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2・イカ釣り漁船と初路上

          2・イカ釣り漁船と初路上



 午後八時半。八雲の夜は更けてゆく。三輪車の子供はいなくなったが、同時に通行人も少なくなった。いや、いなくなったに等しい。たまに見るのはパチンコ屋の隣りのラーメン屋に向かう車の影だ。


(これは完全に演奏場所の選択ミスだ)


 彼女の演奏場所から左を見ればそこは確かに袋小路の飲み屋界隈ではある。だが右を見ると完全に生活道と化していて、ギターを抱いて声を張り上げている姿はただの変わり者だった。


 しかし、と彼女は涼やかな夜風の中でギターのネックを握り直す。駅で唄えない限り、思いつくのはこの場所だけだ。実際、一時間が過ぎたが苦情の類は出ていない。向かいのお寿司屋さんの二階の窓が開いて人影を認めたが、その後、何ということもなかった。


(まだまだだ。ここで唄える限りは何時間でも唄ってやろう)


 そう決意した彼女に、しかし運気の天秤はほんの五分で傾いた。


「あら珍しいね!」


 何やら小脇にザルを抱えた浅黒いオバちゃんが声をかけてきた。


 優希は住民とのサードコンタクトに相好を崩し、


「静岡から来てます。ここって唄っててもいいんですかね」


 三度目の関門を開けるために訊ねた。すると、


「いいよいいよ。私これ届けて来っからまたね」


 風のように袋小路へ向かったオバちゃんを頼もしく見つめ、がぜんやる気の湧いた彼女は少ないレパートリーから大好きなゆずを唄った。


 しかし、反応は相変わらずない。オバちゃんも戻ってこない。一抹の淋しさを胸に感じた彼女は、その気分を吹き飛ばすために長渕剛の『とんぼ』を唄い始めた。自分以外にこの曲を唄う女性シンガーを彼女は知らない。知らないが、構わず唄った。ギターを始めて二か月の彼女にレパートリーは少なく、出し惜しみしている場合ではなかった。


 それが功を奏したか、


「頑張れ」


 パチンコ帰りと思われるオジさんが五円玉をケースへ入れた。金額がどうあろうとそれはこの街で初めて入った投げ銭だ。優希は思い切り、


「ありがとうございます!」


 そう、去りゆくオジさんの背中に声をかけた。


 そういったやり取りは連続するもので、暗がりから顔を出したのはさっきのザルを抱えたオバちゃんだった。


「あんた、一緒に飲もう! ジュース一杯奢るから! 雨も降りそうだしね」


 その誘いはありがたかったが、まだ収入は五円だ。返答に困っていると、


「なあに、チップは中でもらえばいいさ」


 こちらの思惑を見抜いたように、皺深い顔で彼女は笑った。


 結局オバちゃんに押し切られる形で投げ銭を期待しながら袋小路の奥へ向かった。


 果たして、店は広かった。


 ダンスホールと見紛う店内にはミラーボールが回り、フロアでは丸テーブルに二組の客が座っていた。すぐに場違いだと気付き、ジュースの一杯ももらったら早々に退散しようと決めた。


「ママ、この子旅してるんだってさ。あとで何曲か唄わせてやってよ」


 その言葉にうなずきながら、上品な和服のママがビアサーバーからビールを注いだ。


「いいよ。でもまず飲みなよ」


 ビアグラスが置かれると、オバちゃんはにこやかに微笑んだ。


「こんばんは、お世話になります」


 恐縮しながら言うと、


「アタシはね、イカ釣り漁船に乗ってんのさ。だから長居は出来ないんだけどタイムリミットは十一時」


 オバちゃんは水のようにスイスイとビールを開けた。


「どちらから見えたの?」


 和服のママが柔らかく訊ねてくる。


「っと、静岡です」


「あらまあ遠くから。で、何を飲むのかしら」


 隣のおばちゃんがあまりにも美味しそうにビールを飲むのでビールを頼んだ。この際ジュースがビールに変わっても問題ないだろう。


「じゃあ乾杯。何ちゃんって言うの?」


 オバちゃんがグラスを掲げて訊ねる。


「優希です。坂下優希」


「じゃあユーキちゃん、乾杯」


 小気味のいい音でグラスが響くと、やっと人心地ついた。なんといってもホールの広さに圧倒されていたのだ。五、六組の男女がワルツを踊っていても遜色ない広さで、ステージにはドラムセットと何本ものギターが並んでいた。


「昔はゴールデンカップスのメンバーも来ててさ」


 オバちゃんの昔話は分からなかったが、歴史があることだけは充分に見て取れた。


「もしかして私、ここで唄うんですか?」


 急に小心者の気が顔を出した彼女が言うと、


「もちろんさ。私、好きなのさ、こういう人が」


 オバちゃんはグラスを干して笑った。こんな時はさっさと酔うに限ると、遠慮もなくビールをお代わりした。


 そのビールもあまり減らないまま、「そろそろだね」とオバちゃんが言った。


 見ればフロアのお客さんにママが何かを耳打ちしている。胸の奥から湧いてくる緊張感が足にまで回ると、


「彼女さん、準備出来たら言って。お客さんにお話は通したから」


 引くに引けない状況になった。優希は覚悟を決め、ギターをソフトケースから取り出し、譜面台を立て、ステージ中央の椅子の前で準備に取り掛かった。


 ママは手慣れた様子でケーブルをあちこち繋ぎ、


「ラインじゃないのね。じゃあマイク二本用意しなきゃ」


 和服姿で駆け回っている。その間も観客は無遠慮に優希を眺めた。三十代と思しき男性と女性二人の客。もう一組は五、六十代の男性二人組だ。どの目も、こんな小娘が何をやるのかという意地の悪い好奇心に溢れて見えた。


「じゃあ音出してみてね、バランスはこっちで見るから」


「はあ……」


 まな板の上の鮭になった気分で、優希は覚悟を決めた。今夜三度目の覚悟だ。


 ポロポロとギターを鳴らすと、


「声もちょうだい」


 とママが奥から注文を出す。思い切り出した声はキーンとハウリングを起こして、店の壁に消えた。


「マイク、指二本分離していいから」


 さらなる注文に答えると、音は落ち着いたようだ。実際、マイクを通して唄うのはこれが初体験だ。どうなるか分からなかったが、和服のママを信じてみよう。


「えと……ちょっと前から旅をしてます。坂下優希と申します。今夜は御縁があってこちらで唄わせてもらいます」


 するとフロアからパラパラと拍手が起きた。それを逃さず、


「ギターも始めて二か月なんですが、大好きな曲を唄います。ゆずの、『いつか』という曲です」


 あまりの緊張にピックを取り落してしまい、それを拾い上げる時にマイクへと頭が当たった。


「緊張しなくっていいよ!」


 女性二人を連れた男性が言うと、ドッと笑いが起きる。優希は赤面しながら最初からギターをやり直す。


 いったい何をどれだけ唄ったろう。何をしゃべったろう。たった今の記憶があっという間に霞んでゆく。覚えているのは最後に唄った『とんぼ』のエンディングで、オジさんグループがギターの頭に千円札を挟み込んできたことだけだった。


「あの、ありがとうございました!」


 フロアの客が惜しみない拍手をくれた。生まれて初めてのハコものライブは、手応えこそ残っていないが成功したようだった。


「お疲れさま」


 ギターを仕舞い、カウンターへ戻るとオバちゃんの姿はなかった。


「あの、こちらのお客さんは――」


 優希が訊ねると、


「ああ、榎本さんね。お仕事行っちゃったのよ。あなたの分はもらってるからまだ遠慮せず飲んでてね」


 そこまで聞いて、彼女の名前すら聞いていなかったことを後悔した。


 ビールの泡が静かに上がる。キレイな泡が細く連なって上へと延びる。それを抱え上げ、唇で舐めた。すると、


「お姉さん、こっち来てご一緒しません?」


 若い男性の連れが、笑顔でグラスを揺らした。


「え、と……いいんですか」


 それを後押ししたのはママだ。


「いいじゃない。若い人同士で」


「じゃあ……すいません」


 彼女はグラスを抱えてテーブル席へと向かった。


「じゃあ、あらためて乾杯!」


 賑やかにグラスをぶつけると、また一段と夜が深まったようにも思える。


「で、どこから来たんですか」


 黒髪ロングの女性が真っ先に訊ねる。


「静岡です。小さな港町なんですけどね」


「静岡! それってやっぱ日本一周とか目指してるの?」


 そう訊ねてきたのは大きなピアスの目立つショートボブの女性だ。


「いえ……日本一周というか、半周なんです。友達と約束して、東京で会うことにしてるんです。私は北海道から、あちらは九州から」


「へえ。なんかいいね。ロマンティック」


 そこで優希は漆黒のユーキのことを思い出す。彼もまたその約束のため、今夜もどこかの空の下で唄っているはずだった。九州はまだ寒くないだろうか。稼げない日が続いてはいないだろうか。それを知る術はあったが、ユーキはこのご時世、なんとケータイを持っていないという。要するに向こうがどこかのネットカフェに入らない限り連絡はつかない。


「次はどこ行くの?」


 男性が水割りを手に訊ねる。


「函館です。どこかいいとこありますかね」


「うーん。函館つったら五稜郭しかないっしょ。こんな辺鄙な街より絶対稼げるから」


 その前評判に安堵して、早くもさっきもらったチップを財布にしまい込んだ。。


          *


 ――旅に出るの?


 午前十一時。いつもの怠惰な眠りから起き上がって三日ぶりの風呂に入った優希は、ユーキから入っていたメールに軽く驚いた。軽くしか驚けなかったのは、その意味が今ひとつ理解出来なかったからだ。


 ――俺、九州なんだけどね 鹿児島から回ってまずは本州に行きたいなと思って


 髪を乾かしつつため息をつくしかない彼女に、ユーキは続ける。


 ――このままネット廃人になるのもなんだかなって思って 最近 路上にも出てないんだよ


 しかし、と彼女はようやくで言葉を繋げる


 ――でも 路上って そんなにお金もらえるの? 貯金してるとか?


 すると、


 ――貯金はゼロに等しいよ ただ 自信はある これでも八年間の実績があるからさ


 そこで優希が考えていたのは、


(てことは二十代の後半かあ)


 程度のことで、やはり話にはついて行けなかった。


 ――じゃあ あんまりレイドも出来なくなるね


 数段ランクの落ちた話にも、


 ――ネットカフェはいくらでもあるし たぶん昼夜逆転するだけだよ


 彼からはみなぎる自信が伺えていた。


 ――だから色んな準備もあって しばらくログイン出来ないけど その辺ヨロシク まだ✝ユーキ✝にしか話してないんで他のレイドメンバーには内緒にしといて


 この頃、お互いハンドルネームに「さん」を付けなくなっていた。ゲームから離れてやり取りをする親密さが、そうさせていた。


(路上演奏かあ)


 ギターの練習はあれからもとりあえず続いている。が、その先に見えて来るものがないのだ。必要なのはやはり観客だろうか。かといってまだまだ人前に晒せる自信はない。そんな思いのまま昼間を悶々としていた。


そして――。


 きっかけは些細なことだった。


 いつもの母のヒステリーが始まった。階下から聞こえてくる金切り声を父がなだめ、そしてそれが何のための言い争いかはもちろん分かっていた。


 彼女は火の粉が飛び火する前に家を出ようとしたが、無意識に部屋の隅に置いたギターケースを手に取った。そこに他意はなかった。手ぶら、というのが嫌なだけだった。


 午後七時半の街を駅前まで歩くと、ギターケースを抱えているだけで誇らしく思えた。シャッター通りの入り口のコンビニでチューハイを買った。ひと缶をその場で空けると何もかも問題は片付いたような気になり、もう一本を開け、アーケードの陰で胡坐をかいて座り込んだ。それもこれもギターのお蔭だ。ギターさえあればここで逆立ちだって出来そうだった。


 道端に座っていると、通りゆく人々のそれぞれに抱えた生活も、問題も、幸せも、不幸せも、無関心に思えた。羨ましさも疎ましさもなかった。それまでは外出のたびに人目を気にして、身なりはおかしくないか、髪型は手を抜いてないか、バッグと靴のバランスはどうだろうかと、そんなことばかり気にしていた。が、人はそれほど他人に関心を払っていないのだと、アーケードに座った彼女は気付いた。


(今なら出来そうな気がする……)


 彼女は手にしていた缶チューハイを路上に置き、担いでいたギターケースのファスナーをそっと開けた。家でしか見ていない黄褐色のボディーが、街のネオンに照らされて煌びやかだ。彼女はそれを赤ん坊でも扱うようにそっと手に取った。


「お姉ちゃん、何やるの」


 気が付くと目の前には三十代ほどの男性が二人で立っていた。状況を飲み込めない彼女は、


「いえ、何ていうか、練習みたいなもんなんで」


 しかし男らは意に介さず、


「いいよ練習で。なんかやって」


 どうにも抜け出せない状況であることをようやく理解した彼女は、


「分かりました……」


 自分の下手なギターを聴けばすぐに帰ってくれるだろうと、いちばん最初に練習したゆずを弾き始めた。ギターはシャラリともジャランとも鳴らず、ボロンと音を立てる。それだけで顔から火が出るほど恥ずかしく、さっさと終わらせたい気持ちだけで駆け足のように唄い上げた。歌声にさえなっていなかった。


「いいねえ。初々しいねえ」


 まだ羞恥の只中にある彼女はうつむいたまま、


「すみません、人前で唄うの初めてなんで……」


 今さらのように言い訳した。なのに、


「じゃあ頑張って練習して、また聴かせてよ」


 男らは財布から千円ずつ取り出すと、黒いギターケースの上に置いて去って行った。


 何が起きたのか、しばらく理解が追いつかず呆然としていた。自分のギターと歌が評価を受けるなど、到底思っていなかった。それが人生初の路上演奏で二千円も入ったのだ。これが、漆黒のユーキが八年も続けている路上演奏なのだろうか。満ち溢れんばかりの彼の自信の根源は、こういうことなのだろうか。


 ひとまずもらった紙幣を臆病にケースの中に隠し、缶チューハイをひと口煽った彼女の脳裏に浮かんだのは、


(持ち歌を増やそう)


 それだけだった。


 酒と煙草で貯金の尽きそうな今の事態を、ひとまずこれでやり過ごせると思った。

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