ある日の夏。
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ひとから譲り受けた中古の扇風機をコンセントに繋いで稼働させると、生ぬるい風が巻き起こった。湿度の多いこの部屋で、風をかきまぜれば、そりゃこうなるか、というところである。
俺はいま、部屋唯一の窓を完全に締め切っている。
真夏の熱帯夜、どうして熱中症の危険を冒しながらサウナを作り出しているのかというと、これには仕方がない理由があった。
実はいま、この部屋の真下、アパートの庭で大家さんがごみを燃やしているのだ。窓を開けると立ち上る煙が入り込んでしまう。
夜中に大家さんがこのような迷惑行為に及ぶのはいつものことなので、言ってもどうにもならないのを経験則で知っている。あのバカ大家さんが消防署に怒られるまで待つことしか、俺にはできないのである。
蒸し暑い密室を受け入れ、どうにか布団にもぐって、目をつぶっていたのだが、一時間が経過したとき、あまりの汗の量に生命の危機を感じた。
耐えかねた俺は飛び起き、コップ一杯の水を飲み込んだ。そして電気代をけちるあまり押し入れに封じ込めていた扇風機先輩に登場いただいた次第である。
しかし生ぬるい風がこれでは事態を解決できないと教えてくれる。
WHOによると、35度以上の気温での扇風機の使用は熱中症対策にはならないそうである。最近は携帯扇風機なるものが流行っているが、あれはからだに熱風を向けているだけで、むしろドライヤーになっているそうだ。
おぼつかない足で、玄関に歩いていく。煙とは反対側の通気口を確保しておこうと考えたのである。防犯上はよろしくないが、ドアをあけ放ち、せめて籠る熱気を外に逃がすのだ。
ようやくたどり着いた玄関で、ドアノブに手をかける。ひねってあけて、ミッションコンプリート、生存確保。ただそれだけのこと。
それなのに、悪い偶然が起こった。
ドアが開かないのである。
原因は不明。ドアの前に重いものが置かれているのか、あるいはこのドアノブ、鍵などに不良が生じたのか。回らない頭では判断できない。
ただ、わかるのは、それなりに俺はピンチらしいということである。この部屋から出られないと、熱中症で死亡もありえる。
いざとなったら助けを呼ぼう。スマホはどこに置いたか……。
スイッチを押して、暗い部屋に明かりをともす。いつもなら、充電ケーブルに差しているはずだが、そこにはない。スーツのポケットだろうか。干してあるズボンをまさぐるが、なかからはポケットティッシュしか出てこない。カバンを漁っても出てこない。腕を組み考える。
なぜない?まさかどこかに落としたのか?
床に落ちていた使いかけのノートを拾い、今日の行動を書き連ねる。
6時半 悪夢に涙しながら起きる。
7時 シャワーで涙と汗を流す。
7時半 食欲がなかったので、朝食を抜いて外へ出る。
この時点でスマホは持っていたのを記憶している。電車の遅延がないかを確認したのだ。
どうせ今後使う予定のない学生時代のノートなので、ここまで書いたところで余白に大きくスマホ有、と書いて次のページへ行く。
8時 電車に乗って夢想する。
8時半 駅から出て自販機を眺める。いつも買っていたお茶がなくなっていた。
9時 記憶なし。いつのまにか会社のデスクでパソコンの電源を押していた。
ここまではいつも通りの日常である。なんの変哲もない。
唯一の不満は自販機からお気に入りのお茶がなくなっていたこと。代わりに増量に増量を重ねているペットボトル麦茶を買ったのを覚えている。
そうだ。このときスマホでお茶を買った。おサイフケータイというヤツである。ちなみに俺の使っている決済システムは、日本でこの自販機でしか使えない超極地的アプリである。一切の互換性がない。
スマホ有と書いて次のページにいく。
10時 仕事中、先輩がポッキーを口に入れてくる。
11時 仕事中、先輩がプリッツを口に入れてくる。
12時 昼休み、先輩が魚肉ソーセージを口に入れてくる。
ここ最近、先輩は棒について研究している。軌道エレベーターに応用する技術を作っているのだ。そこで余った棒の処理に、先輩は俺の口を利用しているのである。俺はされるがまま、棒を食べている。低確率で食材以外の棒を差し込まれるので、仕事中は気を抜けない。
そういえば昼休みの終わり際、魚肉ソーセージのあとに続いて、タッチペンを口に差し込まれた。あげる、と言われたので、口から取り出し、試しにスマホをタッチしてみたのだ。
反応がとてもよかった。
スマホ有。次のページへ。
13時 仕事再開。
14時 着ぐるみが笑いだす。
15時 同僚が光った。
16時 メロン。
17時 終業のチャイム。
このあたりは一時間ごとに、事件があったので、語るには紙面と気力が足りない。最終的に受付に置かれていただるまがメロンに置き換わったことだけ押さえておけば、あとのことは知らなくても実質問題はない。
そこで、思い出す。
このとき俺のスマホのフラッシュ機能を用いて、同僚が光ったのだった。彼に埋め込まれたスマホは、まだ返してもらっていなかった。
先輩は代替えパーツを作っておくと言っていたが、明日は休暇である。休み明けには帰ってくるだろう。
スマホ無し。
その次のページに、一応、午前1時スマホ無しと書いてから、ノートを閉じる。
俺は立ちあがると台所で水を飲んだ。喉が潤い、少し落ち着く。
横を見ると、幽霊の少女がシャドーボクシングをしていた。こいつはすでに死んでいるか暑さと無縁なのだろう。うらやましいことだが、仲間にはなりたくない。
幽霊は、俺に気づくと、恥ずかしそうにラジオ体操を始めた。無視して寝床に戻る。
布団の上にあぐらをかく。眠気も冷めた。
換気について考えねば。
あとでドアは治さねばならないが、労力がかかるので面倒である。窓の向こうはまだ煙の影が見えるので開けられない。と、なると、室内の空気を外に逃がす方法は残りひとつしかない。
二度手間だが、再び台所に戻り、換気扇を回す。何もしないよりはましだろう。
幽霊は空に向かってキックをしていた。白いワンピースの中身が見えた。俺は寝床に戻る。
水を飲みながら、大家さんの火遊びが終わるのを待つ。
暇だから読書でもしようか。本棚に目を向けると、阿部公房の『箱男』が目に入った。久しぶりに読み返すか。
この小説は、章ごとに時系列や視点の主が変わる小説である。ゆえに、読了後、各章が物語のどこに位置するのかを考察する必要がある。
俺はいまだにこの小説を読み解けていない。一応答えはあるようなのだが、納得できる順序に各章を並び替えることに成功していないのだ。
大筋の話としては、段ボール箱を被って体を隠し、世間から隠れている男の話。ぺらり、ぺらりとめくるうちに当時読んだときの記憶がよみがえる。
そうだ、あれは夏の暑い日のことであった。いや。夏は大抵暑い。まあ語ることなどない。ゴロゴロ寝転がりながら読んでいた以上の思い出などないのだ。まったく無意味な大学時代であった。
あのときのモラトリアムに意味はあったのだろうか。生きる意味を見出すことに意味はあるのだろうか。意味のない人生は無意味だろうか。
スイッチが入り、普段抱える鬱屈した感情が騒ぎ出す。頭を振るい、手元のコップに残った水を飲み込む。
小説を閉じ、膝を抱える。悩んでいる時間は生産性がない。思考することは精神的な発達をむしろ阻害している気がしてならない。高度な思考など歴史を生きた哲学者がすでに解決済みだろうし、時間をかけて悩むよりは、せめて先人の書にならうほうが有意義である。それでも非効率な自己解決の沼は居心地がよく、浸かってしまう。
なんとなく、さきほど書き捨てたノートを拾い上げる。
読み返すと、不思議な気分である。自分の行動が文字情報だとまるで他人事だ。
力なく指で保持していると、古いノートだから背のテープが脆くなっていたのだろう。パラパラと、ページが冊子から抜け落ちる。
落書きが落ち、計算式が落ち、買い物メモが落ち、そして今日の日記が1枚1枚落ちていく。
床に落ちた紙をぼうと見る。このページを違う順番で繋ぎ合わせてみると違う世界でも見えてこないだろうか。
例えば歴史の流れなんて実は連続したものではなく、単時点的なものなのかもしれない。
いまの俺と1秒後の俺はそれぞれ別個な存在であるという考えである。
1秒後の俺は、血流の流れ、汗の流出、ほか代謝などが1秒分進んでいるはずだ。
だが、これは時間の流れによるものだろうか。
いまの俺は瞬間消滅して、同じ地点に1秒分肉体が変化した俺が誕生しただけではないか。
1秒後の俺は1秒前の俺の記憶をもって誕生する。ゆえに知覚としても矛盾は生じない。それぞれは瞬時にこの世界に誕生した別々のものであり、過去の俺は消滅していたとしても矛盾はないのだ。
そうなると、1秒後の俺が1秒前の俺になっても問題ないはずである。
もっとわかりやすく、点と線で考える。一直線上に、買い物をしている俺の点と、家で本を読んでいる俺の点を打ったとしよう。
でもこの点を互いに交換したとしても変わりはないのだ。買い物をしたあとに本を読んでいても、本を読んだ後に買い物をしても、それぞれの存在に前後関係があれば、たとえいつ起こったとしてもいいのだ。
ノートのページを眺める。
例えばこれはどうだろう。会社で同僚が光ったあとに、先輩がポッキーを口に入れた。そのあと突然俺が駅前で自販機のお茶を買っていたとしても問題はない。自販機でお茶を買っている俺には、同僚が光っている記憶も、先輩がポッキーを口に入れてきた記憶もないし、肉体はその時間分昔のものである。実はその点の位置が違ったとしても矛盾はないのだ。
「…………」
使えない考えである。
だって、スマホがあったページを、スマホが無いページのあとに置いても、俺の手元にスマホが出現することはないのだから。
たとえこの理論が正しくても、それを証明して利用することができない以上、無意味なのだ。
水を飲みきり、立ち上がる。そとがいつのまにか明るくなっていた。
窓を開けると、もう煙はなく、地面には焦げ跡のみが残っている。早朝の気持ちのいい空気を肺に取り込んだ。
次の瞬間には、大学時代の無気力な俺が出現しているのかもしれない。
だが、知覚できる俺は爽快な朝を味あう俺なのだ。
ならば、いままで通り、時間は前に進むと考えていい。
「あ。おはようございます」
横を向くと、ぐるぐるさんが、気持ちよそうな顔を窓の外に突き出していた。下着姿である。首から下を見ては悪いと思い、視線を上げると、彼女の童顔が健康的に光る。
平静を装って挨拶を返す。
「おはようございます、ぐるぐるさん。日曜日なのにお早いんですね」
「ええ、健康優良児ですから。毎朝この時間には起きて、外の光を浴びているんですよ。近所のラジオ体操集会にも参加してますし」
「すごいですね」
根暗な俺にはできない行為だ。ぐるぐるさんの無邪気な顔は、思春期まえの悩みなどない純粋な子どもの笑顔にみえた。
……はて。ぐるぐるさんの容姿はこんなに幼かっただろうか。先日カレーを食べにきたときは、20代後半くらいに感じたのだが。
「そうだ、加藤さんも一緒にいきませんか?ラジオ体操」
「え?日曜日にも放送してました?」
「ラジカセとテープを使えばいいんですよ。集会は毎日あります」
ああ、そうか。そういう手を使えば、点を動かすことができるのか。人間はすでに一部分では時間移動の技術を完成させているではないか。
それにしても、彼女はこの街に馴染んでいる。ほんとうに裏の世界?とからやってきているのだろうか。
「じゃあ、準備をしておいてください。私もジャージに着替えますから」
「え、はい。あ、そうだ。あとでドアを開けるの手伝ってくれませんか?」
数分後、ぐるぐるさんがドアのまえの段ボールをどかしてくれたおかげで、俺は密室から脱出できた。
俺を封印していた荷物の中身は、先輩がスマホの送ってくれた代わりの携帯電話であった。
いわゆる、肩掛け型のショルダーホンである。重いはずである。俺を殺しかけるとは、たいした冗談である。
それにしても、先輩は速達でも使ったのだろうか。スマホが壊れて、たったの数時間でこれを送るとは。
もしかしたら、未来を視たあのひとは、先回りしてこれを送ってきたのかもしれない。
なんて、な。
ラジオ体操で流す気持ちのいい汗は、精神を浄化してくれた。ぐるぐるさんは、ペットボトルのお茶をおごってくれた。
熱に浮かされたような話を書いた自覚だけはあります。