ライバルは猫かも
去年、私が作ったネタで好評だったものに「ブチ切れクリステル」というのがある。それは他人に何か文句を言われた時に滝川クリステルよろしく右手で優雅に文字を並べながら「お・も・て・で・ろ」「表出ろ!」と突然ブチ切れるというホントにもう死ぬ程しょうもないネタだったのだけれど、あの人はそれをやるたびに大爆笑。「ブチ切れクリステル」と妙に語感のいい命名をしたのも彼だった。
彼。
私が好きになった人は、飄々として底の見えない先輩だった。見た目は全然カッコよくない。
ただ……モノマネしたり一発芸をやったりするバカな私を生温かく見守って、辛辣だけれど的確なツッコミを入れてくれるその低い声に、そして独特な言葉のチョイスに惚れてしまったのだった。
でも好きになると、わかってしまうこともある。先輩は部室でどんなに笑っていても、決して晴れ晴れとしているわけではなく、私にはそこに点々とした「くすみ」のようなものが見えたのだった。
先輩はまるでピエロのように人を笑わせるけれど、その足元は玉乗りでもしているように危なっかしかった。ふとした拍子に何もかも崩れ去ってしまいそうで、でもそこが逆に好きになってしまった理由の一つかもしれない。
くすみを抱えた玉乗りピエロ。
放っておけない。
彼はサークル内で「夢ちゃん」と呼ばれていて、私はそれに便乗して「夢ちゃん先輩」と呼んでいた。あだ名の正確な由来は知らなかったけれど、フワフワしたその物言いもキャラクターも困ったような笑顔も「ザ・夢ちゃん」で、初めて聞いたときにうまい名前をつけたもんだと思った。
★★★★
「夢ちゃんってあだ名、相田先輩が付けたんすか」
名呑大学の放課後、まだ誰も集まっていない部室で、私と相田先輩はよく二人きりになる。暖房もなくて寒いけれど、先輩はいつも誰よりも早く来て本を読んでいる。
「うん、前にみんなで『ゆめゆめさま』っていうこっくりさんみたいな遊びをしてたら倒れたのよ。だから」
相田先輩は文庫本に視線を落として答えた。文字を追う黒縁眼鏡の奥の瞳は、獲物を狙うメスライオンのように微動だにしない。
「ぴったりだと思います! あの、『夢』って感じっすね! いやマジでマジでいいっす!」
「そう、それはよかったッス。ただッス、読書中ッスから静かにしてくれないッスかねッス?」
冷たく言い放ちながら、相田先輩はまったくこっちを見ずに湯気の昇るコーヒーカップに手を伸ばす。
「……あの、夢ちゃん先輩って彼女いないんすか」
しかしそれで黙る私ではなかった。
「さあ、いないみたいよ。そんなウワサも聞いたことないし。何、好きなの?」
そうですとも。
相田先輩がコーヒーに口をつけると、眼鏡が白く曇った。
「……あ」
先輩は文庫本を伏せると、何事もなかったように眼鏡を事務的に拭いた。やらなければならないことをやるだけさ、といった風情で。
「先輩、かっこいいっすね」
「そうかな。いつも何考えてるかよくわかんない人だと思うけど。悟ったような態度で、本心を隠してる感じ」
違う違う、そうじゃ、そうじゃなーい。頭の中で私は歌う。
「いや相田先輩のことっすよ。眼鏡が曇っても全く動じないところがクールビズっすね!」
「それはもしかしてクールビューティーって言いたいのかしら。最高。確かに寒くてクールだわ。うん、メチャクチャ面白い」
拍手までしてくれて、楽しんで頂けたようでよかったです……全くの無表情でなければ。
「夢ちゃんのことだけど、好きな人はいるみたいよ」
もしかして私? とチラリと思ってしまった自分を頭の隅にギュウギュウ追いやる。私ってばすぐ調子に乗るのだ。
「好きな人って……」
「猫」
相田先輩は芝居じみた仕草で白いため息を吐く。それはコーヒーの煙と混じりあって空気に溶けていく。
「人じゃないじゃないすか」
恋のライバルは猫?
「そうね。人じゃないの。好きな生物は猫。昔飼ってた猫が死んだって言ってた。それで今でもその猫が心の大部分のウェイトを占めてるんだってさ。白沼ちゃんも知ってるでしょ? 夢ちゃんのケータイストラップ。いつもため息ついては、あのストラップをすんごく大事にしてるってわけ」
夢ちゃん先輩の猫ストラップ。陶器で作られた小さな猫が二匹、寄り添って一つのセットになっていた。とてつもなく可愛かったので、夢ちゃん先輩にどこで買ったか尋ねると「コレ、いいよね……」とボヤかした答えしか返してくれなかったことを覚えている。
相田先輩はコーヒーをゆっくりと啜り、一息ついた。
「でもあたしも本当のところはよくわかんないからね。三次元には興味なくて、何かのアニメキャラの一人に夢中とかいう話も聞いたし。ガッくんに聞いてみるといいわ」
ガッくんというと……。
「志賀先輩ですか」
「うん、サークルも一緒だし夢ちゃんとほとんど四六時中一緒にいるじゃん。仲が良すぎるくらい?」
ずっと無表情だった相田先輩はその時だけ嬉しそうにククッと笑った。先輩の文庫本はカバーがかかっていたけれど、その中の見当はついてしまった。
ホモォ…┌(┌ ^o^)┐
★★★★
翌日、私は食堂で偶然会うことのできた志賀先輩と話した。身長は私と同じくらい……ということは一六〇センチ前後。ワイルドと言えば聞こえはいいが、無精ヒゲがまるで野武士のようだ。
「夢ちゃんの好きな人な、おれが言っていいのかなー」
志賀先輩は困った様子でうつむいた。夕暮れ時の食堂は、人もまばらで寂しい。
「無理だったら別にいいっす。ただ、相田先輩からは猫だって聞いたんすけど」
「猫。猫って何? あのコタツで丸くなってるやつ? おれも好きだな、それ」
豪快に笑う野武士。
言ったのは私じゃないのに、なんだかバカにされている気分だ。この先輩はちょっと苦手。
「コタツで丸くなるかどうかは知りませんけど、違うんすか」
「おれが聞いたのは違う」
…………。
「大好きだった飼い猫が死んだから、じゃないんすか」
「違う違う。夢ちゃんは特に猫が好きなわけじゃない、そう言ってた。夢ちゃんが猫と遊んでるとこ、見たことないだろ? 猫、猫か。あー、そうか。もしかして相ちゃんに気付かれないように嘘を吐いたのかな」
む? 聞き捨てならんな!
「何がっすか」
私が身を乗り出すと、先輩は戸惑った様子で目をそらした。
「うーん、もう言っちゃうか。秘密にしといてくれよ。おれが聞いたのは、相ちゃん。分かるかな、相田な」
「相田先輩が何すか」
嫌な予感。
志賀先輩は躊躇いがちに言った。
「だから、相ちゃんのことが好きなんだって言ってたんだよ」
心臓が一瞬、きゅっと誰かに握りつぶされる。その誰かっていうのが、相田先輩なのか志賀先輩なのか夢ちゃん先輩なのか、それともその全員なのかはわからないけれど。
志賀先輩は私の顔を覗き込むと、すぐに慌てた様子で言った。
「いや、そんな気にすることないって。夢ちゃんはいつもテキトーなことばっかり言ってんだから。言うことがコロコロ変わるやつなんだよ。それでもわりと女にもてるから、これまた腹がたつんだよな」
女におモテなさるのか。
私が黙っていると、志賀先輩は頭を抱えて「あー」だの「うー」だの低くうめきだした。
食堂の窓の外では、二匹の猫がじゃれあっているのが見える。学校の周辺に住み着いている、生徒にはちょっと知られている猫だ。
いつも一緒にいる二匹は、尻尾の先まで真っ白なホワイティと瞳の色まで真っ黒なビター。ビターはともかくホワイティはどうかと思う。内村光良のキャラだっけ?
「あー。そういえば……」
志賀先輩は思い出したように天井を見上げると、目だけでこっちをチラ、と見た。
「かなり前にお姉さんが大好きだって言ってた。飲み屋で、僕はシスコンだと声を大にしてはばからなかったことが」
そっちのお姉さんか。「きれいなお姉さんは、好きですか」じゃないほうね。
「でも猫よりはマシじゃないか? 白沼さんにとっては」
先輩はそう言いながらまた豪快に笑った。唾がとんだ。野武士め。
「私にとっては駄目っすね。勝ち目がありそうなのは猫っす」
窓の外を見ると、ホワイティが道端のねこじゃらしに興味を示したせいで、じゃれあうのが勝手に中断されたようだった。
残されたビターはその様子をじっと寂しげに見つめている。
「あの猫たち、どう思いますか」
私の視線に促されたのか、先輩も頬杖をついてそれとなく見ていた。
「放っとかれてる猫が、寂しそうだ」
「そうっすよね。早く気付いてあげればいいのに」
私たちはしばらく無言で猫たちを見つめていた。ホワイティとビターはいつまでたってもそのままだった。先輩はため息を吐いた。
「でも大変そうだなー、夢ちゃんと恋愛って」
「どうしてっすか」
「思い返してみたら、夢ちゃんは好きな人がたくさんいるんだよな」
先輩は腕を組んで、食堂に行きかう人を目で追う。
「大学の図書館司書のひと、学食のおばちゃん、三十九度の熱を出して行ったときの病院の看護師さん、おれらが一年の時の先輩、飲み屋の店員、落し物を届けてくれた女子高生、エトセトラエトセトラ」
「そんなに……」
よく知ってるな。
「そう、惚れっぽいってやつかもな。まあ、でもおれが思うにありゃブラフだね」
先輩は困ったような顔で笑った。
「どういうことすか」
「たぶん、本命がいるんだよ。さっきのそいつらのこと、口だと好きだっていうが、何があっても告白しようとしないし、目の前に仲良くなれるチャンスが転がってても何だかんだと理由をつけて行こうとしない。興味なさそうだしな。それにどう考えてもいろんな人を好きだって言いすぎだ。猫とかも言ってるけど」
「なるほど。本命は誰にも知られたくないってことすかね」
頷く。
「だったら案外、話に出てきてないやつが本命かもしれないだろ。白沼さん、いけるかもしれない。かわいいし、優しいしな。夢ちゃんは案外、年下の女の子が好きな気がするんだよな」
先輩はそっぽを向いて、目を合わせずに言った。
「もう、よしてくださいよー」
現金な私は少しだけ気分が上を向く。でも、その先にもやっぱり息苦しい天井があって、調子に乗るなって書いてある。
「何にしても、本人に言ってみないことには何もわからないよな」
私はそりゃそうだ、と思った。あの放っておかれているビターだって、何か行動を起こさなきゃ気付いてもらえないのだ。
★★★★
サークルが終わった後、みんながぞろぞろと帰っていく中で相田先輩が意味ありげなウインクを私に投げかける。それは古臭くて半分ふざけていたけれど、リラックスと少しの勇気をくれる。私は夢ちゃん先輩に近づいて耳打ちした。
「先輩、ちょっと話があるんで部室に残ってていたたたただだだけますすすっすか」
思わぬ緊張。私は弱気になっている。しっかりしろ。平・常・心!
「ああ、いいよー」
夢ちゃん先輩はのんびりした様子で、チロルチョコの包みをガサガサとはがし、口に含みながら答える。
「何かな」
私と付き合って下さい。心の中で言ってみる。
「だからそれは後でお話しするっすから」
「ああ、そっか……アハハ」
夢ちゃん先輩はいつも通りで、ケータイの猫ストラップを愛おしそうに撫で続けていた。それを見ながら、私はもしかして自ら何が何やらわからぬ底なし沼に足を踏み入れようとしているのではないかと不安になった。
やがて部室に残っているのは私たち二人だけになった。ガラス窓の外はだんだんと暗くなっていく。
「先輩……」
「ん? 何」
夢ちゃん先輩はポッキーをぽりぽりとかじりながら答えた。
「先輩って、彼女、いるんすか」
途中でぼきりと折ると、私のほうを向いた。
「付き合ってる人なら、いないね」
先輩はこともなく言う。一応、第一関門突破。心の中でガッツポーズ。
「じゃ、じゃあ」
「でも好きな人ならいる」
先輩はテーブルの上に置かれた猫ストラップを片手でいじくっている。陶器でできた二匹の猫は嬉しそうに寄り添っている。
「それって人間すか」
「……その前に、どうして君に言わなきゃならないのさ」
ゴトリ。氷で出来たギロチンが私の首を切り落としたような気分。続いて感情の波が私の胸を震えさせる。涙が出そうだけど、そんなの最悪。やってやる。
「私が、先輩のことを好きだからです。付き合ってほしいんです」
ハッキリ言うとは思ってなかったのか先輩は数秒動きを止め、目を合わせないように窓の外を見る。でも私も窓を見たせいで、ガラスに映った先輩と間接的に目が合った。窓は寒風にカタカタと震えている。息苦しい沈黙が部室中に充満して、私は微動だにできない。
「そっか……でもごめん、付き合えない」
先輩は悲しそうにこぼす。窓の外には、ビターが一匹だけで通りすぎていった。もうホワイティとは遊ばないのだろうか。その姿がどことなく寂しそうに見えるのは、私の単純な感情移入のせいだろうか。
「世の中ってのはいつもうまくいかないね……ごめんね」
「いえ、あの、本当に、気にしないでください。私がダメなのも、振られるのもわかってましたから。ホントに、本当に。ええ、ホント。でも私、ばかだから確かめなくちゃ……」
言わなくていいことだとわかっているのに、黙っていると泣いてしまいそうで口からぽろぽろと出てきてしまう。先輩はずっと窓の外を見ながら目を伏せ。
「ごめん」
とだけ言った。それがなんだか申し訳なくて、私はこれ以上同情を誘うような震える声を出すのはやめにしたいのに。
「ごめんね」
先輩は静かに謝り続けた。私は呼吸を整えてから、精一杯の笑顔でなんでもないフリをした。彼がどうしていつも困ったような笑顔だったのか、少しだけ分かったような気がする。
「結局、先輩は誰が好きなんすか」
「誰が好きなんだろうねえ」
先輩はどんどん暗くなっていく外の景色を眺めながら、他人事のように言った。
「好きな人がたくさんいるって話を聞きましたけど」
猫ストラップを見ながら、先輩は自嘲気味に笑った。
「はははっ。僕は確かにみんな好きだよ。相ちゃんもガッくんも君も、お姉ちゃんも猫も」
「そうじゃなくて、付き合いたい人っすよ」
夢ちゃん先輩はさらに笑いながら、そっと窓辺によりかかる。
「そんな人、いないよ」
「嘘でしょう。志賀先輩が言ってたっすよ。夢ちゃんには本命がいるはずだって」
夢ちゃん先輩は猫のストラップを握り締めて、困った顔で苦笑いする。
「どうしてそんな悲しい顔……」
言いかけて私は突然、夢ちゃん先輩の好きな人がわかってしまった。それなりに彼を見てきた私の勝手な勘に過ぎなかったけれど、それは確かなように感じられた。
「残念だろうけど、好きな人がいたとしても僕は君に話す気はない」
「……わかりました」
私は立ち上がり、荷物をまとめると先輩に向って言った。
「先輩。でも、もし好きな人がいるんでしたら、本人に言わなきゃ絶対にわからないと思うっすよ。たとえ自分を受け入れてもらえなくても、後悔は……」
後悔は。
私は鼻の奥に力を込め、それから下唇をかむ。
「たぶん、しません。どうなるか、それから考えたっていいんじゃないすか? ものすごく、他人事で、無責任な言い方っすけど」
先輩は痛切な顔で黙ってうつむいた。私はそれ以上よけいな言葉がこぼれ落ちないように口をしっかりと一文字に結ぶと、部室を出た。
★★★★
外は黒い布でもかぶせたみたいに真っ暗だった。月さえ出ていない。寒がりながら向かったバス停への道で、街灯の下でホワイティと遊ぶ志賀先輩を見つけた。ホワイティは目を細め、彼の膝に体をこすり付けて嬉しそうだ。
「何やってんすか、先輩」
志賀先輩は私の姿を見ると、持っていたねこじゃらしを捨てた。ホワイティはそれを追って暗がりの中に去っていった。
「バスに乗り遅れちまってな」
志賀先輩は照れたように笑った。でも少しわざとらしかった。
「はあ」
冷たい風が白い息を押し流していく。私はマフラーを巻きなおすと、自分から口火を切った。
「告白、ダメでした」
「え。あ、そうか。結局、夢ちゃんの好きな人って……」
先輩はそう聞いて、深呼吸した。
「全然わかりませんでした。そうだ、先輩に一つ質問があるんすけど」
「何だ」
「夢ちゃん先輩の猫のストラップって、もしかして先輩があげたものじゃないすか?」
野武士の目が丸くなる。
「そうだ。あれ、気に入ってくれたみたいでよかったな。去年の誕生日にあげたんだよ。どうしてそれがわかったんだ?」
……ああ。ダメ、余計なことを言うんじゃない私。
「でも、夢ちゃん先輩は猫に特に思い入れがなかったんすよね」
「そう言ってたな」
「何か気付きませんか」
「何かって?」
志賀先輩は何も考えずに生きているんだろうか。
「もういいです」
私はなんだかイライラして話したくなくなった。ちょっと遠いけど、乗り合わせたくないから、もうバスは使わずに歩いて帰ろう。
「ちょ、ちょっと待って。辛いことがあるなら、おれでよければ話を聞くから。おれ、白沼さんが困ってるの見てられないんだ。ずっと前から白沼さんの……白沼さんのことが」
瞬間、風景から色が消えたようだった。モノトーンの世界で、時の流れが止まる。
「え」
志賀先輩は、何を言おうとしてる?
急いで私は先輩の言葉を遮って右手で優雅に文字を並べながら、「お・も・て・で・ろ」、「表出ろ」とやった。それは去年の私ほどの力も勢いもなくて笑いなんか生まない。
「先輩。それ以上言ったら、私、先輩を殺すかもしれません」
彼は叱られた子犬のように黙り込んだ。私はそれを無視して早足で立ち去る。志賀先輩は私を……? つまんない冗談だ。
こつこつと靴音を闇に鳴らして歩いていると、ビターが頭に浮かんだ。気づいてもらえない寂しい猫。
誰があの猫だったんだろう。
鼻の奥にツンとした熱い痛みがはしった。
視界が歪んでくる。
唇が震える。
私は、少し泣いた。
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