10・秋田シュラフと小樽エンゼル
10・秋田シュラフと小樽エンゼル
秋田駅前の遊歩道で防寒シートとシュラフを出し、すでに五千円を切ったが手持ちのある内に山形へ移動した方がいいかと気弱になる自分に喝を入れたかった。ただ、現実を直視することは必要だ。とにかく平日に稼げないことは分かった。札幌や小樽ではそうでもなかったことを思うと、やはり大都市の方に分があるのか。ススキノの緋堂美雪のように、立って唄うことも今後は考えなければと思ったりもした。
そんな空想で頭を埋めていると、気疲れが大きかったのか、すぐに眠りに落ちた。
――夢を見ていた。
知らない街の川辺で朝焼けを見ていた。
空の匂いを嗅ぐと、雨の匂いがした。
それから唐突に、漆黒のユーキが現れた。顔には丁寧にモザイクがかかっている。
――「ユーキ?」
優希は彼の問いかけに、
――「うん。君はユーキだね」
そう微笑んだ。それから雨を待つ川辺で旅の話をした。
――「函館では素敵なお店に行ったんだよ」
――「俺は宮崎のクラブで演奏したよ」
次第に雨の粒が落ちて来ると、
――「じゃあ俺、行かなきゃ」
ユーキは台詞と共に姿を消し、土砂降りの雨が彼女を濡らした。まだ岡山のヤクザの話も聞きたかったが、彼はもうそこにいなかった。
その時――。
「すみませーん。すみません、起きてください」
それが現実の声だと認識するのに十秒かかった。
シュラフのファスナーを開けて起き上がると、男女一組の警察官がしゃがみ込んだ姿勢で見下ろしている。
「はい……なんでしょう……」
まったく目が覚めないまま、遊歩道の上に降り注ぐ雨の音に気持ちが沈んだ。
しかし警察官はこちらが起き上がると矢継ぎ早に、
「こちら、野宿は勘弁させてもらってるんですよ」
「お若いみたいですし、事件とかあると危ないですから」
「すぐに移動されてください」
言いたいことだけを言ってどこかへ行った。その瞬間に、秋田の二日目は断念した。
空模様だけは夢に従って律儀に雨だ。
これから向かう山形も新潟も、同じ日本海側な訳で雨の匂いは残りそうだ。それより何より、スマホの天気予報が当たらないことに腹を立てていた。彼女の特技は長距離移動に向いていない。
時刻を見るとまだ薄暗い朝の五時。とにかく始発で動くことにする。安い切符を買って適当な所で降りることにしよう。今はそれしか出来ない気分だった。一気に新潟へ、と思ってもいたが、その余裕はユーキへの送金でなくなっていた。手持は四千八百円だ。
電車に二時間揺られると、何度となく睡魔が襲ってきた。ドア側の二人掛けというベストポジションで寝入っていると、いつの間にか進行方向が変わっていた。寝過ごしているうちに折り返しに入ったのだ。ならばともう一眠りして、酒田という駅で降りることにした。金額的にも二千円ほどの運賃で、今夜のノルマにはちょうどいい。
降りたはいいがいったい何県なのかも分からず、まだ雨も残り、長万部の二の舞になりそうな町でもあった。律儀に海岸線を進まなくとも内陸にも目を向けるべきだったと後悔するが時はすでに遅い。すべてを眠さのせいした。
折りたたみ傘を差して街中を散策するも、夜の店はタウンページ通りのばらつきで、何より民家が多かった。路上演奏に向いていないのだ。そしてネットカフェも見当たらなかった。
駅舎の売店でカップラーメンと水と煙草を買い、いっそ昼夜を逆にして駅舎の近くで演奏しようと思いついた。どうせ夜までには時間が腐るほどあるのだ。
雨の中唄い出したが、果たして通行人はまばらだった。
買い物かごを下げたオバちゃんに、
「大変だねえ」
と心底憐れんでもらい、なぜかおにぎりを一個もらった。ラップに包んだそれは、自分のお昼に食べるため持っていたようだった。具は珍しい焼き鯖だ。なかなかの味で、家に帰ったら自分で作ってみようと思わせる美味しさだった。そして、そういうことを考えつく余裕がまだあった。
一日の乗車人数が千二百人程度だという心を挫くネット検索結果にも負けず、夜は隣町の鶴岡へ移動してみようと考えていた。雨の匂いが濃厚だったが、ここにいるよりマシだと考えた。
昼の三時を過ぎたが何ごともなく終わり、喉の調子が悪いことに気付いた。決して風邪ではなく唄い過ぎなのだ。
(鶴岡に行こう)
すでに二千円台になった手持ちで、父の振り込んでくれた金が一瞬だけ脳裏に過る。
(ダメだ。あれはお守りだ。絶対に使えない)
そう覚悟して乗り込む列車は夕方のラッシュだった。隣人と軽く肩の触れ合うささやかなラッシュだ。ギターは網棚に載せ、リュックを足元に置いて電車に揺られた、
(まるで八雲の時みたいだ)
イカ釣り漁師のオバちゃんを思い出せば、胸の奥にやる気が溢れた。夜の海で波に揺られながら汗を流す彼女は、それでも笑顔なのだろう。
鶴岡に着くと、雨は降り始めていた。不幸中の幸いは、地下を抜ける駅の連絡通路があったことだ。そこで雨を避けることも唄うことも出来た。
(ここで一から出直しだ)
彼女は時計を見ると強く決意した。目標金額に届くまでは、この街で唄おう。煙草もお酒も抜きだ。
午後四時二十分。段ボール看板を出した彼女はギターを構える。
塾通いか、学校帰りの子供たちが、地下道に声を響かす彼女を遠目に見ている。可愛らしい仕草の少年たちは、「お前行けよ」「お前が行けよ」と小声で囁き合っている。
彼女の演奏がひと段落すると、総勢四人の彼らは一気に押し寄せた。
「何、唄ってるんですか?」
「プロ?」
優希は続けざまの質問に苦笑いして、
「お姉ちゃんまだ素人だから色々唄えないんだよ」
相手が子供だとはいえ、久しぶりの会話に心がほころんだ。
すると一人の少年が、
「僕たちねえ、お金持ってないから」
とうつむく仕草を見せる。
「いいの、いいの。じゃあ知らない歌だけど一曲聴いてくれる?」
「うん、聴く聴く」
彼女はそこで、優しくギターを弾き下ろした。天然のリバーブが効いたトンネル内ではそれだけで音が満ちてゆく。
唄うのはゆずの『いつか』だ。
唄い慣れたフレーズが、不意に心を揺らしにかかる。小樽の佐々木のことも、函館の『クラブ・マリア』も、こっそりと通帳へ送金してくれた父のことも、熱い涙になって頬をこぼれた。
そして曲は中途半端に終わる。
子供らはそんな優希を見て戸惑ったが、
「すげえ」
「やべえ。俺、鳥肌立った」
そして、
「お姉さん、明日もいるの?」
優希は今しがた流した涙の訳も分からず、それを拭いながら、
「うん。いるよ。きっといる」
その答えに子供たちは何やら相談し合って、
「また明日ね!」
子供らしい元気な仕草で走り去った。
それからしばらくは胸の奥が疼きっ放しで、何を唄っても自然と涙ぐんでしまった。これではいけないと気を入れ直し、佐々木仕込みの『青空』を唄ってみた。
そこへ、二人連れのオバさんが牽制するように通りかかった。
「静岡から来たの?」
曲の途中ではあったが、一人のオバさんが声をかけてきたので、歌を止めて答える。
「はい。今はとりあえず東京を目指してます」
「あらまあ、大変ねえ」
オバさんはすかさずバッグから財布を取り出した。が、
「やめなって。こういう詐欺が流行ってんだから」
もう一方のオバさんがそれを遮った。そして、
「アンタ、こういうのは東京でやりな」
そう言うと、まだこちらを気にしているオバさんの手を取って地下道の右奥へ消えた。
(今のは千円入るとこだった……)
しかし、逃がした魚を惜しんでいる暇はない。これから夕方のラッシュに向けて唄い続けるだけだ。彼女の美点は、持ち歌は少ないなりに継続して唄えることだ。
午後五時を回ると連絡通路を歩く人も多くなった。ただし、そのほとんどが眉根を寄せてあからさまに耳を塞いで通った。ようやく自分の歌のボリュームが場所に構わず大きいのだと自覚した彼女は、覚束ないアルペジオで、小声でレパートリーをこなしていった。そしてさらに四時間。
「珍し人がいるでねが」
通りがかったのは中年の紳士二人で、どこかで酒を飲んだ帰り道らしかった。軽く千鳥足なのがマンガのようで、おかしみがあった。
「何か、やってよ」
年代を考えるとゆずじゃないなと、彼女は季節違いだとも思いながらも、イルカの『なごり雪』を唄った。
「上手えでねか」
そう言ってオジさんの一人は財布を出す。
「頑張れよ」
五百円玉一枚を投げて行った。実に五時間かけて、ようやく投げ銭が入った。精も根も尽き果て、優希は放心していた。新潟まで、残り三十円だった。弘前のホテルで酒ばかり食らい散財したことが今更ながら後悔される。
*
『バー・こもれび』でのライブが終わり、帰路についていた。佐々木には「ホテルを取ってある」と嘘をついた。彼とはメアドの交換をして、リア友になった。佐々木曰く、
――「俺も毎日狩りに出てたこともあったんだぜ」
らしい。ネトゲの話だ。
『こもれび』では、誰をとっても温かな面々で、二千円だった所持金が八千円まで増えていた。路上の分は佐々木としっかり折半して、残りはお店のお客さんからの投げ銭で手持ちを増やした。
今夜の宿も昨夜と同じデパート跡地のベンチで、明日は佐々木に教わった楽器店で譜面台を買おうと思っていた。思っているうちに、少し飲み過ぎた酒のせいで眠りが訪れた。
翌日も朝市の賑わいで目を覚まし、ぷらぷらとアーケードを歩く。九時になったところで駅前のドーナツ屋に行こうと思ったが、『エンゼル』という名のシックな看板が目に入って、地下へ続くその喫茶店へ入ってみた。
途端に昭和情緒の溢れる赤いカーペットに豪奢なシャンデリアが目に入る。これは選択を誤ったか、と思いつつ、開いたばかりの店で空いた席に座った。やや高齢のウェイトレスたちは揃いのメイド服を着て、足音もなく歩き回っている。
しかしメニューを見ると、ソワソワが落ち着いた。定食のラインナップに安心したからだ。おでん定食にメンチカツ定食。それぞれ写真のついたメニューには小うどんが添えられ、あまつさえ納豆まであった。よく眺めるとテーブルの端は擦り切れ、赤絨毯もところどころ毛羽立ち、身構える必要はまったくなかった。
そして、
「ハンバーグ定食とコーヒーを」
昨夜はあまり食べていなかったのでガッツリいこうと頼むと、
「セットのうどんはそばにも変えられますが」
「いえ、うどんで」
少々焦りつつ返すと、
「ケーキの方はいかがなさいますか」
と唐突な質問が飛んだ。
「え? ケーキは――」
「コーヒーにセットでお付けしますので」
メニューを見れば確かに『コーーヒー(ケーキ付)』と書いてある。ケーキにコーヒーが付くのではなく、その逆なのだ。
「じゃ、じゃあ、抹茶のタルトで」
「かしこまりました。コーヒーはお食事のあとにお持ちします」
やがて運ばれてきたハンバーグは手ごねの素朴なハンバーグで、やはり納豆とイカの沖漬けが添えられていた。これは果たして和食なのか洋食なのかと迷ったが、迷うより食べるべし、と、ここ数日のカロリー補給に精を出した。不思議なもので食べると決めれば、どれもこれも素直に胃へ落ちてゆく。
セットのうどんを食べ終わって満足していると、
「コーヒーとケーキになります」
小柄なウェイトレスがトレーを運んできた。
十二分に朝の食事で満足して、彼女は煙草を取り出した。今日の行き先はこの旅を大きく変えてゆきそうに思えるのだ。もっと北海道を回りたい気もするが、それには季節が悪過ぎた。ユーキとの約束もある。ここは函館へ向いて、それから本州を南下するのが王道だろう。太平洋側はフェリーが高い。
昨夜、『バー・こもれび』で充電させてもらったスマホは快調だ。ユーキからのメールがないのを確認してから函館までのルートを検索した。小樽から函館までは六千五百五十円だ。佐々木のおかげでその手持ちはあったが、手持ちをギリギリにするのも心許ない。
(やっぱ、どこかでワンクッション稼がなきゃな)
その程度の思案でルート検索を終えた。いかんせん、知らない街で唄う不安はどこへ行っても同じだった。ならばまったく知らない街で唄うのもひとつの正解に思えた。
十時を待ち、例の楽器屋へ足を運ぶ。
譜面台を、と頼むと愛想のいい店員が三本見せてくれた。どれもリュックに収まりそうだったので、いちばん安い、千百五十円の黒いシックな譜面台を買った。
「箱は、いりますか?」
そう聞かれたので、
「あ、いりません」
と、ナイロン製のケースだけ付けてもらった。それから弦もワンセット頼もうと思い、見覚えのある赤いパッケージを手にすると、
「合わせて二千七百三十円です」
と、驚きの金額を提示された。実家の楽器屋で買った弦はワンセット五百円で、それがどうして千七百円になるのか問いただしたかった。が、きっとそれだけキレイな音が出るのだろう、そういう経験も必要じゃないかと抗議には出ず、甘んじてそれを受け入れた。何しろこちらはズブの素人なのだ。「この弦は特別な素材で作られておりまして――」などと説明を受けても分からないのだ。そしてこの判断が函館行きのルートに大きな支障を来すのだった。
「高い買い物したな――」
呟きつつ、アーケードを抜けて駅へ向かう。弦さえ買わなければ、函館まで一直線だったことを嘆きながら、しかし気持ちを切り替えた。
ついに函館を目指すのだ。この旅いちばんの見知らぬ土地だ。戊辰戦争で新選組の誰かが討ち死にした以外の記憶がどこにもない。
(とにかく短くても進むことだ。小刻みでもいいから南を目指そう)
駅の案内板で長万部という地名が目に入った。どこかで見聞きしたことがある気がして、三千円弱の切符を買った。どう間違えても函館本線。函館を目指すルートに変わりはない。ただ、躊躇している時間はなかった。出発は十分後で、乗り場に急がなければならなかった。
ギターケースを迷惑に振り回し、ホームへ着くと列車はすでに到着していた。彼女は空いた席を見つけ、ギターを網棚へ乗せ、リュックを足元へ置いた。途中、倶知安という駅で乗り換えだ。今日は寝過ごしが許されない。
思えばじきに十月だ。そろそろ紅葉の見頃にある山間部を抜け、列車はゆく。彼女は長距離列車に乗っている間の手持ち無沙汰感が好きだった。彼女はそこでスマホと睨めっこはしない。車窓の景色を――それが閑散とした漁村であっても――見逃がさないように懸命だ。時に睡魔に襲われるが、乗り物酔いでバス停三つずつしか動けなかった高校時代を思えば気楽なものだった。
三時間の、のんびりとした移動を終えて降り立った長万部は、
(うわー)
何もなかった。ないというか、空が広い。見下ろす海に向かって何やら市場か店舗らしきものが並んでいるのだが、それが夜にどんな姿を見せてくれるのか分からない。手荷物の多さのせいにして、優希は駅前の国道のベンチに腰かけた。残金二千円を切った現状で出来ることをひたすら考えたが、移動しか頭に浮かばない。それも、千円で行ける場所だ。ネットカフェは札幌以来行っておらず、頭が痒くて仕方ない。
鼻腔を抜ける風が湿っていた。間違いなく数時間内に雨は降る。この旅が始まって以来、雨に対する嗅覚がさらに鋭くなっていた。雨天は路上演奏にとって死活問題だったからだ。
午後の三時十五分、優希は長万部の駅前を通るひなびた国道でベンチに座って煙草を吹かしていた。空は青かったが、襟元を吹き抜ける風は冷たかった。
(ここじゃない――)
その決め手はいつも勘頼りだ。ほんの二か月前からの路上演奏だったが、その辺りの嗅覚には自信が持てた。
(場所を、移そう)
残金二千円もない身の上で知らない街を目指す。一か月前の自分だったらとてもじゃないが出来なかったと、自分自身の小さな成長を頼もしく思った。
ようやく過去編が物語冒頭に繋がりました。次回より新展開です。




