5・五稜郭と熱燗と
5・五稜郭と熱燗と
完敗だった。
五稜郭の繁華街は賑わっていたが、誰一人立ち止まらなかった。それは絶対的に足りていない彼女の声量のせいでもあり、覚束ないギターテクニックのせいでもあったろう。地元、札幌、小樽と、今までは女であるという物珍しさだけで人の目を引いていた現実に気付いて挫けた。
ただ一人、近くの店のママさんが声をかけてくれ、グラスのビールを差し入れしてくれた。
午前二時。いい加減に人波も途切れた頃。ギターと荷物をまとめ、肩に背負い、ビアグラスを返しに行った。店の名前は、『クラブ・マリア』だった。
「あら、わざわざありがとね。ストリート、どうだった?」
腰までの髪に緩いパーマをかけ、胸元の大きく開いた黒いワンピースのママが笑顔で問いかける。楕円形の変わったカウンターの外には男性客が二人いた。
無言の彼女の心中を察したか、ママはカウンターのひとつを指差した。
「立ち話もなんだからね。座ったら」
優希はぺこりと頭を下げ、荷物を壁際に置くと椅子へと座った。こういう時に料金が発生しないことはもう分かっている。分かっている自分が嫌だった。
「何、ママ。女の子ナンパしてきたの?」
カウンター奥の男性が軽口を飛ばすと、
「私、好きなのさ。こういう人が」
昨夜も聞いたような台詞を口にした。そして、
「一杯奢るから、歌聴かせてよ」
そう続けた。
「はあ……」
優希は言われるままギターを取り出し、最近は譜面なしでも唄えるようになったゆずの『いつか』を唄った。
演奏が終わるとパラパラと拍手が響き、奥の客からチップを千円もらった。そして次にはきっとママから封筒に入った金をもらうのだ。全部分かっていた。分かっていながらそれに縋った自分は卑怯者だ。
優希はそんな思いを隠して、受け取ったビアグラスを傾けた。ビールの苦さが口いっぱいに広がった。
「何て名前?」
「坂下……優希です」
「優希ちゃんか。それで、優希ちゃんはどこまで行くの?」
ママは同じくビアグラスを手に訊ねてくる。
「とりあえず東京までです。友達と約束してて」
「じゃあ船で青森だね。青森は駅前がこじんまりしてるからね。弘前なんかがいいかもよ」
「そうですか……ありがとうございます」
泡立つビールを空けるとあとは用事もなくなり、
「お世話になりました」
荷物をまとめるだけだった。そこへ予測通りママが表へ出て来る。小さく折った封筒の中身は訊ねる必要もなかった。
「……ありがとうございます」
「うん。頑張って。また函館来たら寄りな」
眠り始めた街を、昼間に入ったネットカフェへ向けて歩く。封筒の中には二千円入っていた。それをプラスと考えるかどうかで悩み、コンビニでおにぎりを買いながら答えを先延ばしにした。
ネットカフェに入ると九割がたのブースは埋まっており、リクライニングの喫煙席しかなかった。リクライニングで寝るのは慣れない。かといって他にチョイスもなく、角の部屋を取った。
PCの電源を入れる。ユーキからのメールはない。オンラインゲームにログインするも、見知った顔が少しあるだけで、漆黒のユーキの名前はなかった。
もう眠っている頃だろうか。それとも広島の街でまだまだ唄い続けているのだろうか。
それを思えば路上収入ゼロで退散した自分が情けなくなった。私は今夜も、人の温もりにすがって撤退した。人のいいママさんとお客さんに甘えて、二日も続けて路上を投げ出した。そんな自責が心を蝕む。私はストリートミュージシャンなんかじゃない。ただの物乞いだと。
優希はメロンソーダにソフトクリームを浮かべ、すでに函館から発つ支度を始める。青函のフェリーを探すと青森まで四時間弱の二千二百円だ。向こうへ着いて何もなかった場合が怖くなった優希は、通帳から五千円下ろすことに決めた。
もう三日前から眠剤を飲んでいない頭で微睡んでいると、あちこちで携帯のアラームが鳴り始める。朝八時だ。それが一般のお約束事なのだと思えば、当たり触りのないレイドで寝オチした自分が、情けなくなった。怠惰な生活は旅先でも変わらず、これではユーキに合わす顔もなかった。
(ユーキ……どこにいるんだろ。ちゃんと泊まれてるのかな)
しかし、他人の心配をしている余裕はない。寝起きの頭で青函のフェリーを探すと、十四時三十五分の便がよさそうだった。十八時三十分に青森へ着く予定だ。街中を一時間も散策すれば何か見つかるだろう。雨さえ降らなければまだどうにかなる気温だ。
十時を迎えると、思い立ってユーキにメールを入れた。
ちゃんとご飯食べてる――?
しかし、実家のお母さんのようなメールになったので、それを取り消して打ち直した。本心を曝け出した、嘘のないメールだった。
――実は函館、玉砕したんだ けど今日は金曜だしもう一回チャレンジしてみたいの 本州に渡るのが遅くなるけど ユーキは何か問題ある? 暇な時に返信してね
それだけ打つと胸のつかえが取れた気がした。ゲームでも実生活でも、負けっぱなしは性に合わない。
しかし、いざ金曜日という名のフタを開けると、函館・五稜郭には千円札が乱舞した。昨日の素通りが嘘のように人垣が出現し、リクエストの嵐だった。リクエストはゆず限定にして、あとはイルカの『なごり雪』や、昔の名曲を中心に唄った。レパートリーが尽きたら、また最初に戻って唄い始めた。
そのうち人が捌けてゆくと、一人残ったオジさんが、
「お姉ちゃん。その場所は特別な場所でなあ」
「はあ……」
と、優希は身を固くした。苦言が来るかと身構えたのだ。が、
「けどまあ、そこでこうやって新しい人が唄ってるってのは感慨深いねえ」
オジさんは腕を組んだ姿勢のまま訊ねてくる。
「お姉ちゃん、今日はどこに泊まるんだ?」
彼女は旅のミュージシャン仕込みのコンビニ熱燗を地面に置き、
「すぐそこのネットカフェに行きます」
そう言うと、しかしオジさんは難しい顔をする。
「ネットカフェか。ありゃいけねえ」
「はあ……そうなんですか」
「壁一枚で仕切って、若い身空のお姉ちゃんが行くようなとこじゃねえぞ」
とはいえ、優希には落ち着ける場所だし、安全面でもそこそこ信頼している。
するとオジさんは、
「俺は投げ銭はしねえ主義なんだ。だからお姉ちゃんの好きな店に連れてってやる。どうだ、乗るか」
ギターケースには千円札が七枚とポケットに入りきれないほどの小銭が撒いてある。十一時という、店仕舞いにするには早い時間でもあったが、今夜の稼ぎはすべて演奏の成果だ。その祝杯をこの気難しそうなオジさんと挙げるのもいいかも知れないと思った。悪い人ではないと、直感が告げた。
「私、行きたいお店があります!」
*
バイト代の残りでシュラフを買ったのは出発二日前だった。
「そんな勝手許さないからね! どうしても行くっていうなら親子の縁を切るわよ!」
母はあれ以来、そればかりを繰り返している。それでも優希の決意は変わらない。すでに飛行機のチケットは手に入れた。大きなリュックも買った。ついでにギターの弦も初めて――苦心したが、替えた。引き返しようがない、という自分の立場に身の引き締まる思いだった。
父は父で、歯磨きをしている後ろから、
「無理だけはするな。ダメだと思ったら引き返すのも勇気だ」
と、ネトゲの散策にも通じるような名言で応援してくれた。ぶっちゃけ、父がいちばん許さないと思っていた優希は、そのひと言に救われた。
やっぱり最後の夜は地元だろうと、北海道行きの看板を手にいつもの四つ角へ向かった。先日の変質者ショックは抜けていなかったが、黒服のお蔭で安心して演奏に専念出来た。
張り立ての弦でいつものナンバーを弾いていると、いつだったか長渕剛を大声で唄ったサラリーマンがやってきた。
「おう! 今日もやってるじゃねえか! 北海道はどうした!」
「はい、明日出発します」
「ホントか? そうやって行く行く詐欺じゃねえだろな」
「行きますよ。もう飛行機のチケットも買ってるんです」
そう言うと懐疑的ではあったが、
「とりあえず『とんぼ』唄ってくれ」
「はい!」
女性ボーカルの間延びした長渕剛は、夜の街へ染み込むように響いてゆく。これから先、どんな街で唄えるだろう。そう思うと身体が熱くなるのを感じた。
「OK、OK。まあ好きなようにやってきな。ギター担いで旅するなんていう無茶やれんのも今の内だろうからな」
そして財布を出すと千円札を一枚ケースへ置いた。
「ありがとうございます」
「いいよいいよ。どうせその辺の店で消えてなくなる金だ。それじゃな」
「はい! ありがとうございました!」
彼女は今まで自分の住む町を好きだと思ったことはなかった。が、ストリートで演奏を続ける内に少しずつではあったが、好きになれた気がする。様々な人からもらった投げ銭は、そのまま返すべき恩義に感じるし、北海道からの旅が終わったら、またここで唄うつもりだ。
午後十時半。夜は更けてゆき、まばらな通行人が今夜は気にならない。駅から家路を辿る人々に何か一曲聴かせるつもりで、一昨日覚えたスピッツの『チェリー』を唄った。
そこへ、
「君、お酒飲む?」
通りがかりに言ったのは二十代後半くらいの男だった。全身真っ黒で、右手にはギターのハードケースが握られている。ソフトケースをあちこちぶつけて回る優希には憧れでもあった。
「飲めと言われたら断る舌は持ってません」
正直にそう答えると、
「了解」
男はギターを置くと笑ってコンビニへ消えた。それから数分後。
「お待たせ。熱いから気をつけて」
透明な小瓶を手渡してくれた、途端に酒の匂いが立ち込める。
「断らないって聞いたもんでね」
男はそう言って腰を下ろすと同じ酒をそっと口へ運んだ。優希は初めての熱燗をおずおずと口にしたが、
「あ、美味しい」
思わずそうこぼした。缶チューハイばかりだったバリエーションがこれで増えると喜んだ。
「これって温めてもらえるもんなんですね」
「店によるけどね。きっちり三十秒で頼むといい。で、どんなの唄ってるの」
男は北海道行きの看板を目にして言う。
優希はカップ酒を地面に置き、
「まだ十曲くらいなんです。ゆず中心で、たまに『なごり雪』とか知ってる古い歌も唄います」
「曲のチョイスも古いけど、持ち歌十曲で旅に出るってのも勇気あるな。今後は増やしてくつもり?」
「ええ。ミスチルとかも唄えたらなって」
彼はカップ酒を半分に減らし、
「ミスチルはけっこう難しいよ。そのうちオリジナルを作ってみればいい」
そう言って煙草に火をつけた。
「お兄さんはどういう歌をやってるんですか?」
優希はせっかくのタイミングなので自分も煙草に火をつけ、そう訊ねてみた。
「僕? 僕は――聴いた方が早いと思うけど」
「ええ。ぜひ」
すると彼は咥え煙草でケースを開き、慣れた手つきでギターを取り出した。ピックガードの下は色が剥げて、年季ものだと優希に思わせた。
黒いギターを構え、男はジャランと弦を弾き下ろす。それだけでレベルの違いは明らかだった。ギターのせいか実力のせいか音色がまったく違う。
「普段はハーモニカも付けるんだけど、今夜は簡易バージョンで」
男は煙草をもみ消し、前奏に入ったかと思うと、不意に唄い始めた。酒でしゃがれたような、それでいてクリアな声だ。力強くも物悲しい曲調にみごとにマッチしていた。一頭の野生の馬が荒野を駆けてゆくような、朝焼けの草原が彼女の脳裏には浮かんだ。
曲は三分少々で終わったが、優希は口を開けなかった。その代わりに、訳の分からない涙が頬を伝っていることに気付いた。
「おやおや、泣くほどのもんじゃないでしょ。そんなにひどかった?」
「いえ、すごい素敵です。なんて歌なんですか」
優希は照れ隠しに頬を拭い、カップ酒を啜ると彼へ訊ねた。
「『墓標』って曲だ。お墓の墓標だね。とりあえず自信作だ」
そう言うと彼はカップ酒の残りを飲み干した。そこへ、
「今の歌よかったよ。二人で分けて」
電柱にもたれてスマホをいじっていた男性が二千円置いていった。そのタイミングで彼はギターを仕舞うと立ち上がる。
「じゃあ僕は行くけど、いい旅を」
「え、これもらってってください」
ケースに投げられた千円札を差し出すと、
「餞別だ。金より助かるものもないだろ」
「じゃあ、あの、私、坂下優希です」
「いい名前だ。僕は三木祐介。それじゃまたいつか」
そう言ってギターを抱えると、彼は昇り始めた月が照らす夜道へと消えた。
それから優希は一時に家へ帰ると、ギターを磨き上げ、ケースへ戻した。何ごとも大雑把な彼女も、ギターだけは大事にしている。
椅子へと座り、パソコンの電源を入れる。明日からはこの自由な時間はなくなる。そう思うと心細さもあった。しかし、今何か動かなければ、私は一生何もしないまま終わる。そう考えて、最後のレイドに参加した。プロヴァンスキラーさんの解放したレイドがあったので残り枠に参加すると、ちょうどアキュアラインさんも残り一名の枠に飛び込んできた。
――久しぶり!
――ちょっと最近立て込んでまして(汗
――漆黒の方のユーキも最近見ないね
旅の話は出来なかったが、久しぶりの面々と楽しくチャットが出来て満足だった。気が付くと朝の四時で、
――じゃあ今日は落ちますノシ
それだけ打ってベッドへ寝転んだ。明日は飛行機の時間もある。フライトは十六時過ぎなので昼までは眠れるだろう。スマホのアラームをかけながら、彼のことが気になっていた。三木祐介のことだ。
どれだけ練習したらあれほどまでに上手く弾けるようになるのだろう。嫉妬にもならないレベルの違いを思い知らされて、それだけが旅の不安材料だった。資金は飛行機代を除いて、一万円ほどだった。それをどうやって増やしてゆくか、妄想しているうちに眠りに落ちた。