瞼をはさんで
まさか一か月後に更新できるとは……。
高校生のときの話である。
ゴールデンウィークだというのに、なんの予定もなかった俺は、家でごろごろとしながら、暇を飽かしていた。本屋や図書館に行くことすら億劫で、父の書棚に飾られていた古い文庫本を寝転がりながらめくる。昔の文庫本というのはいまでは考えられないくらい、文字が細かい。さらに厚さはそれなりなのに、文庫本の裏に印刷されている定価表示は360円と安く、この時代は文量あたりのコスパが非常に良かったらしい。
しかし、しばらく読んでいると目が疲れてきて眠気が襲ってきた。ちょうど幻想的な描写を読んでいたので、夢の前走に現れた映像は、創造力で歪に構成された絵画であった。色とりどりな絵の具でべたりと塗られた絵は、抽象的な表現が内包されているのだろうが、読みとれない。本の作者と俺の合作は、もはや創造者も含めたどこの誰にも入り込めない自己不満足作品となっていた。
絵画は一枚だけでは終わらず、ほどなくして二枚目が現れた。奥を覗くと、この先の廊下の壁には、一定間隔で絵が飾られている。個展に紛れ込んだらしい。それも俺の個展。せっかくなので、絵画のいくつかを観覧してみる。
ゆったりと浸るように歩くつもりだったのだが、数枚の絵を見たところで、恥ずかしくなり、早足に廊下を歩くようになった。理由は、ほとんどの絵が同じような構図と同じような配色、絵柄であったからである。これは俺の想像の世界。つまり、創造の限界地点。駄作をいくつも複製した絵たちは、俺の発想の貧弱さを知らしめてきたのだ。
常々、自分の世界は狭いと思っていたが、夢という深層の集大成の作品でこれなら、普段表層でアウトプットしている部分なんておからにもならないだろう。ちょうど受験のために小論文を作成していたのだが、急激に自信がなくなる。孤独な日記などではなく、人に読まれ、なおかつ採点されるのである。くだらないものを出して、溜息をつかれる様子を考えたら、身が縮こまってしまう。ここから出たら、早急に見直そう。
カツカツと廊下を歩いていたのだが、はて、いつのまに室内から抜け出したのか定かではないが頭上には太陽が浮かび、日が足元を照らしていた。
どこに視点があるのか、俺の顔が目を細めていた。まぶしいらしい。ゴールデンウィークとはこんなに日差しが強い季節だったろうか。疑問に抱くと、途端に空が雲がかり、照明が調整された。
ぐおおお、と吠える声がしたので振り向くと、檻に入ったライオンがいた。たてがみをつけた雄ライオンが大口を開けている。足元には、何らかの動物の肉塊が転がっており、食事中らしい。
獅子さんの隣の檻には、ゴリラがいた。さらに隣にはゾウ、シマウマ。キリン。
動物園にいるらしいのだが、なんとセンスのない、または現実離れした配置だろう。臆病と呼ばれるゴリラが猛獣であるライオンの隣にいるなど、ありえない。しかし、ライオンに対して、草食動物がゴリラをはさんでいるのは、さすがの躊躇だろうか。
人生のなかで動物園に行った回数が少ないので、ほかにどんな動物を挟めば正常な園内になるのかわからない。そのため、違和感を感じたことによる修正は、非常に雑で、ライオンの隣に新たに割り込んで生まれた檻には、黒いシルエットの謎の生物が鎮座した。まったく機転のきかないものである。
疲れてはいないのだが座りたいなと、ふと思った瞬間、ベンチに座って幼女と話していた。
「知っていますか?パンダのしっぽは白色なのですよ。イラストとかでは黒いことが多いですけど」
「なんで俺の知らないことを知っているのですか」
「いえ、知っていますよ。あなたは知っている。しかし忘れていたのです。夢の中で思いだしたのですよ」
幼女の顔にはもやがかかっていたが、その存在は疑いようもなく知っている人物だという確信があった。この娘も忘れているせいで、もやがかっているだけなのだろう。
幼女はまるでずっとそこにいたかのように、自然に会話を続ける。
「しかし動物園だというのに、パンダを置かないとは何事ですか。条約なんて些細なつじつまは合わせましょうよ。ここは夢ですよ」
彼女は、ここが夢だとわかっているらしい。むしろ俺よりここに詳しいようだった。
「夢というのは、さまざまありますね、明晰夢、予知夢、白昼夢。しかしそれらすべてはあなたのなかから生まれた産物。所詮は小さな箱庭世界なのです。それなのに、現実に縛られて、まったく面白みのないひとですね、あなたは。それだからひとに好かれないのですよ」
見透かしたような態度が鼻につくが、この幼女の論に従うのならば、彼女の存在すらも俺が生み出したもの。文句を言うのは筋違いだろう。
彼女のモデルがどこで会った誰なのかは思いだせなかった。実在の知り合いから借り受けた姿なのか、あるいは要素を組み合わせて、いちから誕生させた、完全オリジナルな架空の存在であるのか。
前者であれば、幼稚園時の友だちである可能性が高い。あの年齢のときの知り合いはもはや忘却の彼方である。記憶の残滓として出てきたとしても名前は出ないだろう。後者となればもはやモデルは特定不能である。
幼女はちっちっと指を振った。
「ナンセンスですね。過去にあった事象のなかから私を探そうなど。もしかしたら、未来に会う人物かもしれません」
思考を盗聴された。いや、この世界では、俺の脳内は共有財産がごとく、閲覧可能なのか。プライバシーの侵害である。
しかし、この幼女が未来で会う存在だということはあり得るのだろうか。夢とは過去の体験や記憶から作られるものであって、予知夢など文字通り夢物語ではないか。
幼女はしたり顔で解説する。なお、前述した通り、貌にはモザイクがかかっている。
「あなたのなかから生まれたとしても、それが未来のこともありえますよ。夢のなかでは視覚情報が遮断されるので、より深い思考をすることができるのです。五感のなかで、視覚の情報量は八割近いですからね。それら余計なものを除くと訪れるのが、深い深い思考の時間です。あらゆる情報、事柄を結び付け世界を構築する。そして可能となるのが、未来の予測なのです」
未来予想図ということか。なるほどある程度は理にかなっている。
「不確定性原理がある以上、理には適っていないのですがね。しかし知識がなければ、それに則った世界は存在できません。あなたが不確定性原理を知るまでは、常に予知夢をみることは可能なのですよ」
急に俺の知らない言葉を使いだす幼女。彼女は「想像主」以上に頭がよいらしい。
「夢は、観測していないところを想像し、補完します。理論が成立しないうちの宇宙は自由なのです。例を挙げれば、スピリチュアルな方々は、現実を見ていないからこそ神秘に触れられるのですよ。一生覚めない夢とともに生きるのも面白いかもしれませんね」
俺はほおをかく。思春期も後半になると、現実を見る必要を次第に感じ始める。社会は多くの現実をもって成立していることを理解してくるのである。俺だけが夢のなかで過ごすというのも、ほかの真面目なひとに悪い話だ。
そんなことを考えていると、幼女は目を丸くして、驚いた。
「あなたにそんな考えの時期があったとは驚きました。少年が純粋とは限らないものなのですが、まさかあなたまでも真面目な頃があったとは」
散々なことを言われ、未来の自分の人格が不安になる。将来、俺はそんなに不真面目な人間になっているのだろうか。
幼女は、コホンと咳をする。
「つまり、あくまで現時点においての話ですが、あなたの夢は、時間線のすべてに存在する光景なのです。どうですか?なにか、あなたの知りたい未来のことなどはありますか?せっかくなので見てみましょうよ」
俺はしばし考える。未来について知りたいこと、か。意外と思いつかない。
「あ、投資で上がる株を教えてくれとかはだめですよ。あなたはそれに関する知識がないので予測することはできません。データ不足の未来は予測できないのです。同じように地震の予知なども専門知識のある地質学者でないので不可能です」
制限の多いことだ。金儲けには利用できなさそうである。
だったらもう今晩の晩御飯とかくらいしか……。
「カレーライスです」
なるほど。カレーライスか。即答であった。有能な幼女である。
「あと二回しか答えられませんよ。あなたは、願いは三回までと相場を決めているようです。固定観念とは悲しいものですね」
なんの漫画からインスピレーションを受けた概念かは、丸わかりである。ボールを集めるヤツであろう。
さて、その話題から、自然と数珠繋ぎで漫画カテゴリに意識が向く。最近連載している少年漫画の続きなどは知れるのだろうか。
「ああ、それならいけますよ。あなたは熱心な読者ですので、先の展開の予測は可能です。では、12巻収録予定エピソードの続きから」
幼女は語りだす。それは山あり谷あり、つぼに刺さりのわくわくな物語であったが、途中でしまったと気づく。
毎週楽しみにしている漫画の先の展開を知ってしまったら、これからなにを糧に生きていけばよいのだ。失策であった。まずい止めてくれ。
俺の制止に口を尖らせる幼女。
「ここからが面白いんですけど。あのキャラが死にます」
死ぬの?
12巻まで死者ゼロのギャグ漫画なのだが。
もやもやしながら、腕を組む。誰が死ぬのだろう。そこだけ聞きなおそうか。……いや、やめておこう。ほかの読者と一緒に楽しみたい。
迂闊な質問はできない。案外、未来予知とは難しいものである。
アレもダメ、コレもダメとくると、あとはもう乙女チックな質問しか思いつかなかった。そう、思春期の純粋な少年による定番な質問である。
結婚相手は誰なのか。
頭に思い浮かべていたのは、クラスのあの子である。興味のないふりをして目で追ってしまう、あの子……。もしあの子と結婚できる未来があるとしたら、それが夢であっても……。
俺の考えを読める幼女は、クス、と意地悪く笑った。
「いえいえ、馬鹿にしているわけではありません。本当に可愛いですね。……私だと言ったらどうします?」
言葉に詰まる。じっくりと幼女の顔をのぞく。
それは……どいうことだ。
深層心理で、俺はペドフェリアだというのか?恋をしているのは同い年の同級生であるし、基本的にタイプは、年上の女性のはずなのだが、未来で嗜好が変わるのだろうか。
訝しんでいると、幼女は立ち上がって、背を向けた。
「ま、この私が未来の姿とは限らないのですけどね。私の過去の姿を見せているのかもしれません」
去ろうとする幼女。そういえば、まだ聞いていないことがあった。君の、名前はなんというのだ?未来で会うという、君は結局、誰だったんだ?
幼女は、振り返り、いじらしく笑った。
モザイクは晴れていたような……気がした。
「〇〇〇〇ちゃんです。さあ、あなたは小児愛好者なのか、それとも成長した私のお婿さんになるのか。夢から覚めたら、答え合わせをしましょう。それでは」
また会いましょう。
暗転。
「いっつ……」
ベッドから落ちていた。痛む頭を押さえながら、ともに落下したらしい時計を見る。いつのまにやら、夕食の時間である。
夢の内容は、焼きそばを食べて、テレビでやっていた混雑ニュースを聞いているあいだにほとんど忘れていた。朧げな光景など、おから程度にしか残らないのだ。
「はあ、不思議な夢ですねえ」
「ええ、急に思いだしまして」
もぐもぐとカレーを頬張るぐるぐるさんに、水を出す。ぐるぐるさんは、作りすぎたというカレーを差し入れに持ってきたのだが、そのまま俺の部屋に居座り、ライスを要求してきた。
ちょうど、特A米を炊いたところであったので、深皿にもって差し出すと子どものように喜んでくれた。
「おいしいですねえ。このお米。品種はなんですか?」
俺もカレーをつぎ、腰を下ろす。
「ゆめぴりかです」
あのときの夕食は結局、カレーライスではなく、焼きそばであった。
未来予知なんて、眉唾ものだという、そういう話である。
寝ましょう。