湖の亡霊
◆
その湖は昔から呪われていた。
恐ろしい亡霊がいつも人間たちを見つめていて、気に入った子どもが湖に近づいたならば、魅力的な歌声で誘い込み、そのまま湖底へと引きずり込んでしまうのだ。子どもを奪われた大人達は亡霊を恐れ、憎みつつも、成す術もなく、残った子どもたちに忠告するばかりであった。
「あの湖に近づいてはいけないよ。湖の亡霊に気に入られたら大変だ」
けれど、その村の幼子たちは男子も女子も変わらず、皆、冒険者であり探検者であったから、大人達の忠告をよそにこっそりと湖の近くまで遊びに行ってしまうのだった。
その少女もかつてはそうだった。
しかし、もう彼女は幼子ではない。
もうじき大人になるかという年齢。村に留まれば誰かと結ばれて静かに暮らしていたかもしれないけれど、少女は少女のまま、ある日、両親のもとをそっと抜け出して村から離れた森の奥深くに住んでいるという名も知らぬ魔女を訪ねて放浪した。
どのくらいの時間が経った頃だろうか。森には恐ろしい獣や魔物がいるはずなのに、その誰とも会うことなく、少女は魔女の隠れ住む家へと辿り着いた。
魔女は少女を拒まずに、老いた顔にしわを寄せながら目を細めた。
「おやまあ、ずいぶんと可愛らしいお客さんだこと。一体何の願いがあって、勝手に村を抜けだして、命を危険にさらしてまで、アタシに会いに来たんだろうね」
「お婆さん、あなたがもしも本当の魔女なのなら、どうか私に教えてください」
かつて大人たちに教えられた礼儀作法を思い出しながら、少女は魔女に向かってお辞儀をした。その丁寧なふるまいを見て、魔女は再び笑みをこぼした。今までこの家を訪ねてきたどの客よりも腰が低くて、年も若い。それに無邪気であったことが、微笑ましかったからだ。
しかし、そんな愛らしい少女の表情に影がある事に気付いて、魔女はおごそかな気持ちで訊ねた。
「何を知りたいんだい?」
すると、少女はすがるように魔女を見つめた。
「湖の亡霊についてです」
噛みつくような勢いの少女の姿に、魔女の表情もすぐに変わった。
湖の亡霊のことならば、魔女だってよく知っている。亡霊の美しい女の姿は魔女が若い時から変わらない。きっとこの世の誰もが生まれるより前から、そして、死んでしまった後になっても、亡霊はずっと変わらずに存在し続けるのだろう。
そして、付近の村の住人達が怨み続けるのも変わらないのだろう。何故なら、いつの時代だって子どもたちは冒険者のままで、どんなに大人達が抑え込んでいても湖に近づいてしまうのだから。
少女の顔を見て、魔女は悟った。
恨みを抱いている目だ。こんなにも幼さの残る姿をしているのに、少女の姿はその年齢以上の恨みを抱いているかのように濁ったものが宿っていた。
「どうかこの私に、湖の亡霊の滅ぼし方を教えてください。魔女のあなたならご存知だと風の噂に聞いております。対価は何でも渡します。たとえ私の命であろうと惜しむ心はありません」
それは魔女が思っていた以上に深くて暗い恨みのこもった願いだった。
魔女は戸惑いつつも、答えた。
「対価なんてものはいらないよ」
予めそう言ってから、魔女は教えた。
「湖の亡霊と言ったね。あれは不老不死の存在。けれど、魔法の剣で斬ったならばきっと命を落とすだろう。湖から呼びだすには歌を歌えばいいのだよ。亡霊に負けないほど美しい唄が歌えたなら、きっと彼女は心を奪われて湖から陸にあがってくるだろう。そして彼女が心を開いたその時に、魔法の剣で心臓を一突きにしてしまえばいいのだよ。ただし、普通の剣じゃだめだ。魔法の剣でなくてはいけないんだよ」
「じゃあ、その魔法の剣は何処にあるの? どうか教えて。私、どうしても奴を滅ぼさなくてはいけないの」
切羽詰まったのか少女は子どもらしく縋りつくように魔女を問い詰めた。
そのあまりの切実さに魔女もまた戸惑いながら、少女を宥めた。
「どうか落ち着きなさい。よければ理由を教えてくれるかい? 何故、あんたは亡霊を滅ぼしたいんだい?」
「友達を――」
途端に少女の目が暗いものとなる。
「友達を目の前で攫われたの。とても綺麗な子だった。優しい子だった。大好きな子だった。あの子がいなくなって、とても悲しくて悔しかった。だからずっとずっと想いを溜めてきたの。いつかあの子を奪った亡霊に復讐するんだって」
それは魔女がおおよそ予想していた通りの理由ではあった。
同じような理由で魔女を訪ねてきた者がいなかったわけではない。かつても同じように願い、同じように誓い、この場所を去っていった者はいた。それでも亡霊は滅ばないまま。その理由は、訪ねてきた者が願いを諦める形で村や旅路に戻っていってしまったからだ。
「その復讐とやらはあんた自身の命をかけてまでしなくてはならない事なのかね?」
「ええ、そうよ」
質問にぶれもせずに答える少女を見つめ、魔女は小さく肯いた。
「そうかい。それなら後はあんた自身の問題だ。魔法の剣ならこのアタシが持っているのさ。ただし、この剣の真の力を使うには、あんたの魂が必要になる。亡霊を滅ぼしたいならば、死を約束された力で戦わなくてはならないのだよ。亡霊を滅ぼしたとしても、亡霊に負けてしまったとしても、あんたは死んでしまうんだ。それでも、あんたは剣が欲しいというのかね?」
かつてはこの問いに客人は負けてしまった。
それならそれでいいのだと魔女は思っていた。魔法の剣は本来、湖の亡霊を殺すためのものではない。そんな事に使われなくてはならない理由なんて何処にもないのだ。
しかし、少女は迷いを浮かべつつも結局は先程までの真剣な表情を取り戻したのだった。
「お願いします。その剣をください」
かつて同じ願いを抱いてきた者は逃げ出したというのに、その頑固な恨みは何処から来ているものなのだろうか。魔女はあてもなく心の中で問いながらも、言われるままに剣を少女に貸しだした。招き入れた客人の願いを叶えることは、この魔女の掟でもあったからだ。
そんな魔女の思いも知らずに、少女は剣を手に立ち去っていった。
迷うことはなく、死のみが待ち受けているその場所へ、彼女は旅立ったのだった。
◆
亡霊の潜む湖。
そこは村の子どもたちにとって、悲しいほどに魅力的な場所だった。
青と緑に彩られた幻想的な風景。死なないと噂される白鳥が住んでいて、水面を揺らす風の音や鳥や虫たちの囁き声に包まれたその場所は、亡霊をよく知らない子どもたちには、ただ美しくてわくわくするだけの秘密基地のような所だったのだ。
少女にとっても同じ。たくさんの子どもたちに混じって、少女もまた何度も白鳥を見に行った。けれど、そんなある日、亡霊は現れてしまったのだ。よりによって攫われたのは、少女が一番大事に思っていた親友の子。容姿も心も愛らしく、仲のいい姉妹のように気の合う友人だった。彼女と過ごした時間が遠ざかる一方で、彼女に対しての想いは強まっていくばかりだった。
目を閉じれば、少女の脳裏には亡霊の姿が浮かぶ。湖で溺れる友をじっと見つめている亡霊の姿。大人達がやっと駆けつけてくれた時にはもう何処にもいなかったその姿を、少女は忘れられない。
あの亡霊が友を湖に誘ってしまったのだ。
時が経つにつれ、恨みは大きくなっていった。記憶の片隅に残る亡霊の美しい姿すら醜いものに思えてしまう。言葉を喋れるのならば友への懺悔を聞いてから滅ぼしてやりたい。それは、少女の恨みであり、苦しみでもあった。
復讐。その二文字だけが少女の勇気となっていた。恐ろしい獣が潜んでいようと、恐ろしい魔物が潜んでいようと、彼女の歩みは止まらなかった。
そして、あっという間に、その湖に辿り着いてしまったのだ。
あの時と変わらない幻想的な風景。あの時よりもやや冷たげで寂しげな雰囲気。そして、あの時、死なないと噂されていた白鳥によく似た鳥がいた。
――変わっていない。変わっているようで、変わっていない。
少女はそう思いながら、親友の溺れた辺りを見つめた。親友の亡骸は大人達が掬いあげてくれたけれど、彼女の魂はきっと亡霊に攫われたままなのだろうと言われていた。今ももし、湖底で苦しんでいるのならば、亡霊を滅ぼして解放してあげられやしないだろうか。
そんな切なる願いも込めながら、少女は幼い頃によく歌った唄を口ずさんだ。
亡き友と歌った唄だ。無邪気に遊ぶ沢山の子どもたちの情景が頭に浮かぶ。あの時に遊んでいた子達のいくつかは病で死に、いくつかはもうとっくに大人になってしまっている。少年少女のままでいるのは、彼女の他に数名だけ。
ほんの一握りの寂しさも込められたその唄は、少女の緊張が解けるごとに震えも止まり、湖畔によく響く旋律となって漂い始めた。そして、いつしか少女が気持ちよく歌っているそのすぐ傍に、彼女の姿は現れたのだった。
――亡霊。
歌いながら少女は認識した。
――間違いない、奴だ。
けれど、焦らずに少女は歌い続けた。言葉を喋れるかも分からないその亡霊が、少しずつ唄をよく聞こうと近づいて来る。十分、惹きつけてからでいい。慎重に様子を窺いながら、少女は唄を歌い続けた。そんな少女の心にも気付いていないのか、亡霊はどんどん湖から離れ、少女に近づいていった。
そして手の届く先に亡霊が近づいたところで、少女は決心した。
――もう、十分だ。
即座に魔女から授かった剣を抜き、少女は亡霊に斬りかかった。
突然の事に亡霊は驚き、逃げようとしたけれど間に合わない。亡霊と言われてもすぐに姿を消したり、飛んで逃げたりすることは出来ないらしい。哀れにも地面を這う亡霊の姿を見つめながらも、少女の心には今なお復讐しか浮かんでいなかった。
――これで、恨みは晴らせる。
焦って逃げられない亡霊に向かって剣を振りおろそうとしたその時、突如、少女の傍に光輝く何かが現れた。
「お待ちください」
光から聞こえるのは聞いたこともない声だった。
驚く少女がその光をよくよく見てみれば、それはあの死なないと噂されていた白鳥だった。白鳥は少女に頭を下げてから、そっと亡霊の前へと躍り出た。
「どうかこの人を斬らないでください。この人は湖の守護者。そして、私の忠実なしもべ。かつてはあなた達人間にも愛された聖なる湖の巫女のなれの果てなのです」
「湖の守護者……?」
そんなはずはないと少女はすぐに首を振った。
親友は亡霊のせいで死んだのだ。だから、守護者なわけがない。仇を討つために此処に来たのだから、どんなに説得されようと斬らないなんて選択肢があるわけがなかった。
けれど、少女の手は動かなかった。まるで金縛りにでもあったかのように、振り下ろす事が出来なかったのだ。
亡霊のせいだろうか、それとも、白鳥のせいだろうか。
恐れる少女を前に、白鳥は静かに語りかけた。
「どうか怖がらないで。私はかつてこの辺りを治めていたもの。湖の女神と呼ばれていた者です」
「湖の女神……」
「穢れをためた湖の毒で白鳥となってしまいましたが、今だって人間に害を成したりはしません。それはこの人も同じ事」
「……だって、亡霊は」
亡霊は気に入った子どもを引きずりこんで攫ってしまう。
ずっとそう聞いていたのに。だから、命に変えてでも滅ぼす方法を聞いてきたのに。少女はわけがわからないまま、何度も何度も同じ言葉を繰り返す。
「亡霊は……」
金縛りが解け、少女の手が下がる。
しかし、彼女にはもう剣をぶつける冷静さはなくなっていた。
そんな彼女に白鳥はなおも語りかける。
「誤解なのです。この人は子どもを攫っていたのではない。溺れそうな人に忠告するために姿を現していたのです。全ては死の穢れを湖にもたらさないため。私の力を少しでも早く取り戻すため。だから、あなたの大切な人が溺れたのも、この人のせいではありません」
「嘘よ……嘘に決まっているわ」
必死に否定する少女を見つめながら、白鳥は首を横に振った。
「この真実の訴えを嘘だと嘆くのもあなたの自由です。けれど、この人の命は差し上げませんし、あなたと戦う気もありません。魔女の授けたその剣に幾ら貴女の魂をかけたとしても、私までを殺す事など不可能でしょうから」
そう言って白鳥が翼を広げると湖の光が淡く色づいて、神秘的な情景が生まれた。
不可思議な風景に魅了されつつも、それでも、少女は混乱していた。
ずっと、恨みを抱いていたのだ。犯人である亡霊を滅ぼせば、友を失った想いが少しでも晴れると信じていたのだ。けれど、亡霊は犯人じゃない。そう言われ、すぐに納得出来るわけもなかった。
それでも、白鳥は少女を待ってはくれない。亡霊と呼ばれるまでに身を落としたしもべをそっと立たせると、言葉にならない声で導いて湖へと下がらせ始めたのだ。
「待って、行かないで!」
少女は白鳥に向かって叫んだ。
亡霊を滅ぼして死ぬのが少女の信念であり、美徳だったはずなのだ。
その目的が達成されないというのなら、自分はどうしたらいいのか。少女は分からなくなってしまった。魔女に授けられた剣を手にしたまま、少女は女神と名乗る白鳥を仰いだ。
「あなたが女神だと言うのなら、どうか教えて。どうしてあの人は――友達は死んでしまったの? 誰がなんの目的で、湖に引きずり込んでしまったの?」
必死に問いながら涙を流しそうな彼女に向かって、白鳥は静かな声で鳴いた。
「お答えしましょう。誰のせいでもありません。何の目的もありません。湖に潜むのは美しさばかりではないのです。実体のない死の危険はいつだって這い寄ってきます。この人はそれを教えただけ。ただ、それだけなのです」
「そんなの……」
信じられなかった。何故、という思いが強過ぎて、少女にはどうしても信じられなかった。魔女に授けられた剣は、使われることのない未来を悟ってか冷たく光り輝いていた。この剣に命を与えて亡霊を滅ぼすはずだったのに。
少女は俯きながら過去を思った。友を失ってから灰色に感じた世界。この美しい湖を前にしても、やはりこれから先に踏み出す勇気が彼女にはなかった。
「それなら……」
仇かどうかも分からない。そして、どちらにしても力は敵いそうにない。そうなった以上、少女が出来ることはもう限られた事だけだった。女神を名乗る白鳥を真っ直ぐ見つめて、少女は最後に残った願いに思いを託した。
「それなら、私はどうしたらいいの? 仇を討って死ぬことも出来ない私は、これから先、どうしたらいいの?」
友の仇を取る。その事だけを考えて、その事だけを恨んできた少女。その魂を吸いそびれた魔法の剣が怪しく光るのを見つめながら、白鳥はそっと少女に囁くように言った。
「何も急ぐことはありません。その剣に命を吸わせなくとも、いつかはあなたも大切な人と再会できる日が来るでしょう。それまで、苦しまなくてはならない事はないのです」
白鳥の声が少女の頭の中に響く。
「いきなさい、死があなたを迎えに来るまでは」
それっきり、白鳥と亡霊の姿は少女の前から消えてしまった。
取り残された少女は、しばらくの間、急に静かになった湖の輝きをじっと見つめていた。彼女の頭の中では、白鳥の言葉が何度もこだましていく。その響きがもたらした感情を、少女はうまく飲み込めないまま耐え忍んでいた。
けれど、もう二度と亡霊たちの姿が現れないのだと察すると、少女は静かに魔法の剣を鞘に収め、何も言わずに静かに、美しくも残酷な湖に背を向けてその場を去った。
その足が向かう先は、少女自身にも分からないまま。