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1・ネットゲームと長万部

旅唄いシリーズ第四弾は女性主人公です。

中盤までは「現在・過去」の描写で物語は進みます。

前作より一話の字数が多くなっています(原稿用紙25~27枚)。ゆっくりとお楽しみください。

          1・ネットゲームと長万部



 鼻腔を抜ける風が湿っていた。西の空から雲が広がっている。間違いなく数時間内に雨は降る。この旅が始まって以来、雨に対する嗅覚がさらに鋭くなった。雨天は路上演奏にとって死活問題だったからだ。

午後の三時十五分、坂下優希は海を見下ろす長万部の駅前を通るひなびた国道で、ベンチに座って煙草を吹かしていた。遠くの空はまだ晴れ間を残していたが、襟元を吹き抜ける海風は冷たかった。まだ九月の下旬と言えどそこは北海道だ。


「よっこいしょ――」


 小さな掛け声と共に立ち上がり、簡易灰皿に吸い殻を入れ、荷物を担ぐと、何も目立った施設のないこの地をあきらめるために駅へと向かった。長万部が悪い訳ではない。誰のせいと言って、行き当たりばったりのこの旅のせいに他ならなかった。よしんばいくらか稼げたとしてネットカフェのように簡便な宿も見当たらない。残り手持ち千五百円の彼女には稼げそうな場所まで再び移動するしか選択肢はなかった。


 そもそも、行き先を駅の券売機で適当に決めるというのが誤った方法なのだ。せめて観光雑誌の一冊でも手に入れておけばここまで困ることもないだろう。小樽での稼ぎが一気に消し飛びそうな中、そう思ってみたりもした。


 だが、彼女は困ってはいたものの困り果ててはいなかった。狭い日本、電車で千円も移動すれば何かがあるに決まっていると思っていた。たまにハズレくじを引いても、駅の明かりが消えるまで唄っていれば淋しくも寒くもないだろう。そう考えていた。


 優希は、ギターを担いで旅をするホームレスだ。実家の母親に勘当同然の言葉を浴びせられて出発した旅なので、ホームレスということにしている。二十二歳の娘が当てもない一人旅をすると言えば、まともな親なら反対するだろう。


 それにしてもまだ旅の四日目。ギターに至っては始めて二カ月弱の超初心者だ。普通の感覚で言えば彼女は、えらく規模の広い迷子だった。


 駅舎へ戻り、時刻を見る。


 まばらな客が歩き回る駅で、彼女は運賃表を見上げた。どれもこれも見覚えのない土地ばかりで、次の明確な目的地である函館までは、手持ちも足りなかった。


(仕方ない……)


 と彼女は、なけなしの千円札を券売機に投入し、「少し目立って見えた」という理由だけで八雲という駅までの切符を買った。八雲は函館へ至る渡島半島を南北に分断する町だが、その知識さえ、彼女にはなかった。


 次の発車時刻まで間があったので、彼女は通行人を避け、駅舎の端に座り、「静岡からの唄い旅です!」と段ボールの看板を立て、ギターを取り出し、長万部に別れの歌を唄った。たった数曲の別れ歌ではあったものの、女子高生の三人組が笑顔で小銭をくれた。それだけで長万部に降り立った意味はある。


 そこにおまけをつけるつもりで、


「今から八雲ってとこに行くんだけど、どんなとこ?」


 そう訊ねてみると、女子高生たちは顔を見合わせて、


「ここより都会だよね」


「ねえ、超都会」


 そう言うと赤い頬で笑いあった。


 これで見知らぬ八雲への緊張感も断ち切った。あとは電車の時間まで唄うだけだ。


「じゃあ、頑張ってくださーい」


 ひらひらと手を振る彼女たちへ同じように手を振り返して、優希はギターを握る。その後は通行人に見離されたような時間が続いたが、やれることはやったと謎の達成感を残し、荷物を引き上げた。小銭が二百五十円増えた。


 九月の二十五日。ギターとリュックだけの心細い旅が始まって、四日が過ぎようとしている。日照りにやられた夏の名残りもなく、北海道はすっかり秋だ。朝晩の冷え込みは薄いシュラフでどうにかなっていたものの、そろそろ宿無しではキツイ季節でもある。実際彼女は、サンダル履きでコンビニへ向かう心構えで旅へ出ていた。


 やがて現れた数両編成の古めかしい電車に彼女は迷わず乗車する。函館本線を少しだけ南へ移動する三十五分の旅だ。何が待ち構えているかも知らない、初めての街。そこであらためて彼女は武者震いする。降り立った駅が長万部と同じ空気だったら腹を括るしかない。


 電車が速度を落とすと、窓から見えたのはいくらか見栄えのする街並みだった。スーパーの屋根が見え、パチンコ屋のネオンも見えた。どこかに小さな飲み屋街があるかも知れない。それは弱気だった心を幾分和らげてくれる材料になった。


 彼女は基本、飲み屋街でしか唄わない。それは地元で唄い始めた時からの決まりごとだった。決めるつもりもなく決まったスタンダードだ。なので駅前で唄うのは、街の雰囲気を見定めるための占いのようなものだった。


 八雲は改札から吐き出される人もほどほどに多く、それを確かめると彼女は夕刻の街を散策に出た。そしてがっかりした。女子高生たちの言う『超都会』とはかけ離れた住宅街が広がっていたからだ。賑わって見えるのは駅前の一区画で、手持ちも千円を切り、これは駅唄いに徹するかと頭を掻いた。雨の匂いも消えてはいない。


 夕方のラッシュ時を使い、駅舎から離れた植え込みのそばでギターを開く。それはいつになっても緊張する瞬間だ。期待と気負いとが混じり合った、独特の空気感だ。たったひとりで共同募金を始めるような心許なさがある。その気持ちを抱えたまま、彼女は長閑に唄い出す。


 すると十分ほどして、駅員が申し訳なさそうに苦情を申し出てきた。分かっていたことだが軽く落ち込んだ。


「無許可のこういう活動は制限してまして」


「分かりました」


 聞き分けのいい女のフリで荷物をまとめると、優希は電話ボックスに向かい、黄色のタウンページから『スナック』の欄を探した。するとそこには小樽や札幌とは比べものにならないほど小さな区切りで、十行ほどの店が並んでいるだけだった。どこかで予想していたオチだったが、これでもう唄う場所は限られた。これ以上は足を使って探すしかない。


(まずは……)


 すっかり暮れた街をパチンコ屋のビルまで歩き、子供が三輪車を走らせる小路に出た。パチンコ屋の裏手だ。古い木造民家が並んでいる。無理をすれば、商店街と呼べないこともない。


 と、そこに期せずして夜の店の看板がいくつか見えた。飲み屋街は手慣れた歌場だ。とはいえ、その数五、六軒。さっき見たタウンページを思い返せば、これ以上の密集地は他に見つけられそうにない。しかし、子供が三輪車をこいで回るような路上で唄えるものだろうかと彼女は悩む。


 優希はしばしの思案のあと、決めた。


(苦情結構。それが出る時間までに結果を出せばいい)


 時刻はまだ午後七時。「うるさい」という苦情は出ても「眠れない」という苦情はないだろと、今日二度目の覚悟を決め、彼女はリュックから折りたたみ椅子を取り出す。


 その瞬間から否応なしに通行人の視線が投げられた。恥ずかしくはない。が、プレッシャーではある。買い物客、はたまたパチンコで負けた人々の通りゆく路上の端で、閉まったシャッターを背に準備を進めた。


 そこへ、


「すみませーん、通れますかー?」


 車に乗った若い女性が看板の並ぶ奥の道へとハンドルを切っていた。優希がジャマになるのだ。


「ゴメンなさい! すぐ動かしますんで!」


 ギターケースを一度閉めてスペースを開けると、車は通過した。


「ジャマして、すみませんねえ」


 開いた助手席のドアからかかる声に、これはチャンスだと思い、


「ここのお店って今日、開くんですかね」


 背にしたシャッターを指差すと、


「たぶん大丈夫じゃないですか。しばらく開いてないみたいだし」


 と、笑顔で答えてくれた。第一関門突破だ。


 それではとギターを抱え、チューニングを始めるとさらに通行人の視線が痛い。何が始まるのやらと好奇心丸出しの人々はさて置き、町の自警団的な人相のオジさんが雪駄で近付いてきた。


「お姉ちゃん、なんかやるのか」


 優希は貼りつけた笑顔で、


「ええ、ちょっと弾き語りを」


 それだけ返すのがやっとだった。するとオジさんは足元で煙草をもみ消し、


「うるさくすんなよ」


 とだけ釘を刺して通り過ぎて行った。第二関門突破だ。


 ギターのチューニングも終え、準備が整ったところで彼女はリュックから小瓶を取り出す。なけなしの金で買っておいたカップ酒だ。酒を啜りながら唄うのが彼女のスタイルで、夜の魔法と酒の勢いで彼女は唄う。


 優希は手慣れた様子でカップ酒のフタを開け、初めて降り立った八雲の空へとそれを掲げ、ひと口を飲んだ。


 美味い。酒はいつ飲んでも美味いが、これがさらなる美酒に変わることを願いながらギターを弾き下ろした。


(ユーキ、元気でやってるかな)


 彼女はいつも唄い始めにそのことを思う。遠く離れた九州の地で唄う、まだ顔も声も知らぬ友人のことを。


 雨の匂いは消えぬまま、優希はギターを構える。


          *


 始まりはゲーム中のたわ言だった。


 ――え ユーキさんギターやってんの?


 いつものランク7のレイドを放置してチャット化したオンラインゲームの中、その日はたまたま優希と彼だけが残っていた。夜明けを迎えようとしているのに昨晩からゲームばかりに時間を費やしていた二人は社会生活において何らかの不適合者のはずだ。


 彼女のハンドルネームである『✝ユーキ✝』と、彼の『漆黒のユーキ』。お互い似たような名前をきっかけに親しくなってもう一年になる。


 十秒後、画面下のチャットスペースに返信が入る。


 ――やってるってほどじゃないけどね たまに駅前で唄うくらいかな


 ということはリアルでのコミュ症ではないな、と彼女はそう思ったことを覚えている。


 ――へえ そしたらさ 何かレパートリーとかあるの?


 一年培ったオンラインの気安さで訊ねた彼女へ、しばし間を置いて、


 ――まあ そういうのって歳バレするから


 彼は気まずそうに切り返した。


 それを知りたいのは山々だったが、オンラインゲームでそこを訊ねるのはご法度なので、


 ――そうだね ゴメンゴメン 私もちょっとギター齧ってるから気になって


 という、言い訳染みた嘘を優希はついた。すると急に話を蒸し返してきたのは彼で、


 ――ホント? ✝ユーキ✝さんもやってるんだ! 俺、そういう友達いないから色々話したいな!


 抜け出せない状況になった。ギターを弾いている、というのは優希の完全なでっち上げで、その嘘を塗り固めるために時間的猶予を作った。


 ――レイド時間が終わるまでにアドレス教えるからそっちで連絡して シャワー浴びずにバイト行くのも気持ち悪いし


 ――そだね じゃあメアド待ちで保守してるからシャワー行ってきて


 が、優希はシャワーに向かわず、デスクのモニターを見つめながら、どうやって納得してもらうか言い訳を考えるだけだった。ギターの件はおろかコンビニのバイトすら二か月前に二週間の勤続で辞めていたし、今は絶賛ニートの身分でメアドを教え合うなどそんな気はさらさらなかった。漆黒のユーキとはレイド後のチャットだけで満足しているのだ。そういった意味で気の合うオンライン仲間だった。


 手慰みに、半年前から覚えたマルボロのメンソールを咥えてライターを擦った。


(リア友かあ……)


 灰になったマルボロを空缶へ放って、デスクへ足を乗せたままボンヤリと考えていた。


 そこへユーキから再度レスが届く。


 ――こういうのって男からってのが基本だよね、俺は榛原裕貴。アドレスは――


 優希は送られたメッセージをすぐさまスクリーンショットで保存した。同じハンドルネームのよしみで仲良くなった彼だったが、本名も読みは同じだったのだ。その不思議な昂揚感は決して三缶開けた缶チューハイのせいだけではなかった。


 時計の長針が半分動くのを見て、


 ――メアドありがと! 今夜またレイドで会おう!


 そして「ノシ」の二文字を打ちこんでブラウザを閉じた。それはWeb上でいつからか決まった、チャットを落ちる時のサインだ。横に顔文字をつけると手を振っているようにも見える。


 階下では父母が朝食をとっている。


 いつもなら眠れる時間に、しかし優希は寝付けなかった。メアドを教えてもらったからにはこちらも返さなければいけない。だとしてこれから先、どんな自分像を彼に伝えよう。シャワーも三日に一回じゃなく毎日浴びた方がいいだろうか。何がある訳ではないが、きっとその方がいい。伸びっ放しの髪も切っておきたい。決して彼に会うためではない。とは言いつつ、いつ会ってもいいように身ぎれいな自分でいたかった。幸いお腹の肉が弛んでいる訳でもなく、キチンとすれば程々の見かけなのだ。はずなのだ。


 休学中の大学に在籍していた頃はどうだったろう。


 友人たちの服装を見ては陰で真似をして、化粧の上手そうな友人にさり気なくブランドを教えてもらい――。


 しかし、とそこで彼女はすべてを頭から振り払う。そんなことばかり考えているからいけなかったのだ。病院で「うつ」などと診断されるまで気付かなかったのだ。満たされた、潤った学生生活など望んだからいけなかったのだ。身の丈というものを考えれば最初から分かっていたはずだった。


 オンラインの友人は皆、優しい。上級ナイト職の『プロヴァンスキラー』さんも、ヒーリスト専門の『アキュアライン』さんも、そしてシーフの『漆黒のユーキ』も。彼らと話す日々がなければ優希には生きる意味がなくなっていた。


 そして今ひとつ、メールアドレスという大きな門の鍵が開いた。門を開けるかどうかは彼女自身にかかっている。


(身バレすることはないのだし、メアドくらい)


 そう思う自分がいると同時に、


(もしもオフで会うことになったら)


 現実味のない妄想に頭を悩ませた。


 パタパタと忙しい音が階下から響くと、父母が出勤する時間だ。その時刻になってようやく彼女は解放感に包まれる。トイレに行くのもシャワーを浴びるのも、食事をとるのもその時間内だった。休学している身の上、顔を合わすのはもちろん気まずかったし、それ以上に、


 ――「どうするの。もう一年もムダにしてるだけじゃない」


 毎回うんざり顔の母に問い詰められるのが嫌だった。どうするにもこうするにも、頭の中にはゲームのことしかない。自分でも自堕落だとは思うものの、怠惰な生活ほど染みつくと抜け出せなくなるのだ。


(メアド、どうしよう……)


 スクリーンショットの画面を見つめ、思い立った彼女は捨てアドをひとつ作ると彼に送信した。


 ――ユーキです! これからもヨロシク!


 身体の奥で訳の分からない何かが脈打つ気がして、そのもどかしさのままベッドへ転がると目を閉じた。が、不意に起き出し、着替えをすませ、髪を梳かし、夜のコンビニ以外では一週間ぶりに外へと出た。


(彼に対して嘘があってはいけない)


 その思いが彼女の足を街中へと向けさせた。そこは引きこもりと違い、ムダな行動力だけは残っていたのだ。


 平日の駅前はビジネスマンが多く、その隙を縫うようにして彼女は歩いた。フラつくように歩いた。昨夜から何も食べていないことを思い出し、ATMへ寄るついでにドーナツを一個買った。コンビニ前でそれをモソモソと食べ終わると、駅南の楽器屋に向かった。


(ギターを買おう――)


 それは漆黒のユーキに吐いた嘘を取り戻すためだった。オンラインとはいえ、一年近く付き合いのある相手に対して、もっと真摯に振る舞わなければと思った。その嘘を後悔するにはまだ早く、いつか彼に出会えるなら、その時こそギターが弾けるようになっていればそれでいいのだ。そんな日が、いつか来るならば――。


「エレキの方、何かお探しですか?」


 壁際に足元にずらりと並んだ色とりどりのギターに圧倒されていると、にこやかな店員が近寄って来た。ギターの知識がまったくない彼女は狼狽えながら、


「あの、ストリートとかで唄ってる人が使ってるのってどれですか?」


 覚えてきた台詞を一言一句間違えずに伝えた。が、あとは案内されるままで、


「アコギの方ですか。それではこちらになります」


「はあ……」


 またズラリと並んだギターの壁に圧倒されるだけだった。


「その――」


 今こそ言うべき時だと、彼女は終始にこやかな店員に訊ねた。


「いちばん安いのってどれですか」


 すると店員は一気にテンションを落とし、


「そういうギターでしたら中国製が多いですけど」


 けど、が気になった彼女は、


「何か不都合があるんですか」


 また訊ねた。


「いえ、不都合と言いますか。音色が違います」


 音色、と言われても彼女にはそれが分からない。挙句、店員に一本ずつ弾いてもらい、気に入ったのは一万八千円の中国製ギターだった。『Woodland』という聞いたこともないメーカーだったが彼女はそれを気にしない。元々、ギターメーカーなどひとつも知らないのだから。


「それ、ください」


 先月に二万円だけ入っていたコンビニのバイト代で手が届くと同時に、フィーリングで選んだ。薄い木目がキレイで、初心者にも優しそうだった。


 それを見抜かれたか、


「ちなみに、この価格帯では当店でいちばん質のいいモデルです。向こうのブースで教則本も売ってますので、よろしければそちらもどうぞ」


 店員は白けた顔でそのギターを磨き始めた。


「ありがとうございました」


 店を出るなりソフトケースをあちこちぶつけた。これがやがて身体に馴染む日が来るとは、その時は思いもしなかった。


 誰もいない家に帰ると、真っ先にギターをケースから取り出し、ベッドに立てかけて写メを撮った。曇りひとつないボディーが眩しく、久しぶりに意義のある買い物をした気がした。ゲームに課金するのとは違う、生々しい手応えだった。


 パソコンに電源を入れると新着メッセージが届いていた。


 ――✝ユーキ✝さん メアドありがとう!


 気恥ずかしくもあり、嬉しくもあった。何か返した方がいいかとは思うものの、今はギターのことで手一杯だった。


 教則本を一時間読み、まずは覚えやすい四つのコードというものを知った、C―Am―Dm―G7。本にはその四つで世の中の三分の一の曲が弾けるとまで書いてある。


 が、いざギターを手にして本に書かれたコードを苦心して押さえてみると、ボロボロと歪んだ音しか出なかった。いっそ、何も押さえずにシャランと弾き下ろした方がいい音がする。


(いけない、いけない。それじゃ意味がない)


 そうして優希のギター練習は始まった。レイド明けの早朝に少しだけ眠り、父母が仕事へ行っている間に痛む指先で弦を押さえ、食事を取るとまたベッドの上で胡坐をかき、教則本と首っ引きでギターを弾いた。弦を押さえる指の傷みは一週間でピークを迎えたが、何ごとも適当にやりこなす彼女には珍しく、痛みを堪えながら教本通りに弦を押さえるような生活が二週間過ぎた。夜は息抜きのようにレイドに参加して、いつもの面子で朝までチャットに費やした。食事はインスタントラーメンやゼリー飲料が主で、ゲーム中にも缶チューハイは飲まなくなった。


 そして一か月後、彼女は一曲を完全にマスターした。気が付くと一週間も風呂に入っていなかったことを思い出し、コンビニへ行く前に丹念にシャワーを浴びた。祝杯のための缶チューハイを買いに行くのだ。とにかく、一曲マスターした高揚感だけが彼女を包んでいた。曲は、ゆずの『いつか』だった。その名の通り、いつかその歌を誰かに披露するとして、それが漆黒のユーキだったらと思えば急に照れ臭くなった。誰のためでなく、彼のために覚えたギターだったのだから。

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