6・クラブ・マリアと北海道
6・クラブ・マリアと北海道
「いらっしゃーい!」
金曜日の『クラブ・マリア』は満席に近かった。円形のカウンターを囲むお客さんたちは皆いい感じに酒が回っているのか、カウンター内の女の子が唄うアムロちゃんで盛り上がっていた。女の子はママを入れて四人。誰もが煌びやかで笑顔が明るい。
「優希ちゃん! 来てくれたの!」
名前を覚えていてくれたママは、とびきりの愛想でカウンター席を二席空けた。
「こちらのお客さんが、行きたいとこに連れてってくれるっておっしゃったんで」
「あら、堀内さん! アンタまた女の子に声かけてきたの?」
「歌の代金よ。それだけ飲んだら帰る」
オジさんはママの知り合いのようで、無愛想に注文を言うと出された焼酎で水割りを作って飲んだ。
「そんで、アンタはいつからギターやってんだ」
そこを突かれるのは痛かったが、
「実は、まだ二か月くらいで……」
素直に白状した。
するとオジさんは高らかに笑い、
「おいママ! この姉ちゃん、たった二か月であの場所やってんだってよ! てえした度胸だ!」
「ああ、そういえばあの子もあそこでやってたねえ」
決して褒められている訳ではなさそうで、果たして自分の唄った場所がどういった場所だったのか気になった。
「私、あそこで唄うのってマズかったですか?」
ママの入れてくれたビールを目の前に、目線を伺うように訊ねた。
ママは、奥のお客さんに酒を作りつつ
「唄うのはいいのさ。それぞれの勝手だし。ただね、去年にも優希ちゃんみたいな人がいたんだよ。やっぱり旅人でね。そりゃ上手かったよ。一万円札がどんどん入るわ、通行人が道路にはみ出して車が通れないって苦情まで出てね、しばらく伝説だったわ」
「はあ……」
そんな人の後釜で唄うのは正直気が退けた。聞かない方がよかったかも知れないと優希はグラスを握った。ただ、そんな場所を嗅ぎつけた自分の嗅覚にも驚いていた。話は少し違うが、優希は三時間以内の雨の予報を外したことがない。雨が近い空へ向けて息を吸い込むと、鼻の奥がムズムズするのだった。旅、というシチュエーションにおいては便利な嗅覚だった。
「何だ、辛気臭え顔して。乾杯だ、乾杯」
「は、はい」
その後は順調にビールを減らし、オジさんから音楽理論の難しい話を懇々と聞かされていたが、酒も入った頭だったので上手に聞き流していた。そこへ突然、
「ああ! 思い出した!」
ママがグラスも割らんばかりに声を上げた。そして、
「ミツキ君だよ! 三木祐介君!」
「ああ、そんな名前だったな」
聞き覚えのある名前だなと思った瞬間、あの黒づくめの姿がよみがえった。
「私、その人――」
知ってます、と続けそうになってやめた。彼の何を知っている訳ではない。ただ一度きり会ったこの道の先輩だ。足元にも及ばぬ程の大先輩だ。
優希はそれから自腹を切るつもりで二杯目を頼んだ。
「若い子が熱燗なんて珍しいね」
笑顔のママがレンジへ酒を入れると、ぐい飲みのたくさん入ったカゴを持ってきた。
「好きなので飲みな」
優希は迷った挙句、鮮やかで艶めかしい緑色のぐい飲みを選んだ。
「あら、センスあるね。それ織部の一級品だよ」
思いがけぬところで褒められて恐縮した。
燗をつけたお酒が来ると、
「こういうのは手酌じゃダメなんだ」
オジさんがそう言って徳利を手にした。優希は素直に従う。
「美味しい!」
辛口の酒をひと息に飲み干した彼女へ、オジさんの口元も歪み、またぐい飲みを満たした。
「じゃあ、俺は帰るからよ。お嬢さんの分はこれにつけといてくれ」
オジさんは一万円札をカウンターへ置き、席を立った。
「うん! 堀内さん、ありがとね!」
ママに続き、優希も慌てて出口へ向かったが、オジさんは店の前を流していたタクシーに乗り込んだところだった。
それを機にしたようにカウンターの五人組がタクシーを呼び、気が付くと昨日会った客だけになった。
優希は手酌で酒を注ぐ。体質に合っているのか、熱燗という酒は水のように身体が吸収する。
「お、そろそろお姉ちゃんのステージの時間か?」
冷やかすように笑うと、男性はグラスを空けて氷を齧った。そこへ、
「お酒、あります?」
お客さんから「ミナちゃん」と呼ばれていたストレートヘアの女の子が柔らかく訊ねてきた。
「いえ、まだ――」
あると思った徳利を左右に振ると、底が抜けたように空っぽだった。
そんな様子を微笑ましく見つめ、
「同じの、つけますね」
彼女は徳利を奥へ運んだ。スマホを見るとまだ十一時半だった。
「いやあ、今夜の一巡目は長かったわあ」
ママは白いぐい飲みを手にして優希の前に立った。
「お店って、いつも何時までなんですか」
あまりの居心地のよさに、許されるならまだ長居したかった。
「お店? とりあえず三時までやるよ。毎晩。違うのは女の子の数だけ」
チン、と奥で音がすると、ミナちゃんではなく、ママが徳利を手に取った。
「ちょっと付き合わせてもらおうかしら」
「ええ、ぜひ」
ママが優希のぐい飲みを満たす。すかさず優希は徳利を受け取り、
「あら、ありがと」
ママのぐい飲みを満たす。やいなや、
「あー、やっぱポン酒はいいわあ」
ママは酒を飲み干して二杯目の酒を受ける。
「お店では、あんまり飲まないんですか? 日本酒」
「そうねえ。やってらんない時は飲むわよ。席ばっかり温めて金払いの悪い客とか前にすると」
そう言ってママは奥の客を睨むフリをする。
「おいおい、俺は金払いだけはいいよ。ただ月締めにしてるだけだから」
本気で慌てた様子の男性客が、きまり悪そうに水割りのお代わりに口をつけた。
「でさ、優希ちゃんのプライバシーに関わる話だけど、いい?」
つい息を飲んで、
「答えられることなら……」
ぐい飲みを手にしたが口には運べなかった。
「どうして旅なんかしようと思ったのかなってね。旅行じゃダメなのかな」
そう問われて、初めて旅の定義に戸惑った。その分、答えへ辿り着くのに長い話が始まる。
「私、学校休学中なんです」
「大学?」
「はい。Fランって言われても仕方ない学校です」
「その『Fラン』っていうのがよく分かんなくて。ゴメンね、ウチら大学なんて行ってるエリートいないから」
ママは明け透けに笑い、今度はひと息にぐい飲みを干した。それを満たそうとすると、
「いい、いい。こっからは手酌」
そう言って自分のぐい飲みへ酒を注いだ。そして、
「カリン! これ一合じゃ足りないよ! 二合にして!」
その隙に優希は煙草を出そうか迷っていたが、仕草を見抜かれた。
「吸っていいよ。で、何ランだっけ」
はい、とひと呼吸間を空けて煙草に火をつけると、その答えごと煙に巻きたくて一緒に吐き出した。
「Fランクって意味なんです。卒業しても就職先は一握りっていう、底辺の大学のことなんです。私、そんな学校なのに講義についてくのに必死で。一時期――今もなんですけどうつなんです」
「いいや、優希ちゃんはうつじゃないよ。うつの子はあんな人前でギター弾いたり唄ったり出来ないっしょ」
その通りだった。ただ、彼女は今の自分になんらかの病名を付けたかった。うつだから動けない。うつだったらしょうがない。そうして自分に暗い暗示をかけているだけなのかも知れなかった。
「私……逃げてるんでしょうか」
つい、隠していた本音が漏れた。
「ううん、それも違う違う。逃げてる人はこうやって行動しない。私なんか暇があっても、日本中旅して周ろうとは思わないもん」
そこで優希は先程の素直な疑問を投げかけた。
「旅と旅行って、どう違うんでしょう」
ママは新しくやってきた大きめの徳利を「熱っ」と言いながらつまむ。
「そりゃ、旅行はレジャーさ。観光地もお土産も、行きも帰りも決まってるのが旅行。旅っていうのはさ、行き先も帰る先もないんだよ。きっとそうだと思う。優希ちゃんもいずれ実家に帰るんだろうけどさ、それが旅の終わりじゃないと思うんだ。それを意識すれば自ずと旅の神髄に近付くんじゃないのかねえ。あ、ちなみに神髄ってのは私が最近好きな言葉なのさ」
ママの話が終わるまでに煙草を灰にして、優希は温くなった酒を煽った。二合の徳利を持つと思いの外熱くて驚いた。
「私、人の影響でギター始めたんです」
「まあ、音楽なんて誰だって最初はそんなもんだろうし」
熱々の酒を舐め、彼女は漆黒のユーキの話を始めた。
「その人とはネトゲ――ネットのゲームで知り合ったんですけど、ストリートで唄ってるって聞いて、私もやってみたいなって」
「思った挙句やるっていうのがすごいんだよ」
「で、その人が九州から旅を始めるって聞いて。じゃあ私は北海道に行くから、東京で会おうって話になって」
「壮大だね」
「でも私、ホントはそんな日が来るのが怖いんです。何も取り柄のない自分なんかに会って、その人を幻滅させるのが嫌なんです」
しばしの間があり、手酌で、と言ったはずのママが優希のぐい飲みへ酒を満たす。そしてその手はそのまま自分のぐい飲みへと移った。
「迷ってんの?」
「……はい、迷ってます」
「迷うってのはさ、大抵悪いことだよ。困るのはいい、悩むのもいい。でも、迷うっていうのは欲しいものを二つ並べて天秤にかけてるってことだからね。贅沢だよ。どっちもは選べないってのは、優希ちゃんだって分かってるっしょ。けど迷ってるなら早目に答えは出しといた方がいいさ。その約束を反故にされたからって刺し殺される訳じゃないっしょ」
「……はい」
その後の沈黙は深く、優希は緩々と立ち上がると、カウンターに二千円だけ置いて荷物をまとめた。
「いいんだよ。こういうのは。堀内さんにもらってんだし」
ママが紙幣を二枚手に取り、優希へ返そうとする。
「けど……こういうところをきちんとすることから始めたくて」
うつむきがちに彼女が言うと、ママも無理強いはせず、それを収めた。そして、
「明日は?」
「青森へ向かいます」
不確定な覚悟で答えた。
「また函館に来ることあったら寄りな。二千円で飲み放題やったげっから」
ママは柔らかく優希の身体を抱くと、彼女のカーディガンのポケットへ名刺を差し入れた。大人の香水の匂いがした。
「ごちそう様でした」
「この時間、車が詰まってっから気を付けな。どうしても困ったことがあったら電話して」
優希の姿が見えなくなるまで表に立っていたママを、優希もまたいつまでも視界から消したくなかった。結局、今夜も人の温もりに救われて一日が終わった。
*
日曜日。
飛行機の搭乗手続きというのがどういうものだったかすっかり忘れていて、念のために二時間早く空港へ着いた。分かったことは、ソフトケースのギターは機内に持ち込むしかないということだ。あとは一時間半の暇をムダに費やしていた。
スマホからメールを確認すると、ようやくでユーキからメッセージが届いていた。
――ヤッホーユーキ(十字架省略! 俺は今、岡山にいます! なかなか稼げないけどこっちは電車の便がよくて いきなり大阪とか行くかも! ユーキも頑張って!
ホッと息をつくと、優希は返信を打つ。
――私もついに北海道行くよ お互い頑張ろうね
誰の見送りもない旅立ちにエールをもらったような気がして、搭乗待ちのシートに腰かけた彼女はしばし瞼を閉じた。二時間後は札幌だ。初の遠征地には何が待っているだろう。
ススキノと言う地名だけを頼りに搭乗を待った。彼女には計画性という言葉が皆無だ。それはもしかすると何らかの強みなのかも知れない。綿密に立てたスケジュールが崩れた時、人は慌てふためくものだから。
搭乗手続きの列に、人は多い。さすが北海道だと彼女は感慨に耽っていた。念のためにペットボトルのお茶は飲み干し、ライターは一個だけにした。飛行機に乗るのは五年も前の家族旅行以来だ。あの時は家族皆が笑顔だったことを思えば、その笑顔を奪った自分の行いにも目を向けざるを得なかった。
(しっかりしなきゃ)
リクライニングに座る。翼の見える窓際でフライトを待っていると、軽い眠気が襲った。その睡魔には勝てず、眠りに落ちた。その時間こそがこの旅で最も安らかな時間になることを、彼女はもちろんまだ知らない。
急激なGで目覚めると、そこはもう雨の札幌だった。曇りという天気予報は外れた訳だが、さすがの彼女も遠く九百キロ離れた街の空模様までは分からなかった。
薄暗い中、空港からのバスで札幌市街地へ直行して大通公園で降りると、芝生の広がる緑地にそびえ立つテレビ塔が見えた。有名なテレビ塔だと思った彼女は、そぼ降る雨の中で写真を撮った。普段は滅多なことでスマホのカメラ機能は使わない。自撮り写真など一枚もなかった。彼女にとって容姿はコンプレックス以外の何ものでもなかったからだ。周りに迎合して染めた髪も、右側だけに出来るえくぼも、眉の形も全部嫌いだった。
雨を避けて地下街へ向かうと、せっかくの札幌だと思い、空いている店があったので味噌ラーメンを頼んだ。これもまた忘れずに写真を撮り、素早くそれを胃に収めた。チャーシューばかり多く、札幌で食べた札幌ラーメンということを除けば、特に感動もない味だった。
スマホで予報を見て、恐らく雨は夜半には止むと確信した彼女は、再び地上へ出てススキノの街を散策した。散策だけで疲れ果て、狸小路というアーケード街へ辿り着いていた。ススキノは広く、いかんせん候補地が多過ぎるのも悩みの種だ。アーケードでやろうかと思うも、雑多な賑わいの中では彼女の歌はかき消されそうだった。何より、日曜日にこの人出は地元ではあり得ない多さだった。
午後八時になった。雨は少し残っていたが、ビルの軒先でやり過ごせる程度の雨だった。
最初に気になっていたススキノ交番の裏手に回ってみると、煌びやかなネオンが輝いていた。これはハードルが高いかと思った彼女は次へ移動し、横へ長い狸小路の薄暗いアーケードを発見した。ここならば唄えると思った。通行人は少なく、車も通らない。地元の四つ角で唄っていた雰囲気を彷彿とさせる。
が、準備を始めてものの五分で、背中のシャッターが開き、
「アンタ何やってんの!」
すごい形相のオバちゃんが仁王立ちしていた。
「すみません。少し演奏させてもらおうと思って――」
「迷惑なんだよ! もっと向こうでジャカジャカやってる連中がいるからそこ行きな!」
けんもほろろに拒絶され、優希は仕方なくその場をあとにした。
オバちゃんが言う「もっと向こう」では確かに数組のストリートミュージシャンが唄っていた。誰もかれもが自分の数倍の実力者に見え、彼女は怯んだまま、またしてもその場を去った。
(ダメだ。こんな広い街、場所を探してるだけで朝になる)
そう考えた彼女は、もう一度ススキノ交番の裏手に回る。さっき通りかかった道のさらに裏手だ。すると急にネオンの明かりが落ち着き、交差点の角にぽっかりとスポットが見えた。空に向かって息を吸い込むが、雨の匂いはもうない。
(ここだ。苦情が来るにしてもそれまではやってみよう)
実に一時間半を歩き回り探した場所へ、優希は折りたたみの椅子を置いて座り込んだ。