かいコーヒーを買った。特に禁煙でもなさそうな廃ビルで煙草を一本吸い、それを朝食にした。
サンモール、都通と、長いアーケードを二つ抜けると左手に小樽駅が見える。そろそろ次の目的地を考えようと思って路線図を見に行った。が、それでは詳しく分からなかった。みどりの窓口で訊ねると、函館までは六千五百円だと言われた。今の手持ちでは足りない。果たしてこの地でその金額を叩き出せるかはまだ分からなかった。札幌では緋堂美雪が自分の取り分を辞退してくれてこその収入だった。
あの言い方だと佐々木は今夜もやって来るだろう。そうすると投げ銭はまた折半になってしまう。そして、それを気にしている自分が嫌だった。旅の上での出会いに対し、素直に感謝出来ない自分を呪った。
結局、二時間をアーケードで過ごした。そして朝市に並ぶジャガイモや葉野菜を見て回り、それがいったい安いのか高いのか分からない自分の生活力の無さを反省する。
小樽の道はアップダウンが激しい。海から山手にかけて五百メートルの標高差がある。ロープウェイで上がる天狗山のスキー場では春先にもスキーが出来るらしいと聞いた。
十時になり、スマホで地図を調べ、曲がりくねった坂を上って図書館へ向かった。昼の潰し方が分からない街ではそうするのが無難に思われたからだ。そこにスマホの充電が出来るコンセントを見つけたのは僥倖だった。
あちこちに、彼女と同じような大荷物の人影を認め、それぞれ何をしている人なのか気になった。履き潰した靴。虚ろな瞳。椅子へ座り込んでじっと動かない背中。旅を終えた彼女ならばそれがホームレスだと一目で分かったが、その時には分からなかった。自分と同じ気ままな旅人だとしか感じなかった。何より、そういう人々が極寒の地にいるとは思わなかった。
夕方の五時までに梨木果歩を三冊読み終えると、優希は思い切り背伸びをした。軽い立ち眩みが心地よい。沈んでいた朝に比べ、気分も回復している。やはりいい物語は脳のエネルギーになるのだ。
気持ちが変わると行動も変わるもので、
(せっかくの小樽だ、運河沿いでも歩いてみよう)
荷物を背負い、優希はぐんぐんと坂を下る。五号線を越え、その名の通り寿司屋の並ぶ寿司屋通りを抜けると、夕暮れの運河は水面を揺らしていた。異国の地に来たような情緒が彼女を包む。が、正直、そこまでして見るべきものだろうかと彼女はそれを訝る。世間は箱モノとイベントばかり追いかけ、その延長にあるのが観光名所だ。優希は札幌でも時計台を見ていない。大通公園をなんとなく横切っただけだ。
(それではダメなのだろうか……)
彼女は家族連れやカップルで賑わう石畳を歩きながら何ごとにも無興味な自分が少しだけ淋しくなった。ただ唄い、通り過ぎるだけの土地を巡って、ユーキにどんな顔で会えばいいのか分からなかった。本当に「旅をしてきた」と言えるのだろうか。
そんな訳で、運河の散策は通り過ぎる人の楽しそうな顔を見るだけで終わった。
帰り道、さすがに空腹感を覚えたので、例のかまぼこ屋でカップかまぼこというのを頼んだ。細切れにした様々な揚げたてのかまぼこをつつき、生ビールで流し込んだ。この酒好きも直すべき愚行なのかと思えば、そこは譲れないと妙に意固地になった。
暮れるまでの時間をサンモールのアーケードで潰し、すっかり日の落ちた七時半にガード下へ向かった。今回は忘れずにカップ酒も用意した。
準備を終え、カップ酒に口を付けたところで、
「早いな」
佐々木が姿を現した。頭には手拭いを巻き、彼の方が旅人染みていた。もしくは運河沿いにいたガラス職人だ。
「おはようございます」
もらったチューナーに合わせてギターのペグを回していると、昨日と同じ位置で彼が腰を下ろした。
「昨夜はどこで寝たんだ」
佐々木は咥え煙草で譜面台を用意する。
「サンモールのベンチで寝ました。寝袋あるんです」
彼女は正直に答えた。
「マジか。まあ、不審者さえ通らない淋しい街だからな。それでイケるんならそれもいいだろうよ。さて――」
と言って彼は百円玉を取り出す。すかさず彼女はカップ酒を手に、
「表です」
「じゃあ裏だ」
佐々木の投げたコインは裏だった。
「じゃあ、俺からのんびりスタートするかな」
花園銀座を行き交う人々に向かい、枯れた音のするギターが響き始める。
「優希は譜面台買わないのか」
ソフトケースへと置いた彼女の譜面を眺めつつ佐々木が言うので、
「あった方がいいですかね」
そう答えると、
「そりゃ、顔が正面無向くからな。声の張りが変わるよ」
なるほど、と思い、
「高いんですか?」
「安いのは千円くらいであるよ。この坂のすぐ下に楽器屋があるから明日にでも見ておくといい」
「はい」
二番手の優希は、迷わずにゆずを唄った。この一曲目がやがて変わる日が来るだろうか。そんな日を思い浮かべながら、意味も分からず感傷的になる自分を抑えた。この歌がいつか思い出になる日が来るなら、それはいつだろう。
彼女の演奏が終わると、佐々木が小さく拍手をして、
「やっぱその曲がいちばんしっくりくるな。唄い込んでる感がある」
「地元の初日から毎日唄ってますから」
煙草を吹かす佐々木につられ、優希もマルボロを取り出す。二人して紫煙をくゆらせていると、
「どうした! 唄わねえのか!」
坂の下から通りがかった熊のような男性が笑いながら近付いてきた。
「ああ、溝口さん! やりますよ。今日はゲストもいることだし」
「そんなんどうでもいい! 尾崎唄え!」
男性は大きな身体を揺らしながら佐々木の演奏を待っている。リピーターのつく歌唄いが羨ましいと彼女は思う。地元の強みだ。
「分かったってば。じゃあ『Sclap Alley』唄うわ」
「よ! 待ってました!」
ノリのよい曲が終わると、男性は今気付いたというように、
「お姉ちゃんも何かやんのか」
もの珍しそうに訊ねてきた。
優希はカップ酒にむせながら、
「は、はい。あんまり曲はないんですけど」
すると佐々木が横から、
「優希、『いつか』唄えよ」
そう囁いた。
「でもあれ、さっき唄ったばっかりで――」
「いいんだって、向こうは聴いてねえんだし」
「はあ……」
そんな訳でさっき唄ったばかりの『いつか』を唄うこととなった。熊のようなお兄さんは無言で優希の指使いを見つめている。
「いいでないか」
演奏の終わりと共に男性はうなずいた。
「佐々木! これでなんか食え! 嫁さん放ってホテル行くなよ!」
そう言うと、財布から五千円札を出してケースへ入れ、一人きり坂を上がって行った。
「よしよし、あれはウチの上客でな。ただ、ダメな時は絶対金出さねえんだ」
佐々木は満足そうに言うと、次の曲へと譜面をめくった。そして、
「でさ、優希。俺が唄ってる間に熱燗付けて来てくれねえか? 昨日以来、癖になっちまってな」
そう笑う彼に彼女も笑みを見せ、
「買ってきます! 銘柄指定は?」
「ああ、任す。いや、量の多い方がいいな」
「分かりました!」
ガードの上を列車が走ってゆく。その下で優希は坂道を駆け下りる。熱燗で温まった息は微かに白かった。
ガード下に戻ると、佐々木はスマホを出して画面に見入っていた。
「買ってきました。多いのがいいって言ったんで、これにしました」
と、二百ミリの酒を差し出す。
「サンキュ、それでいい。それでな優希、もうじきここ閉めて他に移ろうと思うんだ」
「場所替えってことですか?」
「ああ。優希のこと話したら会ってみたいって言う連中が定数に達したんでな。問題なかったら付き合って欲しいんだ」
「私に……ですか?」
「ああ。バイクで一人旅してたヤツとか、ヒッチハイクで日本一周したヤツとかだ。皆、気のいいヤツらだよ」
佐々木の意図は汲めなかったが、彼を信じることで答えにした。
「てな訳で、酒も揃ったことだし二曲ずつやって閉めよう」
「はい」
気温十二度の路上で、二人は互いに曲を回した。佐々木の二曲目には、
「さっささん、『青空』お願いしていいですか?」
とリクエストをかけた。
「おう。魂込めて唄ってやるぜ」
それから二人は酒を飲み干し、荷物をまとめた。
「ちなみにそこ、遠いんですか?」
優希は譜面台をリュックに収めながら訊ねた。
「いや。坂を上がって右に折れた十字街のビルだ」
北海道では交差点のことを十字街と呼ぶのが普通らしい。信号機のプレートにも、花園十字街、と書いてある。
「こっちだ」
荷物をまとめ、足早な佐々木に着いて横断歩道を渡ると、十字街の角に重厚さを感じさせる白亜の建物があった。「無尽ビルだ」と佐々木が教えてくれる。小樽の歴史的建造物らしい。白い壁に植え込みからのライトアップが映えていた。
エレベーターで二階に上がると、やけに天井の高い、暗い廊下に出た。古い図書館の匂いがする。
「ここだよ」
大きな木製の引き戸を開けると、ボンヤリとした明かりの中に鈴の音が響いた。
優希はまず、足元の玉砂利に足を取られそうになった。それをまたぐように踏み板が並んでいる。木製の枠組みと簾の続く半個室の席が並び、どこか異国の路地裏に紛れ込んだ気がする。
「いらっしゃい! 上、来てますよ」
ようやく姿を現した店員が天井を指差す。するとそこには大きな木の階段があった。
「ロフトがあるんだよ。優希、荷物気を付けてな」
店内は薄暗く、優希は足元が覚束ない。個室を大回りして階段へ足をかけると、
「ほらよ」
先に上がった佐々木がギターを持ってくれる。
「ありがとうござい――」
言いかけた彼女へ、
「ようこそ小樽へ!」
「このど田舎へようこそ!」
次々に声が飛んだ。見ると酒宴はたけなわのようで、三人の男が大テーブルを囲んでいた。佐々木は優希の手を引いて真ん中へ引っ張り出すと、
「皆、彼女が噂の旅人、坂下優希ちゃんだ!」
瞬間、床下からも、どっと歓声が上がった。優希一人がそのノリについていけず、たじろいだ。
「優希ちゃん、心配いらねえから。コイツら皆、スノボのダチだから」
なるほどとうなずく優希は、
「あの」
「何?」
「いえ、ここで私どうしたらいいんですかね」
すると佐々木は悪だくみをする少年の顔になり、
「今からライブの第二部だ。ヨロシク頼む。あ、譜面台は貸してやっから」
そう言うと椅子に座り、手早く酒を注文した。
優希は勢いで押し流されるようにギターケースを開ける。佐々木がギターを出す様子はまったくない。
丸テーブルから一メーター離れたロフトの奥に席を取り、何かに騙されている気分で準備を進めた。
「じゃあ皆いいか! ただいまより、坂下優希イン、バーこもれび! 記念すべき第一回ライブのスタートだ!」
満場の拍手のあと、瞬間の静けさが襲う。それに負けぬよう、彼女はギターを撫でた。
「え、と、坂下優希と言います。難しいことは何も出来ないのでいつもの歌でスタートします」
ギターの尖った金属音が木製のロフトの中で柔らかく響くと、戸惑いながらも優希は唄い始めた。