7・弘前親子と緋堂美雪
相変わらず時系列は、現在&過去となっております。
7・弘前親子と緋堂美雪
今日から十月だ。
青森へ向かうフェリーは正午の出航だった。得るものの多かった函館を離れるのは少し寂しかったが、センチメンタルになっている暇はない。これで残金は七千円だ。通帳の金は残しておこうと思った。それで近日中に、ホテルに泊まる予定だ。そろそろたまった洗濯物を洗いたかったからだ。この旅の中で、実家にいる時のような暮らしぶりはアウトだ。清潔感が何より重要なのだ。気付けば同じスウェットを二カ月も着ているなどという行為は許されない。
三時間四十分の船旅はやけに揺れが大きく、元来乗り物酔いをする彼女にはしんどかった。高校時代は片道四十分の距離を、バスを三回乗り降りして登校したこともある。
青森の港に着くと、そこらじゅうにリンゴのオブジェやマスコットが見えた。甘酸っぱいリンゴは船酔いを緩和してくれるかもと思ったが、どれもこれも箱売りされているのを見てあきらめた。
早い時間に街を見て回るのは必須条件だが、青森駅前には手ごろな場所が見当らなかった。どこもかしこも民家の影が見えるのだ。優希が思い描く条件はただひとつ、長閑な飲み屋街だった。パラパラと客引きの黒服が歩き回り、何かに退屈した人々が行き交う交差点だった。そして、残念だがそれが青森には見当らなかった。時間が早かったせいもある。
そこへ不意に、
――「弘前なんかがいいかもよ」
『クラブ・マリア』のママが教えてくれた情報が過った。
(弘前……どれくらいで行けるんだろう)
そう思い、駅の案内を見ると六百七十円で行けることが判明した。
(行こう。せっかくの情報だ)
そんな訳で青森の滞在時間は一時間で終わった。土曜日という稼ぎ時を下手な場所で潰したくはなく、この旅の中で旅情というものは捨てていた。それより何より、食べて、寝る場所を確保するには見切りも大切だ。
弘前に向かうと、すでに夜が始まっていた。勇気を出して地元の人に話を訊くと、鍛冶町という地名が並んだ。弘前城を目指して歩けば分かると言われたとおり、スマホのルート案内で辿り着いた。
圧巻というか、鍛冶町は驚くほど昭和テイストの飲み屋街で、彼女の地元を彷彿とさせた。その規模を十倍に広げたような街だ。あちこちに並んだ黒服も、五十メートルほど先に見えるコンビニも、既視感を持って彼女を迎え入れた。
外観では、背の高い建物は少なく、ビルの中を通り抜けられる形式の建物が並び、多くの店では通路に立て看板を出している。豪雪対策だろうかと思ったが、地元では雪の降らない優希には分からない。
さすがにビルの通り抜け通路で唄うのも躊躇われたので、その入り口の横にちょこんと座った。
今夜のカップ酒も準備OKだ。ただ、土曜の夜にしては人通りが芳しくないかとも思っていると、鼻の奥がムズムズしてきた。それでも大した雨にはならないだろうと思い、いざとなったら通路側へ移って淋しく唄えばよいと思った。ビルの中には五件ほどの店が並び、十人程度は帰りがけにでも興味を持って見てくれるだろう。
いつもの準備を終えて唄い始めると、モチベーションが上がってきた。函館以来、初めての場所で唄う緊張感からは解き放たれ、マイペースで唄うことが出来るようになった。
そこへ、
「こったところに流しさんがいるべさ」
通りかかったのは仲のよさそうな親子で、娘は学生服を着ていた。その上で父親の腕に笑顔でしっかりつかまっている。不適切な関係かも知れないと思いつつ、
「静岡から来てます」
優希は作り笑顔で言った。
「どんなん唄うんだ」
すでに一杯ひっかけて機嫌のよさそうな男性が訊ねる。他に答えようのない優希は、
「ゆずとか――」
言葉に詰まりながら答えると、十五、六の娘が跳ねるように反応した。
「私、ゆず聴きたい!」
ゆずの世代でもないだろうと思ったが、最近の自信作である『栄光の架け橋』を唄った。
「いいべさ、いいべさ」
男性は満足そうに胸ポケットから千円札を出すと一枚ケースへ乗せた。いい皮切りだと思っていると、
「男の歌は唄わねのが」
男性は続ける。どうしようかと迷いつつ、受けたリクエストには応えたいので、長渕の『とんぼ』を唄い始めた。するとそこへ喧騒を嗅ぎつけたか奥の店から客が顔を出す。そして最終的には五人の客に囲まれて演奏を終えた。
「お姉ちゃん頑張ってね」
言いつつチップを投げてゆく手の中に、さっきの男性の手も見える。
「いえ、さっき頂きましたんで」
「いい歌いっぺ聴いだはんで」
方言がところどころ分からなかったが、機嫌がいいのは間違いないだろう。
その後、しばしの歓談のあと、
「で、どこまで行ぐんだ」
「一応、東京まで目指してます」
「デビューするのが」
「いえ。同じ旅をしてる仲間がいて――その人は九州から東京に向かってるんです。それで、東京で会えたらいいなって」
「青春だなあ。じゃあ路銀の足しにしてぐれや」
男性は胸元を探ると一万円札を取り出す。ぐっと息を飲んだ自分のがめつさに嫌悪感を抱いていると、ポケットの札は男性の手元を離れ、はらはらと地面に落ちた。その数二万円だった。慌てて彼女が拾い集めて手渡そうとすると、
「いいべさ。今夜の宿代にでもすてぐれ」
思いがけず落とした札を引っ込められなかったのか、笑顔で手を振ると、可愛い娘と腕を組んで、仲よさそうに去って行った。
(なんだったんだろう……)
その後、キツネにつままれた気分でギターを爪弾いていると、奥からの帰り客が声をかけていった。
「頑張ってね!」
「デビューしなよ!」
そのどれもに曖昧に微笑み、またギターの弦を弾いた。
誰もが私を誤解している。プロ志向もないただのストリートミュージシャンを、担ぎあげている。
(でもその誤解がなきゃやってけないんだ。勝たなきゃいけないんだ)
ケースにばら撒かれた紙幣を丁寧に拾い、千円札一枚を残してあとは財布へ仕舞った。金なしでやっていける旅ではなかったが、金のためだけにやっていると思われるのは苦痛だ。何千、何万円を稼いでも正直な笑顔で受け取れない自信のなさは、その証拠にいつも彼女に辺鄙な通りを選ばせていた。
不意に彼の名前を思い出した。三木祐介――。
静岡の片田舎でとびきりのギターを奏で、歌を叫び、函館の街で伝説を作った彼は、いったい何者なのだろう。演奏の投げ銭は、本来、彼のような人間が受けるべきものなのだ。駆け出しの、しかもメジャー志向もない二十二歳の女は、珍しがられて金を投げられているに過ぎない。
時刻は十一時と早かったが、優希は荷物をまとめた。多額のチップと、反面、心の葛藤に挫け、腑抜けになっていた。入った投げ銭は、二万七千円だった。この旅の、最高収入だ。それが腑抜けの理由だった。
弘前城の付近に古い小さなホテルを見つけ、そこに泊まることにした。ネットカフェはあるにはあったが調べると駅の逆方向だった。
「本日御一泊でよろしかったでしょうか?」
明日が日曜だということを考えれば移動は慎重にしなければならない。予想では明日、雨が降る。
「出来れば連泊したいんですが。ありますか?」
コンビニの袋を揺らして優希は訊ねる。
「連泊ですね。喫煙のお部屋がございます」
化粧の濃いフロントの女性事務的に答える。
「あ、それでいいです。料金は?」
「二泊で一万一千二百円になります」
妥当な金額だ。一泊八千円台からだった小樽を思えば良心的とも言える。
「コインランドリーってありますかね」
「三階の自販機の隣りにございます」
金額を支払うと、この旅初めてのビジネスホテルで、優希は何よりも早く眠りにつきたかった。早速チューハイを開け、洗濯は明日へ回した。雨の日曜は引きこもるのに絶好のタイミングだった。
スマートフォンを充電器に繋ぐと、彼女はベッドの上でメールをチェックした。漆黒のユーキからの連絡は岡山から途絶えている。
テレビからは天気予報が流れている。岡山は晴れだ。
彼女は日本地図を頭に描く。岡山といえば広島の東隣で、神戸のある兵庫県の西だ。どんな規模の街なのかまったく分からなかったが、ユーキの口調では移動が便利だとも聞いている。場所替えはスムースに行くのだろう。
自分はどうだろうか。
追われるように毎日土地を移っては、何か大事なことを見落としている気もする。せっかくの旅の中で、気が付けばネットカフェと酒場を往復しているばかりだ。果たしてまた弘前の鍛冶町で唄うのか、余裕のある内に次の街を探すのがいいのか、ただそれだけで迷っていた。迷いつつ、気ばかり急いていた。
――「迷うってのはさ、大抵悪いことだよ」
『クラブ・マリア』のママの言葉が浮かぶ。
チューハイの酔いに任せ、彼女はまたボンヤリとテレビを見る。天気予報を見る限り、やはり明日は一日雨だ。晴れていれば市内の散策でも、と思ったが、とてもそんな気分になれない。そういう意味での明日一日の休みだ。様々なことが滞っている頭の中で、優先順位を付けたかった。東京でユーキと会うならばそれはいつなのか。自分はそのスケジュールについて行けるのか。それだけを考えると、やはり最後は金の話に尽きた。
――「アタシたちって結局、金にならなきゃ意味ないんだよ」
ススキノで会った少女の言葉を思い出すと、意気込んで旅に出た頃の勢いはもう消えていた。
*
「ちょっと。そこさ、アタシの場所なんだけど」
ススキノで唄い始めて三十分経ったところで、短い赤髪の少女がギターケースを担いで目の前に立った。
優希は左右を見回して、他に誰の影も認めないことを確かめてから口を開いた。
「ここ、ですか……?」
少女はフーセンガムでも膨らましそうな勢いで口を尖らせ、
「見ない顔だし、どうせどっかから旅してんでしょ。ならもっと明るい方に行きなよ。狸小路とか、ススキノ交番の目の前とか逆に苦情も入んないから」
「でも、その……」
「何さ、はっきり喋ったらいいっしょ。同じ路上唄いなんだし」
優希はそれでも言葉に詰まりつつ、
「その、色々見て回ったんですけどここが落ち着くんで……」
「わあかった。分かったから、早く荷物どけて」
赤髪の少女は有無を言わさずギターと荷物を置いた。それも優希の目の前にだ。
優希は必死に言葉を探す。しかし、先人の縄張りだと言われてしまうと無言でギターを仕舞うしかなかった。
「すみませんでした……」
そう言うと、ススキノの大通りへ向かった。彼女の言う通り、確かに大通りでは歌い手もいるし絵を描いている人間もいる。自由闊達に思い思いのパフォーマンスを演じていた。
(でも……これじゃないんだ)
結局三十分、彼女は大通りを一回りして赤髪の少女の元へ戻った
「何で帰って来んのよ!」
少女は立ったままギターを抱える姿勢で、苛ついた視線を送った。
「はい……ただどこも自分に向いてない感じがして」
「じゃあ向いてるとこってどこなのさ」
「こういう、何ていうかこじんまりした地味な場所の方が」
「アンタ、ケンカ売ってんの?」
これでは話が収まらないと思い、優希は彼女の顔色を伺うように訊ねる。
「その……何時まで唄ってるのかなって思って」
「時間? そんなの気分よ」
「だったら、唄い終わるまで待ってていいですか?」
すると少女はうんざり顔で首を横に振ると、
「三時までやるかも知んないよ」
「はい」
「四時かも知れないよ」
「その時はあきらめます」
優希は最大限の本音を彼女にぶつけた。すると、
「アンタみたいなのがじっと見てるとジャマなのよ! 普通、こういう同業者ってすれ違うだけで終わんの! 簡単に言うと迷惑なの!」
しかし、彼女は大きなため息と共に続ける。
「分かった、分かったから。まずはその目やめて。売りに出されるロバみたいなウルウルした目で見るの」
「そんな目、してますか」
「してるわよ! だったらアタシの演奏ジャマしない程度に隣で唄っていいから。上がりは七三、それ以上は譲歩しないわよ」
難しい話は分かりかねたが、どうやら一緒に唄わせてもらっていいらしい。優希は頭を下げ、彼女の右隣りで準備を始めた。その間も彼女は唄い続ける。少ししゃがれたハイトーンがどこまでも伸びる、音楽に関して語彙の少ない彼女なりに例えるなら「恰好いい歌」だった。どうしてこんな所で唄っているのだろうと思うレベルの高さだ。そんな相手と一緒に演奏することを半分後悔しながら、彼女は準備を終えた。
「いいよ。唄いなよ」
彼女はペットボトルの水をひと口飲むと、優希へバトンを渡した。
「あ、あの」
「何よ」
「ちょっとコンビニで忘れ物して」
「何それ、さっさと行って来たらいいじゃん」
「すみません」
席を立って近場のコンビニへ行くと、彼女はいつもの酒を頼んだ。しかし上手く伝わらない。
「アルミキャップを取って、三十秒でいいです」
彼女が言うと、店員は戸惑いながらレンジへそれを入れた。
用事をすませて戻ると、赤髪の少女は座り込んで弦を交換していた。
「あったの、忘れ物」
「はい」
優希がレジ袋からカップ酒を取り出してみせると、彼女は無言になった。
切れた弦を張り替える少女の隣りで、優希はこの旅初めての演奏を始めた。曲はもちろん、初めて覚えたゆずの『いつか』だ。
初の北海道の一曲目。本人的には感慨深かったのだが、演奏が終わると赤髪の少女は呆れ顔で、
「すっごい下手……アンタよくそれで旅してるわね」
どこか心配げに言われてしまった。
しかしそれは自覚していることなので、優希は大して落ち込まない。はい、とうなずいて次の曲を唄うだけだった。すると、
「頑張れ」
少女の開けたギターケースに千円札が入った。入れた客は演奏を聴きもせず去ってゆく。路上にありがちな光景だった。
「やるじゃん」
少女は取り替えた弦をチューニングしながら、優希を見もせずに呟いた。そして、
「この世界さ、一面的には捉えられないの。だから多角的に見て、金を稼ぎやすくする。たとえば旅人なら段ボールの看板掲げて、ケースも大きく開けて、そして下手くそなら下手くそなりに真摯に唄う。唄い続ける。結局、金にならなきゃ意味ないんだよ。そして金さえ入ればそれは間違ったやり方じゃないってことなのさ」
「はあ……」
自分の曲がけなされたのか褒められたのかも分からず、優希はカップ酒を煽った。分かったことは、少女が金のために唄っていることだ。
「その、お名前伺ってもいいですか」
優希がアルコールまみれの吐息を吐くと、
「緋堂美雪」
彼女はぶっきらぼうに名前を告げた。
「緋堂さん……私は坂下優希です。路上のことよく分かんないですけどヨロシクお願いします」
「分かったから、その『私、何も知りません』的なのやめてよね。路上に立ってる限りは同列なんだから」
そう言うと緋堂美雪はおもむろに立ち上がって、優希の知らない洋楽を唄った。通りゆく人々は彼女の存在に圧倒され、立ち止まりはしないものの歩幅を緩めた。
「知ってる? ジャニス」
唄い終わってペットボトルを手にした彼女が訊ねてくる。優希は正直に、
「外国の曲、知らないんです」
そう答えるしかなかった。ただ、その答えは彼女の気分を害するものではなかったらしく、
「死ぬまでに一回聴きな」
そう言って次の曲へ移った。微かに微笑んでいた。
唄い始めて三時間。十二時を回ると人波の種類が変わり、優希と緋堂は交互にトイレへ立った。もちろん優希はカップ酒を追加した。
「アンタさ。なんで旅しようとか思った訳?」
彼女がトイレから戻り、一瞬のブランクの中で訊ねられた。
「ネットゲームで、九州の知り合いがいるんです。その人が東京目指すから、私もそれに乗っちゃって」
「実家は?」
「静岡の方なんです」
「はあ? じゃあなんで札幌くんだりまで来たのよ?」
「なんかその、勢いで。向こうが九州ならこっちは北海道にしようかなって」
「はあ。そのアクティブさだけは買うわ」
緋堂美雪はそう言うと立ち上がり、
「これから二時間、全力で行くわよ!」
そう檄を飛ばし、ギターをシャラリと撫でた。その姿は勇敢な女戦士のようで、彼女の弾く赤いギターと共に、優希の目に焼きついた。




