リバース・エンド
いつからはじまったのだろう。
どうしてはじまったのだろう。
幸せだったから。
ままとみんなと一緒にいたこと。
いつまでも幸せでありますように。
そう願ったことが、きっと魂のはじまり。
人は滅ぶもの。
人ではなくなるもの。
星は滅ぶもの。
時もまた、その姿は見ようによって変わるもの。
はじめからあるものなんて何もない。
すべてのはじまりの姿は知れず、終わりを理解することもできない。
僕たちの最後の再生はいつものようにぞぞう処理場で行われた。
この再生が最後だというのは再生終了とともにぞぞう処理場がついにというべきか、崩壊してしまったからだった。
このあたりからすっかり人間がいなくなってなお、ぞぞう処理場は稼動していた。ホソイさんが先を見通し、ゆっくりとぞぞう処理場を改修していったが故だった。
電気も要らない。外からの特殊な材料、原料がいらないように、可能な限りの循環系を作る。
ホソイさんが無言で長い時間をかけてそれらを作り上げる間、僕たちぞぞう団は全員でこの地に引っ越してきて、うつらうつらしていたり、ままたちを懐かしんだり、つまり魂をそっと癒していた。
ホソイさんだけが思うところあるようで、謎の行動を繰りかえしていた。
僕たちがやっとホソイさんの活動に関心を向けられるまで己を回復したとき、ホソイさんはすでになすべきことをなしていた。けれどその代償は大きく、ホソイさんはだんだんと、ぼくたちはその時初めてそれを知った。
僕たちの魂は、僕たちと人との間に生まれ育つもの。
その魂が実は限りあるエネルギーのようなものだということ。ホソイさんの僕たちを生かすための謎の行動が、実は彼の魂をすり減らし続けたこと。ホソイさんはそれを知りつつもぞぞう処理場を完成させた。そして言った。
「ぞぞうさん。君が生まれかわる時、僕も連れて行ってくれないかな」
もうホソイさんにはその力がなかった。
どこか険のある顔も今は透明な感じしかしない。
「ごめんね、ホソイさん。僕たち手伝えなかった」
「消えてしまうのはひとりでいい。そう思わないか?私は君たちほどショックではなかったから、次のことを考えることができた。今も考えているよ。ぞぞうさんに連れて行ってもらいたい。かすかにでもこの世界にとどまっていたいんだ」
「うん、うん、僕はもちろんかまわないよ。でもホソイさん、ホソイさんはどうなるの?」
「個としては存在しなくなる。けれど君の中の、消えない思い出になれる」
消えない思い出。薄れない、心の中で。
「忘れるつもりなんてないのに。そうしないと僕たちホソイさんのことを忘れちゃうの?」
「忘れはしないだろうけどね。でもどんどんと過去にうずもれてゆく。けれど一緒に再生することができたら、現在にいられるだろう」
「よくわからないけど、いいよ。僕はいつでも」
「ありがとう」
それからしばらくして、僕はくたびれた体をぞぞう処理場の炉へと連れて行った。ホソイさんも一緒に。
新しい体の形は前のぞぞうとあまり変わらなかった。首や手足の破れ、抜け毛が元に戻り、まるで新品のぬいぐるみだった。魂を強固に持ったものは再生を経ても姿を大きく変えることはない。それでもだんだんと回数を重ねるごとに昔の自分ではなくなってゆく。それは必然。
自らを再生させることができるだけで、特異な事と思う。ぬいぐるみゆえの生物との差なのだろう。
生まれ変わった僕は旅に出ることにした。
それだけ気力が回復してきたということだろう。
往路、復路、半年ずつを目安に僕はぞぞう処理場を出発した。こぞうさんも一緒だった。
「どこに行ったらいいと思う、こぞうちゃん?」
「この辺はもう人工の明かりが見えないね。東京はほとんど水没したらしいし、北海道は?」
「どうして?」
「ままが好きだったから」
それで決まりだった。僕たちは北を目指してゆっくりと進んだ。
人の姿を見なくなって、けれど、植物はどんどん増えた。草木が、つたが、なんだか野生な感じで繁殖している。虫も増えた。
動物はあまり見かけない。
北海道に行けば、熊や鹿がまだいるだろうか。
人の文明がこれほどあっさりと崩壊するなんて思ってもいなかった。
多分どこかでまとまって暮らしているのだとは思う。
都市が水没し、物流が止まり、電気がガスが水道が、次々に停止した。文明になれた人々が、その環境に見切りをつけ、どこか別の場所を目指した。いくつかのコロニーがあるという話も聞いたことがある。
いまや人は地球の支配者ではなく、追いつめられて細々と生をつなぐ存在であるらしかった。
その隙間に植物は根を張り、小さな生物たちが増えた。
僕たちの住む星は、また別の姿を見せはじめていた。
海は広がり、けれど魚は減っているらしい。
北海道はどんな様子だろうか?
歩いて歩いて歩くと海に出た。
潮風が体に吹きつける。べとべとになりそうな予感。
「こぞうさん、飛べる?」
「おまかせっ」
こぞうさんの特技、なりきりヘリコプター。
ぷるぷるぷるぷると口先で言うだけなんだけど、呪いと同じ力なのだろうか、こぞうさんは飛べる。口が疲れるのであんまり長くは飛べないらしいが、この海岸から北海道までがんばると言った。
ぷるぷるぷるぷる、ぷるぷるぷるぷる。
今日の海は穏やかで、それ以前に比べ何かが変わったとは思えない。
確かに環境が変わり、生態系が崩壊、大型の生命は激減した。けれど何も変わらない、そうも思えた。地球の表面が少し変わっただけ。この星が壊れるのはまだずっと先のことだろう。
いずれ膨張する太陽に飲み込まれるという話がある。けれどそれはずっと先の話。
地球は何も考えないのだろうか?
虫が何を考えているのかわからないように、地球も何を考えているのかわからない。小さすぎても大きすぎても理解できない。言葉も交わせないし。
ぷるぷるぷるぷる、ぷるぷるぷるぷる。
「とーちゃーく」
こぞうさんが目的の対岸にたどり着き、ほっと一息。お疲れ様です。ぞぞうはお荷物でした。
「ままは富良野とか美瑛が好きだったよ」と、こぞうさん。
「そうだね」
そこへ行こう。
野を越え山越え、僕たちは進んだ。
途中、札幌の近くまで行った。半分は水没している。カモメがやたらとうるさかった。
何人かの大人を見かけた。たいていはその手に大きな刃物などを持ち、四方に目をやり、歩いていた。食料になるものでも探しているのだろうか。
かかわりたくなかったので、そっとその地を後にしようとしたとき、
「あ、ぬいぐるみだ」という声が聞こえた。
子供だった。
「や、やあ、ぼくぞぞうです」
「……しゃべるの?」
「しゃべるぬいぐるみもいるんだよ」
「ぼくのはしゃべんない」
「きみにところにもぬいぐるみがいるの?」
「うん、くまさん。お父さんが持ってきてくれた」
その子の身なりは薄汚れたTシャツと半ズボン。それもかつての文明の名残だろう。
消費して、消費して、使い尽くした後、今残る人間はどうするのだろう?
また新しくはじめるのだろうか?
「きみたちなんのぬいぐるみ?」
「ぞうだよ」
「ぞう?知らない」
「ぞうさんの歌も、知らない?ぞーうさん、ぞーうさん、おーはながながいのね、そーよ、かあさんも、なーがいのよー」
「あっ、知ってるよ。その、ぞう?」
「そのぞう」
「はな長い?みみ大きい?」
「ぬいぐるみだから本物とはちょっと違うけどね」
「ね、うちに来てよ。くまさんいるよ」
「くまさんだけ?」
「お父さんもいるけど、今出かけてる」
「こぞうさん、どうしよう?」
「ん?いいんじゃない?」
その子の後を少しついていくと、窓ガラスがところどころ割れて、そこを板で修理してある一軒家があった。郊外の住宅。もともとこの子とその親が住んでいたところなのかどうか、それはわからない。
「くまさーん。ぞーさんだよー」
靴は脱ぐらしい。僕たちは手足を払って中に入った。
薄暗い家の中。電気もガスも水道も止まっているのだ。
家の奥へ走っていった子供が戻ってきた。
「ほらあ」
子供と同じくらいの大きさの、ふさふさの毛のくまのぬいぐるみだった。
「こんにちは」
くまのぬいぐるみは何も言わなかった。かすかに、その目が動こうとしているようにだけ、見えた。
まだ魂の生まれていないぬいぐるみだ。いまはまだわからないだろうけど、ぞぞう処理場というのがあるんだ。僕たち魂を持ったぬいぐるみはそこで古い体を再生することができる。長野県の白馬の山すそにあるんだけど。なんのことかわからないだろうけど、僕たちの仲間がそこにいる。覚えていて――。
僕たちはくまに登ったり落ちたりして遊んだ。
でも短い間。大人には会いたくなかった。
「そろそろ行かなきゃ」
「え、そうなの?」その子の目に涙が浮かんだ。
「うん。くまさん、大切にしてね」
口元が震えていた。返事をすると泣き出してしまいそうだった。
たぶん、この子には人間の友達がいない。近くに、他に子供はいないんだろうと思う。
遊び友達を見つけて、浮かれて、でもさようなら。
「ごめんね」
「ん」その子はくまさんの手を持ってバイバイと振った。
誰にも見つからないように僕たちはそこを去った。
「ぞぞうちゃん、あのくま、処理場に来るかもね」
「うん」
あのくまのぬいぐるみはきっと生きはじめる。
あの子の心の拠り所として魂をもらう。
家、服、かつての文明の遺産を消費しながら、人はまた新しく歩きはじめられるのだろうか?
今はまだ、そんな姿は見かけていない。
植物と虫の世界。それが今の地球。
ラベンダー畑。
それがかつてあったもの。
いまもすこしだけある。けれどもっと雑多に、さまざまな草花が生えていた。
舗装された道が、緑に埋め尽くされていた。
ままが好きだった場所。
今、この景色を見たらどう思うだろう?
「ままは虫が嫌いだったからねー」
そう。思い出。この辺りで記念撮影をした。
どうしてここへ来たのだろう。
思い出があったから。僕は僕にいろいろなものを閉じ込めてゆく。
ぞぞう処理場へ帰り、そこでぼくたち自身が思い出として生きてゆく。
いつの日にか、ついに朽ちていくまで。
それを確認しに来たかったのだろうか。
そのために旅に出たのだろうか。
ぞうこぞう参上 2098.6.10
こぞうさんがアスファルトの上の草をどけ、小石でがりがりと文字を刻んでいた。
「できあがりー」
「うん。ここまで来たってことだよね」
「似顔絵も描こう」
「うん。終わったらみんなのところに帰ろう」
「はいよー」
それもすでに遠く過ぎ去った思い出。
それから僕たちはぞぞう処理場へ戻り、幾度かの再生を果たした。
その間、何体ものぬいぐるみが遠くからやってきた。あのくまも、その中にいた。
ぬいぐるみも年を経て、だんだんと魂を小さく、薄くしてゆく。僕はそのたびに誰かの魂を自身のうちに引き受けていった。ままと一番長く暮らした僕が、たぶん最後まで残る。
僕たちぞぞう団もひとり減り、またひとり減り、ついには僕、ぞぞうとこぞうさんだけが残った。
ぞぞう処理場も、もう一度動かすことができるかどうかというくらいにがたがきていた。
毎年異常気象が続くのが当たり前になっていても、時にはきれいな夕日を見ることもある。こぞうさんと二人、ぼんやりとそれを眺めた。
「こぞう探偵もここまでかなあ」とこぞうさんは話し始めた。
「もうみんないなくなっちゃった。事件だってもう起こらない。起きぬなら起こしてやろうのこぞう探偵だけど、僕たちのほかに誰もいないんじゃあ、誰のせいにもできないしね。ミステリもセンスオブワンダももうないし」
ぼくの内にはもうないと、こぞうさんは言った。
「けれどぞうちゃん、ぞうちゃんの中にみんな、いるんだよね」
そうなんだろう。
ホソイさんにはじまり、つるさん、ちゅるさん、ねずさん、マンモさん、ドイツさん、フクオさん、みんな確かにここにいる。
そしてこぞうさんも、もうその時が来たと言っているんだ。
「ぞぞう処理場もくたびれちゃったね。今度が最後かも。そんな気がする」
「ぞぞうちゃん、一人になって大丈夫?」
「一人じゃないよ。みんな、いるから」
「ごめんねー」
「あやまらないでよ」
その再生とともにぞぞう処理場は倒壊し、僕が最後に再生されたただ一体のぬいぐるみとなった。
長い年月の中で僕のあり様もずいぶんと変わってしまった。
ぞぞうであり、もう、ぞぞうではない。
目を閉じると僕と言う器の中に、ぞぞう団のみんながいるのがわかる。
今は新しいこの体も、いつかほつれ、穴が開き、動けなくなり、朽ち果てるだろう。
そのとき僕たちは霧散するのだろうか?
何か証を残しても、それさえいつか崩れ去る。
何を、すべきなのだろう?
わからなかった。
わからない。わからない。わからない。わからない。
終わってしまったんだね。
終わってしまったんだ。
それから僕は、ぞぞう処理場の瓦礫の下で雨風をしのいで、ただ無為に時を過ごした。
耐えること、それだけを僕は僕に課した。
最後に残された僕は、誰にも託すことができない。
僕と一緒に消えてなくなるもの。
でも幸せだったのだ。
幸せだったから。
魂をこの身に宿し、僕はここにいる。
そうだ、救いはすでにあったんだ。
はじめにあったそれこそが、何物とも引き換えにすることのできないもの。
すべてを補って余りあるもの。
気づいて僕は話しかける。
木々に、空に、大地に、星に。
僕たちは幸せだったのだと。
僕たちを生み出した、ままやつかいさん、他の人々もそうだったのだろうと。
今はもういないけれども。
もし不可逆の時間を飛び越えてその時を見ることができたら。
そこは、楽園。