表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

歴史とDNA

出雲王国と海人族

作者: とびうお君

 再び出雲王国を扱う。海人族と言われる人たちは出雲王家の系統の人が多い。ばらばらな出身のはずなのに何故?となる。これについて私は、多分父系で統一しただけでそれぞれの出自はバラバラの系統だったと見ている。バラバラの系統が皆出雲の王家と婚姻して出雲系になっていく。まさに天皇家がやった事を同じ事をして居た見ている。


 また出雲王国で再び触れようと思ったのは、宗像氏が隼人の出自だという話がある。これが出雲王国の王家のはずなのに?となる。実際は天皇家となってる。この辺りぐちゃぐちゃになってる。日本書紀はちと信じられない部分がある。意図的にわざとあらゆる系統を天皇家の直系=天孫族とやってしまってる。多分これ間違いだと思う。


 藤原家なんかは天孫族じゃない。この辺りどういう意味があってやってるか?が本当に良く分からない。藤原家は意外と記録してるからこそ誤魔化さなかったのかもしれない。


 安曇氏はおそらくO1B2の渤海系。本当の呉越系の系統も多分居る。ただその辺り良く分からない。それと言うのも渤海系は呉の子孫だと言っても正しいからに成る。直接来たのじゃなくて、一度渤海で混血してから来た事になる。ただその場合言語も違うし、そんな古い時代の記録あるか?となる。


 この言語の違いややこしいのだが、日本語は中国語と成り立ちが似てると見ている。渤海を中心にした海のネットワークで使われていた公用語的な意味があったのじゃないか?と見ている。もろクレオール言語っぽいから。だから本人達は言葉を変えたつもりがなくて、元の言葉を使わなくなっただけじゃないか?と見ている。


 それと言うのも台湾がこんな感じだから。日本統治の後日本語から中国語、これに原住民の言語が絡んで今に至って、若い世代が中国語しか話せないってのが問題になってるとかあったから。現代でもこうなんだ。


 後呉の王家って伝説は嘘っぱちだと思う。呉の住民と呉の王家じゃ全く違う。O1B2などのO1系は呉の住民であって、王家じゃない。呉の当時の王家は周なのでQというかなり変わった系統なので多分違う。日本にほとんどQ系がいないので日本に呉の王家など微塵も来てない。この点魏志倭人伝はここははっきりしておいた方が良い。これだけはハプロが優秀な面だと思う。直系をすぐに見抜けるから。


 安曇氏の本拠地の住民がどういう意味で魏志倭人伝で発言したのか?については、私はちと分からないと思ってる。


 これに関して、じょふくもややこしい。じょふくも一族だったのか?住民だったのか?が分からない。人数が多すぎて一族?となるから。ジョフクは、もろO2系のしかも南方系ですらない。秦氏と同じ系統。ひょっとしたら秦氏は王家と偽りを述べたが、半島にじょふくの人達は流れ着いた可能性も高い。半島には秦からの亡命者が数多くいたため。


 秦氏は始皇帝と同じ系統だが、これは以前書いたが問題がある。秦の王家に繋がるといってもいつから変異したのか?が分からないと、秦ではありふれた住民の系統である可能性が高いから。これはすべての王家のハプロで共通する。絶対ありえないをさぐるのは簡単だが、逆にそうだと言い切れるか?は胡散臭いのが多い。


 ジョフクが日本に来ていたら海人になっていた可能性が高いので、面白いと思ったが、取りあえずややこしいので除外。


 海人と出雲王家が結びついて一つのグループを作っていた。それが出雲王国となる。さてこの肝心の出雲王家はどういう人達なのか?これは私は新羅からやってきたとの話が合ってそれを支持したい。どこまで本当か?分からないが、古い出雲王家の子孫である諏訪氏がC2Cだったとの情報がある。もちろんかなり確証の持てる話じゃない。


 やや胡散臭いソース。だがまるっきり駄目なソースではない。海外で何故か日本の古い系統の調査をしてる。おそらく全世界的にやってるんだと思う。クランというらしい。うさんくさい源氏などの調査もここから漏れてきたもの。


 で、これ今の出雲家とは違う。えええ?となるが、そこが日本書紀の胡散くささになる。確かD系だったと思う。この調査がおかしいのか?ならそれも当然考慮すべき。でも私は日本書紀のいい加減さの方を押す。血縁関係や、婿に貰って王家の仲間入りするって流れが多い。欧州藤原氏もこの後者のつながりだと思う。東北の豪族の安部氏が娘婿に貰ったのが藤原家だったとなる。今の総理の先祖の家になる。


 宗像氏はおそらくこんな感じ。今の千家は娘を逆に嫁に貰って外戚となった感じで、それが日本書紀に記されてなく直系にしてしまってるんだろうと見ている。それと言うのも手前味噌ってやつだが、日本書紀の情報から、今の千家を後から当主にして出雲王家を繋いだとの記録が残っている。1000年500年と経ってしまってるので、こういう事が起きてしまう。


 おっとこれは国譲りが事実だとしてになる。私はこれ事実だと見ている。それがまさに遺伝子によるものになる。


 ようするに新羅系渡来人の王家を中心に海人族が婿に貰って出来たのが出雲王国だと見てて、ひょっとしたら婿じゃなくて嫁の可能性もある。天皇は?当然そうだと思う。理由は日本書紀で出雲王家は天孫族の系統だと書いてあるから。私は天皇家は海人の弥生人だったと見てるのはここになる。


 隼人と言うのは元の文化のまま弥生に入ったと見れば良い。ここですぐ分かるのは、天皇家がD系なのに何故D系の濃い東北を攻撃するのか?でそんな事はどうでも良い。大事なのは権力に従うか?で民族の争いじゃない。後々これが縄文系VS弥生人と言う、民族人種的なものに摩り替わってしまったとなる。


 その証拠に元の文化のまま天皇家にすぐ従った隼人は優遇されている。その後反乱など起こるが、これは別に可笑しくは無い。結局は習俗が違うと言うのは都合が悪いからだろう。恩を仇で返すって事なんだろう。


 このアイデア、根本的には斉藤教授のまるパクリになる。著書は読んでないが、斉藤教授の神話好きは良く知ってるので。インタビューなどですぐに分かってしまう。


 神話をそのまま受取ったら不味い部分と、核DNAで調べてるからこそ、斉藤教授は直系には無頓着だという点。婚姻関係なら多分もろ核DNAに出るだろう。


 この少数の支配民族と元からいた住民と言う関係は、根本的に弥生人のなりたちと異なる。弥生人の混血は後から起きたらしい。大半はそのまま移住。東へ向かうときに縄文系と混血して今の日本の混血比率に近づいたとなる。


 出雲王家は典型的な渡来系である可能性はあるが、出雲王国の住人はかなり濃い縄文集団だとなる。天皇家とまるで逆だと思う。弥生集団に入り込んだ縄文直系が天皇家だと見ているから。


 何故北九州だけ違ったのか?でこれは後から独立したか?または、出雲王朝は九州地方は支配できてなかった可能性がある。私は後から独立したと思う。倭国大乱と繋がる部分もあるから。天皇家も海人グループのメンバーで婿じゃなくて嫁だったのじゃないか?と見ている。それゆえ同じ天孫系と名乗っていると見ている。


 ハプロの話しは歴史的には面白いのだが、遺伝と言う意味ではやはり核DNAには及ばない。出雲王家が新羅系とかかなりどうでも良い。出雲地域の住民が縄文系の遺伝子が濃い。こっちの方が重要だという点。これが古い系統が天皇家とともに集まった集団に中央からおしのけられた原因だと見ている。


 そのまま3段階モデルは海人連合である出雲王家に対するよりモンゴルの系統が強い天皇家を中心とした連合の国譲りだと見れば良い。これは単純に北方アジア色ではない。その理由として出雲王家はおそらくツングース系の流れも入ってると見てるからになる。鉄生産からそれは分かる。


 ただ沿海州よりと内蒙古よりの系統が違うってだけになる。上層部で見た場合は弥生VS縄文なんて単純な対立じゃない。継体天皇が北陸出身だったって点は無視してよいと思う。これによって沿海州系の出雲系の復活とかは考えなくて良いと思う。これは単純に王家による封建国家の証しに過ぎないと思う。


 出雲と沿海州と半島東海岸を纏めて考えると、安曇氏から宗像氏に行く流れがすごく良く分かる。百済、高句麗=反新羅の流れが白村江の大敗で大きく変わる。天智天皇と違い、天武天皇は親新羅だった。ここから宗像氏の出雲新羅ルートの重視に変わったと見ている。親新羅と言うより親唐になる。


 ただ単純に高句麗百済と仲が良かったわけじゃない。対高句麗で百済や新羅と同盟を結んだこともある。いつも味方だったのは百済になる。それは百済が弱かったが大きい。


 ただ新羅より百済高句麗の方が、大陸のモンゴル地域と繋がりやすい。大雑把にやると、百済高句麗は国として通り道にモンゴル系が日本に到着しやすかった。それに対して新羅はツングースが間にあったと言うのが大きかったと思う。その辺り遺伝的系統として違ったんだろうなと見ている。


 しかも肝心の住民の大半は、古い縄文系が強く出るので、新羅系と百済系なんて違いじゃない。そもそも百済の住民はほぼ弥生人と変わらない。そこに騎馬民族の支配層がのかった形になる。だが、どうも日本には今のモンゴルの系統と同じ人が天皇政権に大量に入り込んだとなってる。


 これは結構謎の部分。O1B2が多いので江南系なんてのは馬鹿な話しで、渤海人なのでもろ中国東北人。ただそれじゃ満州で強く出るが出ない。モンゴルに高く出る謎の系統が天皇政権には渡来人として大量に入ってきた。しかもブリヤートには出ないモンゴル高原だけになる。だからこそ、これは起源は内蒙古だと見てる。


 扶余=モンゴル高原の多数派とできれば楽なのだが、私は鮮卑の前身である東胡だと見ている。問題は騎馬民族=だとはならない。なにかしらの事情で農耕民にもそれが支配される前の遺伝的に浸透していたと見ている。


 ただもっと複雑なのはじゃ何故満州や半島では高く出ないのか?


 後の高句麗の移民は北陸や関東に多く散らばっている。一部は近畿にいついたとおもうが、百済と違って高句麗は時代が後なのでポストがほとんど無かった。それに前から百済は弱いのでとても仲が良かったので。まあようするに下手に出てくれたからだと見てる。


 後々中国の移民で半島の遺伝子はかなり河っていると言うのは確か。でもそれだけじゃなくて、何故か不思議な間の満州半島を無視してモンゴルと繋がる遺伝子の関係。これが決定的な量じゃなくて質の差になってる。根本的には海人、新羅沿海州、縄文の濃い住民でほぼ解ける。だが、最後に質の違いとしてはっきりとモンゴル高原の今の住民の遺伝子が近畿中国山陽にははっきり出る。


 これは正直分からない。やはり金属加工の集団で新羅経由と百済経由じゃ別の集団が関わったからと言う点じゃないか?と見ている。縄文の血が薄いので稲作も関係してるかもしれない。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ