彼女が瞳を閉じたのは、瞬きのためだけだったのだろうか。
額に浮かぶ汗、乱れた髪。
カーテン越しに届く遅い朝の光。
彼女の栗色の毛先は、思い思いの方向を見ながらも艶やかな光沢を放っていた。
俺はのそりと身体を起こした。
昨晩も飲みすぎたせいで、風呂あがりからの記憶がない。
2つ分も掛け違っている寝巻きのボタン。
どうにかして布団にたどり着き、だらしなく四肢を投げ出したことを物語っていた。
クーラーのタイマーはすでに切れていた。
清冽だった朝日が空を駆け上がるにつれ、うなぎが登るように不快感が増す。
まな板に乗せられた艶光する漆黒の長躯がのたうつが如く。
幾度とは知れぬ寝返りをうった後、俺はむくりと起き上がった。
彼女は傍で眠っていた。
いつから俺の傍にいたのか、分からない。
うなぎの寝返りが勢いあまって真綿のまな板の端をはみ出した時。
柔らかな尻の感触を、つま先に感じた。
ふくよかで奥ゆかしきその感触は、上昇し続ける密室の不快さを十二分に和らげ、安らぎすら与えてくれた。
彼女にとっては、ただ不快が増しただけだろうが。
俺が起き上がるのとほぼ同時に、彼女もすっくと上半身を起こした。
子猫が毛づくろいをするかのように、寝ぼけ眼を小さな両手でこする姿。
ショートの柔らな髪。
陽光の輝きを受けながらも、それぞれが意思を持つかのように毛先は気ままな方向に向いていた。
彼女がこちらを見た。
おはよう……を伝える瞳は、そこにはなかった。
そればかりか、許されない罪を犯した者に対するような、冷たく厳しい目付きが俺に向けられていた。
なぜ?
何があった?
一日の始まりから氷の刃を突き付けられた俺の心は、室温に反比例して冷え固まってゆく。
寝起きのためか、ほとんどアタマが回転しない。
答えの出ない思考の渦からスピンアウトした視線が畳をさまよった時だった。
カーテンの向こう側に、いつもより大きめの鳴き声が響いた。
ベランダに2羽のスズメのシルエットが浮かぶ。
手すりを軽やかにステップする小さな来訪者に目を向けた彼女。
その表情は穏やかさと、柔らかさを湛えていた。
彼女はフキゲンではなかったのだ。
もしかすると……俺には、思うところがあった。
ベランダで小さな舞踏会を終えた2羽は、忙しく飛び立った。
彼女は小さく息を吐いて、再び俺に向き直る。
次の瞬間。
渾身の俺の表情を見た彼女の両頬に、ふわりと紅がさした。
そして、弾けるように笑顔が花開いた。
彼女は俺を鏡のように映していたのだ。
俺は、彼女がこちらに振り向く瞬間を狙い、強引に笑顔を作りあげたのだ。
顔面の筋肉を引きつらせて目尻を下げ、無理やりに口角を上げて。
傍から見ればその笑顔は道化そのものであり、作られたものであった。
そんな笑顔に、一体何の意味があるというのだ。
いや、違うのだ。
作られた笑顔、それ自体に意味はない。
問題だったのは、笑顔の前に見せていた俺の表情。
無意識だったのだが、睨み付けるように険しく鋭い目付き。
寝起きとはいえ、すべてを拒絶するかのような顔を、彼女に向けていたのだ。
彼女は、俺を鏡のように映していた。
険しき顔には冷たき瞳を。
笑う顔には温かな瞳を。
決して中身の伴わないスマイルだったかも知れない。
けれども、強いて、それが必要な時もある。
彼女は即座に俺のココロを映し取り、この世で最も美しい笑顔で応えてくれた。
頬の紅みはさらに深まり、瞳の彩りは益々しっとりと豊かになってゆく。
俺の視線に耐え切れなくなったのだろうか。
彼女は、すすっと壁際の本棚へと顔を向けた。
そして、音もなく俺の元を離れようとした。
俺はその左手をつかみ、ぐいと強引に引き寄せた。
倒れ込んできた彼女の身体。
か細い肩を、俺は両手でがっしりとつかんだ。
抱きかかえられた俺の胸の内側から驚きとともに見上げるつぶらな両の瞳。
ブラウンがかった澄み切った瞳の光が俺の魂の奥底まで突き抜ける。
彼女が瞳を閉じたのは、瞬きのためだけだったのだろうか。
世界が静かに時を止めた。
俺は静かに、最愛の頬に、そっと唇を寄せた。
その直後、予想を上回る強い力で俺の両腕が振りほどかれた。
彼女の瞳は、先ほど以上の不快を浮かべている。
いや、これはもう、ケーベツの領域だ。
「いやぁママァ~、パパがチューしてきたぁ~」
まもなく4歳を迎える愛娘は、一切振り向きもせず、バタバタと寝室を走り出ていった。