Sakuran
久しぶりの更新。
パソコンをカタカタと打っていると、コトンと固い音がした。視線を画面から移動させると、机の上に湯気のたつコップが置かれていた。
羅列された数字の世界からしばらく抜け出せずに、指を止めてぼんやりコップのなかを覗いていると、今度は、頭の上に重みがかかった。
ふんわりとした温かみの籠った、毛糸の両腕。春の香りが鼻腔に届く。俺はようやく現実に引っ張り出された。
「がんばるねえ、新入りくん」
「……おつかれさまです、竹柳先輩」
「いまは主任だよ」
首を動かすと、巨山の向こうに、目を細めて、笑みを浮かべる女性がいた。春のうららを身にまとう彼女は、俺の上司である。どうやら根詰めていたところへ、コーヒーの差し入れをしてくれたらしい。俺はコップを持つと、一口黒い液体を含んだ。
「うぐっ!」
舌が、形容しがたい味覚を拒絶した。口の端から、みっともなく零れる数筋の液体。頭上のセーターを考慮して、なんとか口の中の残りを、吐き出さずに飲み込む。苦み、甘み、塩味、酸味、旨み、どれとも違う。五味に該当しない不思議な味わいは、解析不能であった。
改めてコップの中身をのぞき込むと、色が正確には黒色ではない。わずかに、銀の光沢がかかっている。飲み物としては初めて見る配色である。
「なんですか、これ?」
一応聞いてみるが、まともな回答は期待していなかった。このようなとき、竹柳先輩は求めるものを提供してくれないのだ。
案の定、彼女は茶髪を指にくるくるとからめると、さあ?とだけしか言わなかった。大方研究中の品を俺に試したのだろう。竹柳先輩は、たまに治験を通していないものまで出してくるので、胃の中の液体が体調にどのような変化を及ぼすのかはあとのお楽しみである。
時計をみると、すでに終業時間であった。ノー残業を推進している職場であるので、そろそろ仕事を修めなければならない。周りのデスクはすでに片付いており、いつのまにか取り残されていたらしい。
竹柳先輩は、頭からどくと、今度はぽん、と肩に手を当ててきた。
「さあ、さっさと帰り支度をしたまえ。家に帰るまでが業務命令だ」
「はい」
逆らえない命令をまえに、俺は素直にパソコンを閉じた。
あの日、ぐるぐるさんが隣の部屋に引っ越してきて、日常に変化が訪れた。
なんてことはなかった。
結局のところ、俺には大学を中退するほどの度胸はなかったのだ。そのままずるずると残りの単位を拾い、論文に四苦八苦して、院に進むこともなく卒業した。
大学生活を最も自由な時間であったと語る人もいるが、俺にとっての四年間は、まるで虚空のなかだった。なにを成し遂げたわけもなく、流されるままに、しかしどこを漂っているのかもわからず、ただ生きていた。いや、今考えれば、生きていたのかも定かではない。生を感じる活動をしていないのなら、それは死んでいたのと同じだろう。
卒業後は行く当てもなかったので、さあてどうしたものかと無職生活について考えを巡らしていたのだが、いつの世にも物好きというのはいるもので、変わり者の竹柳先輩は、足元に落ちていた屍を拾いあげて、ぽーいと社会に放り込んだ。
在学中ほとんどかかわりのなかった竹柳先輩が、俺になんの使い道を見出したのかは理解不能であるが、与えられたものに文句をいうひねくれものでもないので、喜んで働いている。生かしてもらえるというのなら、飯を食う。それだけである。
竹柳先輩はカバンを持って、俺を待っていた。定時退社が習慣の彼女にしては珍しい。いっぱしの社会人らしく飲みにでも誘われるのだろうか。
「おまたせしました」
「うん、じゃあ行こうか」
先輩は、俺を率いて会社を出る。夜道を照らす月明かりは、連なる二つの影を作った。
「どうだい?仕事にはなれたかい?」
定番の質問を投げかける竹柳先輩。だが、俺は非凡にしか答えられなかった。
「そろそろ自分がなんの仕事をやっているのかくらいは知りたいです」
「ふむ、そうかい」
バカげた話ではあるのだが、俺は自分のしたなにによって給与を貰っているのかを把握していない。
就職した俺は、竹柳先輩の研究班に迎え入れられた。そこで与えられた仕事は、意味のわからぬ内容のものだった。具体的には、数列のなかに規則性をみつけ、それを文章化する作業である。いくつかこなしてきたが、これがいったいどのような過程で商業的な利益をあげているのかは、見当もつかない。しかし事実給与は毎月振り込まれており、謎は深まるばかりである。
竹柳先輩は、俺の不満そうな様子を伺いつつも、取り合うつもりはないようだった。
「だが、それは今更の疑問だろう?君は、うちの会社の名前すら知らないじゃないか」
「それはそうですけど……」
これまたなぜ俺が会社の名前を言えないかというと、入社時、職員によって暗示をかけられているからである。看板や書類など、社名をみるとモザイクがかかって目に映ってしまう。機密保持のためらしい。
「でも気味が悪いので、いい加減解いてくれませんか?」
「それは無理だな。君が考えている以上に、上が抱える闇は深い」
「…………」
冗談か本気かとれない口調で言われ、追及ができなくなってしまう。俺は口をすぼめ、とぼとぼと、先輩の後ろについていく。彼女はどこかを目指しているようなのだが、方向は繁華街を外れている。店を探しているわけではないらしい。こんな亡者を率いて黄泉の国へでも連れて行ってくれるのだろうか。
そのとき、鼻の頭に桃色の小片が浮かんだ。指でつまむと桜の花びらであった。桜並木の入り口に入ったらしい。月とわずかな街頭のあかりが、薄紅色の灯篭を創り出している。
「綺麗ですね」
幻想的な光景へ、素直に感嘆する。普段、白い壁に囲まれてパソコンの前に座るだけの味気ない生活を送っていたので、美しさはこれ以上ない刺激となって脳に届いた。華やかな一本道のこの先が、もし黄泉の世界に続いていたとしても、俺は誘われるままに歩いていくだろう。
「夜桜も粋なものだろう?」
竹柳先輩が振り返る。そのとき、一閃の風が吹き、彼女は鮮やかな桜吹雪を背負った。
横に並び、ふたりで歩く。花の香りはかぐわしく、その麻薬的効果か、意識がトリップした感覚に陥っていた。竹柳先輩の横顔も、職場ですれ違うときより、特別なものに感じ、魅力に包まれていた。
白い肌に囲まれた、艶やかな唇が揺れ動く。
「ゴッドガン、という小説を知っているかい?」
「いえ、不勉強ながら……。竹柳先輩のことですから、SFですか?」
「ああ、私の好みをわかっているね。バリントン・J・ベイリーの短編小説だ。ある男が、神を殺そうとする話でね」
「はあ……神、ですか?なんだかファンタジーっぽい話ですね」
「まあそうかもしれないな。ところで、君は神の存在を信じるかい?なに宗教勧誘の文言ではない。これからする雑談の導入だ。思うままに答えてくれ」
「常に頼っていないだけで、いるんじゃないかな、くらいには信じていますよ。正月には初詣もしますし」
日本人は無神論者だとよく言うが、その一方で慣習化した宗教的な行事には、なんの疑問も抱かない。普段それほど気にしていないわりに、それらをないがしろにするのはバチが当たると考えてしまう。
「ふむ、一般的だな。模範的ともいえる。そういう受け答えをできるから、私は君が好きなんだ」
おそらく、侮辱されている。だが、反論する気にはならなかった。個の無さは挽回しようがない。いままでそうやって生きてきたのだ。もう手遅れである。
「さて、ではここで神は実在するという前提で話を進めていこう。さきほど言ったゴッドガンでは、創造神がこの世界の人間たちを見下ろしているというのなら、逆にこちらから神を観測する交通路もあるはずだ、という考えがでてくる」
「はあ」
「男は、この交通路に沿って創造神へ放銃した。理論上、これで神は打ち抜かれ、死に至る」
筋が通っていそうで、通っていない。一方通行の現象なんてそこら中に溢れている。詭弁のような理論であった。しかしフィクションにとやかくいうものではない。
「まあ、その小説の理論では、ですけど」
「その通りだな。特に日本では勝手が違うだろう。ゴッドガンでは、全人類を監視している神がいるという設定であったが、八百万の神の存在するこの国では、銃を放ったところで、絶対の神がいないのだから、誰に当たるかわかったものではない」
先輩は、あくまでフィクションを現実に落とし込むという点では譲らないようだった。俺話を合わせる。
「たしかにそうでしょうね。神社もそこら中にありますし……。そういえば神社でお参りするときは、ちゃんと自分の住所とかも言わないと願いをかなえてくれないそうですね。たくさんの参拝客がいるから、神様でさえ、ひとりひとりに構うことなんてできないって聞いたことがあります」
ピタリと足を止める先輩。俺も歩を止める。
並木の果てには、神社があった。竹柳先輩は、突然に手を振るう。直後、チャリンという音があたりに響く。賽銭を投げ入れたらしい。彼女は、手を合わせると、社へ礼をした。
しばしの静寂ののち、先輩は顔をあげる。
「道ができたようだが?」
「…………なにをしようとしているんですか」
遅い時間で疲れていたのだろう。このとき、彼女の姿は不気味に妖しく映った。まるでひとの道を踏み外し、理から抜け出したかのような……。
あとで調べたのだが、この夜訪れた神社は、花見の名所であって、昼間は参拝客のあふれる賑やかな神社だったらしい。定期的に手入れをされ、何十年かに一回は改装工事も行われるほど大事にされていた。
だが、この一月後、神社はなくなった。嵐の日、原型をとどめないほど倒壊してしまったのである。耐久性からして、そんなことはあり得ないはずであったのに。
地域住民は、いままでの信仰が嘘だったかのように、それを受け入れ、土地を更地にした。桜も伐採されたらしい。
まだ聞けていないが、先輩は神になにをしたのだろう。
次は何年後でしょうか。