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戦争の回避

さて、会話文が無い。

非常に見にくいかもしれません。

 1941年10月25日。同月22日に決まった日本政府としての方針を胸に、英国との交渉にあたるべく外務大臣の吉田茂に加え、吉田に並ぶ英国通である白洲次郎も加わった交渉団は台湾、海南島視察の名目で輸送機に乗り込み、一路シンガポールを目指して旅路についた。台湾を経由し海南島まで飛んだ一行は、そこで待機していた英軍輸送機に乗り換えシンガポールまで飛ぶ事となる。また、吉田ら交渉団を乗せてきた輸送機は急遽用意された影武者を乗せて帰国するといった手の込みようであった。


 翌日、シンガポールに到着した交渉団は早速シンガポール総督府にて英国側の代表との会談に入る。なおこの会談は完全非公開で行われ、アメリカ、ドイツは疎か、当時のスパイ先進国であるソ連ですらその事実を掴むのに時間を要したと言う防諜の徹底ぶりであった。日本政府はもとより英国側でもこの会議を知っている者は両国上層部の中でも極一部に限られた。それ程までに日英両国はこの会談を重視していた事が伺える。その為、この情報がコミンテルンが張り巡らせたスパイ網にも掛かることは無かった。と言うのも新内閣発足と同時に行われた調査により前内閣(第3次近衛内閣)のブレーンにソ連の息がかかったスパイがいた、という事実が判明していたのだ。その人物が誰か、までは特定できてはいなかったが、慌てた上層部が防諜体制を強化する大きな根拠となったのは確かである。


 そしてこの日は8時間にも及ぶ会議が行われたが、流石に第一回目との事もあり交渉成立とはいかなかったが、それでも会議の合間に日英両国の歩み寄りの姿勢を垣間見ることができた。日本側は初めに南部仏印からの撤退を条件に対日禁輸の解除を提案する。それに対し英国側の要求は北部も含め仏印からの全面撤退、国民党との停戦、三国同盟の破棄、もしくは欧州における対独戦への参加などであった。会議は当初、両者の意見の食い違いにより平行線を辿る事となる。しかし吉田率いる日本交渉団は会議の終わり際に仏印からの全面撤退を北部まで拡大する事、国民党との停戦交渉を始める事の二つの案を提案する。もちろん事前に決まっていたことだが、あくまでも日本側が譲歩したと言う形を取っての提案とした。英国側はこれに反応し、今までの原則論に終始する姿勢を崩した。両国の交渉団は本国との協議の上再交渉という形で落とし所を見つけ、一応の決着点を見る事となる。


 交渉団は会議終了後に行われた晩餐会等もそこそこに秘密裏に帰国、すぐさま第二回統合戦略会議が開催された。議題はもちろん英国との交渉の方向性についてである。ここではあと一押しとみられる英国に対し、どの様な案を持ちかけ、籠絡させるかが話し合われた。


 そして11月11日、2週間を開けて二回目の日英交渉が行われる事となった。今回からは禁輸政策解除に向けての具体的な条件の交渉が始まり、南北仏印からの撤退については双方の合意に至ることができた。その対価としてイギリスは禁輸対象の緩和を行うことを確約する。さらには次回の交渉会議には蘭印の統治代表者も交えて行うことが決定された。オランダとの交渉が成功裏に終われば、現在禁輸政策が敷かれているアメリカに変わる新たな石油輸入先として蘭印一帯の油田地帯が使える。これは日本として、特に石油の輸入先としてアメリカが大部分を占めていた海軍にとって、非常にありがたいものであった。


 そして第三回統合戦略会議を経て3度目の交渉に臨んだ運命の12月8日。日英蘭三ヶ国で行われた交渉の末、日本の南北仏印からの撤退と今大戦における中立、国民党との停戦交渉の開始、最終的には満洲国を除く支那大陸から撤退するという条件を持って禁輸政策を解除するとの合意を得る。これらの内容は直ちに全世界へ公表され、大きな波紋を呼ぶことになった。特に衝撃を受けたのはアメリカ、ドイツである。アメリカからすればイギリス、ドイツから見れば日本の抜け駆け行為であった。もっとも、国際外交の世界に抜け駆けも何もない。上手く立ち回った者のみが勝者となる、正に弱肉強食の世界。文句は言えないのだ。


 話を戻そう。イギリス、オランダとの交渉に成功した日本は次なる目標、アメリカとの対話に向かう事となる。

 第一回目の日米交渉は英国の仲介を受け、日米の中間点であるハワイ諸島のオアフ島で行われた。驚いたことにアメリカ代表は半年前に(・・・・)心臓病で亡くなった(・・・・・・・・・)フランクリン・D・ルーズベルトに代わって大統領へ就任していたハリー・S・トルーマン大統領であった。それに対し日本側も東久邇宮総理が直々に赴き、会談に望むことになった。


 事前の予想通り、アメリカとの交渉は難航する事となる。特に揉めた問題がやはりと言うか、満洲国の処遇についてであった。南北仏印と支那大陸に関してはすでに撤退が決まっているので特に問題は無く合意している。


 しかし日本側の粘り強い交渉の末、日独伊三国同盟の破棄と満洲国の政治的独立、日米相互不可侵条約の締結を条件にアメリカ側が折れた。そして遂には石油、くず鉄等の禁輸政策も解除されたのであった。


 ハワイに赴いた交渉団は更なる交渉を重ね、開発にアメリカ企業を他国よりも優遇するなどの条件を示し満洲国の成立を認めさせる。要するに一緒に満洲を開発しましょうというわけだ。何とも凄い手のひら返しだが両国とも利益が出るなら問題はない、と割り切っているようだ。また、これに乗じて赤字経営に悩まされていた朝鮮半島の独立も決定された。こちらは譲歩したと言うよりも面倒ごとをアメリカに押し付けたと形容したほうが良いかもしれない。実際、独立後の面倒見は日米が協力して当たる事になっていることからも分かるであろう。


 ちなみにこれらの交渉にあたっては、ドイツ第三帝国支配下で迫害されているユダヤ人の保護をする事でアメリカにあるユダヤ系企業などの後押しも取り付けることができたのも大きな要因であろう。また、先に話をつけていたイギリスは無論の事これを承認している。それに伴いカナダ、オーストラリアなどの英連邦諸国も承認。イギリスに身を寄せているドゴール将軍率いる自由フランスやオランダ亡命政府も承認する。さらには独ソ戦が激化する中、日本との緩衝国を欲していたソ連も承認することとなる。しかし日独伊三国同盟の破棄やユダヤ人の保護などで日独、日伊間の関係は悪化の一途を辿っており独伊両国は承認しなかった。ドイツの支配下にあるヴィシーフランスも然りである。


 この政策には国内からのかなりの反対があると予想されたが皇族である東久邇宮は事前に陛下の『御意志』を伺っており、それを告げることで反対派を黙らせた。当時の日本では表立って陛下の御意志に反対するなど以ての外であった為、特に暴動もなく収まることができた。また、この『御意志』は国民にも知らされたため、日露戦争時の日比谷焼き討ちの様な大規模な事件は起こらなかった。余談ではあるが、陸軍大臣に就任していた東条英機は立場が立場なため積極的に賛同はしていない。しかしその裏では陛下の御意志を尊重できた事を人一倍喜んでいたと言われている。


 また、この日米の和解の裏には英国の秘密工作が大きく関わっていた事が後日判明する。というのも、アメリカとの和解に先だって英国政府は様々な情報をFBIやアメリカ議会、各報道機関に流し、アメリカ世論を反日から反ソへと誘導していたのだ。この中には、米国共産党やコミンテルンが米国内で非合法的に行っていた活動についての情報も相当量含まれていた。それが後日、アメリカにおける反共ヒステリー、レッド・パージの引き金となるのだから、世の中、わからないものである。

 また、時を同じくして英国対外情報部MI6はソ連とアメリカを離間させる特殊工作にも秘密裏に着手している。こちらも数年後、欧州における大戦が終結する頃には実を結び、両国は新たなる大戦となる冷戦に突入していくのだが、それはまだ将来の話である。


 話を戻そう。


 英米との和睦に成功し、日本は南北仏印からの撤退を開始する。これは比較的スムーズに行われ、1942年1月中には完全撤退がなされている。だが、中華民国との和解はそう簡単にはいかなかった。と言うのも、前内閣の際に


『帝國政府は国民政府を対手とせず』


 との声明を出しており、蒋介石ら国民党との公式なチャンネルはなかったからだ。そう、公式では。ではどの様にして対話まで持っていったか。これは、またもや吉田茂を通じてのルートであった。吉田の外交官人生は満洲の安東領事館から始まっており、若かりし吉田はこの時に国民党や有力華僑などとの非公式なチャンネルを築いていた。そしてそれが今回使用され、国民党との連絡を取ることに成功している。さらに対話の場として英国が香港を提供してくれたのも大きい。日中どちらかで行えば、どちらかが負けている様に見えてしまうからだ。この英国の仲介のおかげで帝國政府はなんとか交渉を開始することができた。もっとも英国としては、蒋介石が満洲国の独立を認めれば、結果的に英国も20世紀末まで合法的に香港を租借できるというメリットがあるからだろう。なんとも抜け目のない。


 そして交渉が始まったのは良いが、中華民国側の要求として挙げられたのが、中国における全占領地域からの撤退、台湾の返還、満洲国の解体とその土地の返還であった。それに対して日本は占領地域からの撤退には応じるものの、台湾と満洲国については国民党側の要求を認めなかった。平行線を辿る両国。これに対し日本が新たな案を提案する。それは日本と停戦したことで再度勃発するであろう国共内戦に置いて、日本が人材育成や旧式装備の譲渡、各種物資の融通などの支援を国民党側へ行うという事だ。これには蒋介石もその利点を渋々ながらも認め、中華民国領域からの完全撤退と国民党への支援を条件になんとか和解へと持ち込むことができた。


 その後も日本は英米との関係を修復しつつも独伊を敵に回さないように努めることとなった。英国とは自動参戦条項など軍事面を除いた形で日英通商条約を暫定締結。すでに衣類、食料、医薬品等の各種取引を行い始めている。またそれとは別に各種技術の受け渡しも極秘に行われている。その一方で対ソ戦を進めるドイツには朝鮮半島で産出するタングステン鉱や蘭印から手に入れた天然ゴムを密かに輸出している。もちろん、その対価として各種技術をもらい受けている。このドイツとの取引は英国や米国の気分を害さないように表向きはコーヒーやスパイスなどの非戦略物資の輸出とし、鉱物のインゴットはバラストとして、天然ゴムは積荷の緩衝材という名義の元、輸送船に積み込まれていることになっている。そして輸送船が中立国ポルトガルへ到着するとすぐ様荷下ろしが行われ、バラストや緩衝材は全てがドイツ系企業へ売却されている。しかし輸出品目が消費量の少ないものなので輸出量は少なく、せいぜい月に2隻程度である。このカラクリには米国はともかく英国は気づいている節がある。しかし、わざわざ月2隻の輸送船のために極東に新たな敵を作るのは割に合わなかった。そのため、イギリスも苦渋ながらも見て見ぬ振りをしているのだろう。


 このほかにも南米や中東を中心に、今大戦における中立国との貿易を活発化させている。その取引内容は民生品に留まらず、武器等の輸出も行われている。特に活発なのが海防艦、駆潜艇などの小型艦艇の輸出であろう。これについては詳しく後述するが、これらの貿易が日中戦争による膨大な戦費で逼迫していた日本の財政を立て直すことに一役買っていたのは確かである。


 この様に日本はギリギリのところを立ち回りつつ、第一次世界大戦の時と同じように着々と国力を蓄えていくのであった。


何だかグダグダな話となってしまいました。

知識のある人から見れば突っ込みどころは多々あると思いますが、何卒ご了承下さい。

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