どうしても緑には見えない青
時系列なんてどうでもよく、これはとある春。
窓から入ってくる風は適度に涼しく、あたたかくなりきっていない。
部屋着もまだ長袖でちょうど良さそうだった。
ピンポーンとチャイムが鳴ったので、製作途中のボトルシップを放ってドアを開ける。
「また来ちゃいました」
「こないでね、じゃあ」
ガチャン、と鍵をかける。
「不審なものではありません!あの!私ですよ!緑亀です!」
ドンドンドン!ドンドン!カッ!ドンドン!と妙にリズミカルに扉を叩かれる。近所迷惑になりかねないので籠城作戦はここで中止にすることにした。
再び扉を開けると、女子中学生が顔を赤らめながら拳を振り上げていた。
「あれ、観念するの早くないですか?はぁ……はぁ……まだ第一楽章も前半ですよ」
息が上がっていた。衣替えをせず、冬服のセーラー服を着ていた彼女にとって、いまの運動は暑すぎたらしい。
「上がりなよ。お茶くらいは出すから、飲んだら帰って」
あまり玄関前に居座られても困るので家にあげた。本当は一人暮らしが女子中学生を招き入れるのはもっとよくないことなのだが、俺には騒音トラブルの方が怖い。
緑亀ちゃんは、靴を脱ぎながら、思い出したように告げる。
「あ、そういえば最近ブラジャーつけ始めました」
「報告すな」
麦茶を取りに冷蔵庫に行くと、いつもの浮遊霊の少女が蔑んだ目で俺のことを見ていた。
「……俺はロリコンじゃない」
幽霊に弁解しても意味はないが、とりあえず潔白を主張した。
しかし幽霊は気に障ったようで、俺にローキックを見舞ってくる。
すり抜けたのでノーダメージだったが。
冷たい視線から逃れるように、麦茶をもって、俺はさっさと台所を後にした。
俺の姉はデパートの買い付けをしている。全国の名産品を探すのが仕事である。
その仕事で見つけた、売れ筋ではなくとも、姉が個人的に気に入ったものは、たまに俺に送ってくれる。良さを共有したいのだ。
この麦茶はそんな品のひとつであり、かなり美味しい。いままで麦茶に違いなんてものがあるとは思えなかったが、これを飲んでから価値観が変わったほどだ。
「はいどうぞ」
「ぷはっ。ありがとうございます。でも麦茶は夏に飲むものでしょう。春って」
約半年前におくってくれたものなのだが、飲むのを忘れて昨日作った。賞味期限があるのかは知らないが、せいぜい冷たいものを飲んでお腹を冷やして苦しんでしまえ。
さらに季節外れをたたみかけるようにお茶うけには、水まんじゅうを出した。瑞々しい色が春の陽気とは不釣り合いである。
緑亀ちゃんはそれは気にせず、手掴みでぱくりと水まんじゅうを齧った。
1ヶ月に一度ペースでうちへ来るこの子、緑亀ちゃん。この子は自称宗教家であり、いつも俺の勧誘に来ている。
町内会の集まりで知り合って以来付き纏われているのだ。
宗教の名は「徹底的に愛の無い悪魔の教会」。
入信した者は、自身が持つ愛を悪魔に喰われてしまう。
あなたがひとを愛せないのはこの悪魔のせいなのだ。
悩む必要はない。
つまり他者との関係性が築けない人間たちのために理由を与えるのがこの宗教なのだと言う。
俺は無神論者というか、そもそも日常の中で神なるものを考える時間など皆無なので、この勧誘は、はっきり言って迷惑なのだ。
緑亀ちゃんは無防備に足を崩す。
「さて、じゃあ今日も説法でもしますかぁ」
「お茶飲んだら帰ってくれよ…」
俺はテレビをつけてちゃぶ台に頬杖をつく。この子の話はいつも荒唐無稽で、聞くに値しないのだ。
「そんなぁ、武藤さん暇でしょ。付き合ってよぉ」
「…………」
勧誘は無視に限る。これは鉄則である。
緑亀ちゃんは、むぅ、と頬を膨らます。
「き、い、て、く、だ、さ、い、よ〜」
耳元のノイズに、俺はため息をつく。
「話し相手がいないならネットかなにかに垂れ流せばいいだろ」
「むぅ。たしかに『徹底的に愛のない悪魔の教会』はもともとはSNS上で私が立ち上げた宗教でした。
最初のうちはみんな面白がってフォローしてくれ、信者を獲得していけました。
でも、界隈の人気者の炎上発言に核心をつく指摘をして以来、フォロワーにそっぽを向かれるようになりました」
「……なんか自分を正当化してる意見だね。そういう場合は、だいたい独りよがりなことが多いけど」
「嗚呼。仮にこの世に真理があるとして、真理を発言したところで民に共感を与えられなければ、支持は得られないのです。
真のコミュ障はネット上でも安定の一人ぼっちなのですよ」
緑亀ちゃんは天を仰ぐ。
厨二病なのだろう。俺にもこういう時代があった。いやここまで痛くはなかった。
緑亀ちゃんは水まんじゅうをもぐもぐ粗食しながら話し始める。
「こういう話を知っていますか?
『どうしても緑には見えない青』」
緑亀ちゃんの祖父はアマチュアSF作家だった。趣味の民俗学研究で得た知識をもとに、荒唐無稽な新説を打ち立て、それをSF小説に仕立て上げて数十作を完成させたという。
彼女の子どもの頃は、絵本の代わりにそのSF短編を読み聞かせられて育ったらしい。
これを、SNS宗教家をやるにあたって、聖書のごとく、教えを授ける寓話集として、流用しているのだ。
「その話は、いったいどんな教えを授けてくれるんだ?」
「まあまあ焦らないでください。これからするのは、この世界にはもともと緑は存在しなかったという説です」
「……は?」
うっかり反応を与えてしまった。緑亀ちゃんは、得意そうに話を続ける。
「信号の色、三色言ってみてください」
「赤青黄色だろ」
「ふむ。では芋虫のことを別の呼び方でなんと言いますか?
「ワーム」
「話の腰を折らないでください青虫ですよ。このように、緑色なのに青と呼んでいるもののなんと多いことか」
青信号、青虫、青野菜……。たしかにいくつか思いつく。
「それは昔は、日本に緑を意味する言葉がなかったからだろ」
「ええ、つまり緑という考え方が流入したことによって、緑色は誕生したのです。それまで緑色は日本人には存在しなかったのですよ」
「……区別の方法がなかっただけで、識別できはしただろう」
「それはどうでしょうね。
こうは考えられませんか?
緑色という言葉と同時にこの世に緑色が登場し、それ以前の世界では一切緑というものは存在しなかった。
だから緑色、と呼ぶことができなかった」
「色っていうのは可視光線の波長によるんだから、存在しなかったなんてことはないだろう」
「人間の目が、緑色の誕生以前はその波長を捉えられなかった、とは考えられませんか」
「いやそんなことはありえないだろう。可視光線の範囲内である以上認識はできるはずだ。人間の進化がたった数百年の間に起こるはずがない」
「観測者がいないものは存在しない。量子力学の基本ですよね」
「いやいやだからと言って……」
反論を考えていたが、話を変えられた。
「時に武藤さんは、河童お好きでしたよね」
「え、まあ……」
「河童の色は何色とされてますか?
「緑色……例外的に赤色も遠野ではある」
「こちらをご覧ください」
緑亀ちゃんは、カバンから古びた紙きれを取り出した。
それは、「真っ青な河童の絵」だった。
「これはうちの蔵から見つかった河童の絵です」
真っ青であった。緑色に少しでも寄らない、三原色の青色としか表現できない。
「多くの人は河童は緑色だと言いますが……果たして本当なのでしょうかね。
この青色の河童が本物を再現したのかは定かではありません。
想像のなかで筆を振るったのかもしれないし……
絵師の目が衰え、青色に描いてしまったのかもしれない」
「…………」
「もし、ですが。河童が、まだ人間が認識できない『体色』をしていた場合……彼らを発見することは可能なのでしょうかね?」
「………この説法とやらは何を伝えたいんだ?」
「目に見えないものを追い求めることの難しさです。
手の届かない幸せを理解していても、人はそれを求めてもがいてしまいます」
「夢を諦めろってことか?」
「諦めがつかないのは、悪魔があなたを唆しているからです。
悪魔はあなたが夢を掴んだその瞬間を狙っています。その時発生する愛を喰らうためです。
……逆に言えば夢が叶うまで、悪魔はなにもしてきません。思う存分、安心して夢を追ってください」
認識をしなければ、存在は生まれない。
……ふと台所のほうにいる幽霊を見た。
もし俺がこの場で緑亀ちゃんに「ここに幽霊がいる」と教えれば。
この幽霊は実態を持って歩き出すのだろうか。
幽霊少女は俺の視線に、一瞬反応したが、すぐに背を向けた。
緑亀ちゃんはスマホの時計を見る。
「あっ塾の時間です!じゃあこれは説法代としてもらっていきますね!」
緑亀ちゃんは、お茶うけに出していた水まんじゅうを鷲つかむと、慌ただしく外へ出て行った。
空っぽになった皿を見て、はてと思う。
そういえば、あの水まんじゅうは青色だったろうか、それとも緑色だったろうか。
余談というか、蛇足だが、後日聞いたところによると、緑亀ちゃんには色覚異常があり、『緑色』が判別できないのだという。
彼女にとって、この世界の緑は、『どうしても緑には見えない青』だったのだ。