《第二回》 『待たれる人の心構え』
大仕事を前に、彼女の胸は高鳴っていた。
昨晩考えた挨拶と導入のための雑談を、何度も繰り返し呟く。やがてよし、と頷いて、彼女はその大きなビルを見上げた。
その一角で今、宇宙パイロット試験の最終審査が行われているはずだった。
ちらりと腕時計を見ると、地球標準で午後三時をちょっと過ぎたところだ。
まもなく会議終了時刻。そこを出てきたところを捕まえるように、上司からは言われていた。
彼女はいくら飲み込んでも湧いてくるツバをまた飲み込み、そうしてからようやく、ビルのエントランスへと足を向けた。
案内される前に彼を見つけられたのは、幸運だった。
「あ、あの」
彼女は、ためらいがちに、通路の奥へと消えようとしていた彼に呼びかけた。もちろんアポイントメントはとっていた。けれども、こうしてためらってしまうのは、自分がこれから父と子ほど年の離れた、一つの時代を作った人間と話そうとしているからだろう。
彼相手にアポイントメントが取れる事自体が非常に稀で、その機会に抜擢されたのが自分だということも、彼女にはいまだに信じられていなかった。
「……はい、なんでしょう」
彼がゆっくりと振り返った。低い、心地良い迫力を持った声が、空間を揺らして彼女へと届いた。
誰もが見たことのある白い髭に覆われた勇猛な顔がこちらを向き直ったのを見て、彼女は思わず軽く息を呑んだ。深いシワの刻まれた顔には、はるか昔の大事故によってつけられたという火傷の痕がケロイド状になってまだはっきりと残っている。その奥から彼女を見つめる目は、彼女が思っていたよりも小さく、けれどもたしかに強い力を持っていた。
それが様々な時代を乗り越えてきた第一級国家認定宇宙パイロットであり、今は国際宇宙パイロット委員会の委員長である彼――J ・ケイレンスの、目だった。
「あの、先日アポを取らせていただいた――」
「ああ、はい」
息せき切って名乗ろうとするのを遮って、彼は言った。
「話は聞いています。場所は――」
一瞬考えこみ、
「こちらでいいですか?」
表情一つ変えずに、そう提案してきた。
どこかに移動するものだと思っていたが、彼がここがいいというのであれば異論はない。新米である自分にこんな仕事が舞い込んできただけでも幸運なのだ。これ以上慌てたところを見せる訳にはいかないと、彼女は張り切って答えた。
「はいっ! よろしくお願いします」
彼は、わずかに眉をぴくりと上げただけだった。
彼女はカバンから小型の録音機を取り出すと、スイッチを入れ彼に向けた。別に録音したものをそのまま流すわけでもなんでもないのだが、つい意識していつもよりも丁寧にお辞儀をしてしまう。
「では、よろしくお願いします」
「いえ、こちらこそ」
そして、取材は始まった。
*
J・ケイレンスは、老将という言葉がよく似合う、がっちりした体格の持ち主だった。寡黙な性格と鋭い眼光はまるで鷲のようであると、彼が現役のパイロットだったときには言われたという。前時代の宇宙開発において大きな功績を残し、教科書にも名前が出てくるほどの有名人だ。派手さはないが、彼の名前と顔を知らない人間はなかなかいない。
そんな彼と対面していると思うと、彼女はとても冷静ではいられなかった。
録音機を握りしめた手がじんわりと汗をかき、今にも滑って落としてしまうのではないかと、そんなことが心配になった。これは、相当に焦っているな、と自分で分析する。
――そうだ、準備してきた会話があるじゃないか、と彼女は思い出した。
それなら、大丈夫だ。
「あの、実は私――」
しかしそこまで言い終えたところで、彼女の言葉は突然走ってきた黒スーツの男によって阻まれた。彼は二言ほどケイレンスの耳に囁くと、軽く彼女に頭を下げてまた走り去っていく。
「失礼」
とケイレンスが言った。
「なんの話でしたかな……?」
すっかり出鼻をくじかれ、彼女は内心鼻をすすり上げた。しかしここで話を続けられないようでは、プロと言えない。グッと堪えて、また違う導入のための質問を繰り出した。
「つい先程、最終審査を終えられたわけですが、今年の感触はどうでしょうか?」
「ご存知だと思うが、審査についてはなにも答えられん」
もちろん、答えが帰ってくるとは期待していなかった。
宇宙パイロットたちの情報はA級の国家機密であり、こんなどこの馬の骨とも知らない若い女性記者に話してくれるはずなどないのだ。
「……やっぱりそうですよね。では発表を楽しみにすることにします。さて、今年も、ケイレンス委員長の後に続くどんな若いパイロットたちが誕生するのか、巷では注目を集めていますが、ここ数年突然注目度が上がりましたよね、これについてはどう思われますか?」
「……たぶん、タリートが活躍しているからでしょうな」
その答えも、予測していた。
タリート・ティエンガー船長は、三年前の最終審査の結果、過去最高の成績とともに宇宙パイロットに抜擢され、その人当たりの良さと深い見識、若さに見合わない卓越した判断能力で、一気に世界中のお茶の間の人気をさらった人物だ。もちろん、ルックスもそれなりのものを備えている。
瞬く間に昇進し、今では、若干二十七歳という異例の若さで国営惑星間連絡船の船長を務めている。聞くところによると、毎日客にサインをせがまれる日々だとか。
同じ有名人ではあっても、厳しく堅物のイメージのあるケイレンスとは、まるで対照的と言える人物だった。
「ああ! 確かに、彼の活躍によって一気に宇宙パイロットへの注目度は高まったとも言えると思います。でも、ケイレンス委員長も昔は大変ご活躍されたと聞きました。そこでお聞きしたいのですが、ケイレンス委員長は、なぜこの世界に入られたのですか?」
しばらくの沈黙があった。
相変わらず変わらない顔色の奥で、なにかが蠢いたような気が彼女はした。
まだ明らかになったことのない、彼のシワの奥にある記憶に触れて良いのかどうか、彼女には分からなかった。ただ、それを聞くことこそが自分の仕事であるとわかるくらいには、社会人なのだった。
現在、世界中に宇宙パイロットを志す少年少女は、数限りなくいるだろう。かつては彼女もその中の一人だった。しかしその夢を挫折してから、すでに十年以上が経つ。それでもこうして未練がましく宇宙のことを記事にしたいと思っているのは、自分の弱さだろうか。
「君は、ほんとうに綺麗なものを見たことがあるかね?」
やがて彼が彼女の目をのぞき込むようにして、言った。
心の底まで見透かされてしまうような気分になり、慌てて視線を斜め下に逃がしながら、彼女は必死で答えた。
「は、はい……」
もちろん、頭の中にはなんの風景も浮かんではいなかった。
「昔――もう四十年も前の話だ。まだ、こんなに宇宙開発も進んでおらず、ましてや惑星間飛行なんていうのは、夢でしかなかった頃、一度、月に行く船に乗ったことがある」
「はあ」
彼女には、そんな時代はなかなか想像できなかった。
まだ彼女は二十三歳で、小さい頃にはすでに人類は月や火星上に基地を作り、さらにその先を目指して宇宙開発を続けていたのだ。かくいう彼女も、何度も月や火星には訪れたことがある。まだ本格的な移住は始まっていないが、それすらも時間の問題と言われていた。
「そこで見たんだ」
彼はゆっくりと、這うような口調で続けた。
「ほんとうに綺麗なものを、な」
しかし彼はその先をなかなか口にしない。彼女はしばらく待っていたが、やがておそるおそる、声をかけた。
「――“地球は青かった”ですか?」
「ああ」
そう聞かれるのを待っていたかのように、彼はまた話し始めた。
「その時はな、しばらく声が出なかった。それほどに美しいものに出会ってしまったんだ。それで病みつきになった。どうせ仕事をするなら、そうやっていつでも地球が見れる職業に就きたい、そう思った」
畳み掛けるように、彼は言葉を連ねた。
彼女はこれまでこれほどに熱を持って話すケイレンスの姿を、見たことがなかった。TV等のインタビューで見る彼は、いつでも無表情で口調を崩さない、見方によれば冷たいとも言えるような人間だった。
「つまり、あなたはその時見た地球の美しさを求めて宇宙パイロットを志して、そしていまに至ると、いうことなんですね?」
ケイレンスは何も答えなかった。
ただ彼女の目をのぞき込んでいる。
やがて頭の片隅がぼーっと熱くなり、意識が緩み始めた。彼女は自分は感動しているのだと、それからしばらくして気づいた。その理由は、おそらく自分がその美しさを知っているからだ。
最初に言い損ねたことをやはり言おうかという考えが、ふと彼女の頭をよぎった。
「あ、あの、すみません」
慌てて気持ちを落ち着かせようと、バッグから水を取り出して一杯口に含んだ。
口の中が熱く、まるで蒸発していくかのように彼女は感じた。
「いや、違う」
複雑な思いとともに水を飲み込んでいると、彼がそう言った。
「……え?」
その言葉が、先ほどの一連の会話の続きであることを悟るのに、彼女は数瞬を要した。
「ち、違うんですか?」
「あれだけでは、今には至らないさ」
彼女は今度は目を疑った。これまで、終始無表情を貫いてきたケイレンスが、わずかに微笑しているのだ。それはまるで外見にそぐわない、ふわっと花が開きそうな微笑だった。
「あ、はは、そうですよね。もしよければ、どうやってここに至ったのかも、お話していただけますか?」
いろいろな意味で動揺しながらも、彼女はなんとか愛想笑いを浮かべその先を続けた。
「今の、今の若い奴は……昔もそうだが、どこに行っても写真しか撮らない。とんでもなく美しいものに出会っても、たまらなく魅力的な人に出会っても、まずはカメラに収めようとする」
ゆっくりとしたペースはそのまま、半ば思い出すように彼は続けていく。
「もちろんそれが悪いことだとは言わないが、やはり自分が一番きれいだと思ったものを、カメラに収めるだけで満足している奴らが大量に来るところでの仕事は、辛いことが多かった」
これは、おそらく彼が惑星間連絡船の船長をしていた頃の話だろう。事前に調べた記憶によれば、もう十八年ほど前の話だ。
惑星間連絡船はほとんど観光目的でも利用されていて、彼女自身修学旅行で水星の極をめぐった時には利用したことがある。
「それで、もう船長はやめてやろうと思っていた。もうこんなふうに、夢を食い物にしていくような職業には絶対に着かず、月にでも住んで毎日ゆっくり地球を眺めようとな」
彼はふい、と懐かしそうな視線を上に向けた。
そこには無機質な白い天井があるのみだったが、彼女には彼はその先の宇宙まで見通しているように思えた。
「だがある日……宇宙には四季がないから、どんな日だったかすら覚えていないが。いつもの連絡船に乗って地球から月へ向かっていたとき、たまたま船の中で小さな女の子と出会った。まだ、十歳くらいだった。その子は、周りの子供たちが記念写真だなんだと騒ぎまわる中で、何も言わずに窓からずっと地球の姿を見ていたんだ。そんなヤツは、初めてだった。仲間がいたと知って嬉しかった」
彼は、小さくもう一度、「嬉しかったな」と繰り返した。
「なんど見回りに行っても、ソイツはずっと同じ場所で小さくなっていく地球を見続けていた。それで月についた時、なんとかして声をかけようとした」
その女の子は、涙に濡れた瞳でぼーっと彼を見つめ、名前を教えてくれたのだという。「どうだ、楽しかったか」と聞いた彼に対して、その女の子は笑って、
「私、絶対に宇宙パイロットになって、おじさんみたいに夢を運ぶ仕事をする!」
と言った。
思わずその子と握手をし、その時持っていた手帳にサインをしたのだと、彼は瞳に懐かしさを浮かべて呟いた。
「そう、まだ宇宙パイロットになる手段も、あまりきちんと確立されていない頃だ。だが、その言葉がやけに自分の中に残ってな。それで、急いで船長をやめて国際基準の設定や共同最終審査などを整備していった」
彼があまり人付き合いを好まないタイプにもかかわらず、なぜ最終審査の委員長を続けているのか、それは同じ分野を調べる人たちにとって、長年の疑問だった。宇宙パイロットの国際資格の立ち上げに深く関わっていることはわかっていたが、その動機までは完全に不明だったのだ。今日の取材では、それを聞き出すことも目的の一つだった。
しかし、その答えは、それ以上の意味を持って彼女の心を打った。
――彼は、その時の女の子を、ずっと委員長という立場になって待ち続けているのだ。
彼女は、目から自然に涙が零れ落ちるのを、今度は止めようともしなかった。
「いつか、いつか……」
その先がなかなか口にできず、一度息を飲み込む。自分が先ほど言おうとしていた言葉を思い出した。
“実は、私昔に一度、ケイレンス委員長に会ったことがあるんです。その時、サインもしてもらったんですよ! ほら、まだ持ってるんです”
もう一度その隣にサインをしてもらおうと、ちゃんと手提げかばんの中にはそれが入れてあった。
“あれから中学の時までずっと、女性初の宇宙パイロットを目指していたんですけれど、先を越されてしまって……まぁ、年齢を考えたら当たり前なんですけど。それでなぜか今になって記者になってるんです。もしかして、覚えていますか? 覚えていませんよね。でも、私はよく覚えていますよ――”
これから、どのような表情で彼にの顔を見ればいいのか、彼女には分からなかった。
心の中では、様々な思いが複雑に絡まり合っていたが、中ではどうしてか喜びが大きいような気がした。
「いつか――その子と出会えればいいですね」
やっと絞り出したその言葉に、ケイレンスが破顔した。
「ああ」
そして、そう頷いた。
その後いくつかの質問をかわした後、最後に彼女は聞いた。
「なにか、これから宇宙パイロットを目指そうという子供たちに、メッセージをお願いします」
その質問に対して、ケイレンスは、まるで最初から決めてでもいたかのようにはっきりと言った。
「私たち委員会は、君たちがパイロットになり、最終選考までやってくるのを本当に楽しみに待っています。もし、大変なことがあって途中で諦めてしまったとしても、ぜひ君たちががなりたいと思ったその思いだけは、大切に取っておいてください。そしてそれをいつの日か、何かの形で私達に見せてください。それが、待たれているものの心構えというものですから。改めて言います。私たちは、君たちをいつまでも楽しみに待っています」
では、もう行かなければいけないので、と軽く手を上げてケイレンスは、背中を向けた。
彼女は、その後ろ姿に向かって、ずっと頭を下げ続けた。
彼が完全にその視界から消え去ってしまった時、彼女はバッグから古ぼけた手帳を一冊取出して、ぱらりと捲った。折り目がついているせいか、ページは自然といつもの場所で止まる。
万年筆で書かれたサインが残るそのページを、彼女は眺めた。
何度も何度も、眺めた。
建物の外から出ると、彼女は上司へと電話をとりだした。
三度目のコールで出た上司が、興奮した様子で『どうだった?』と聞いてくる。彼女は出来るかぎり感情を抑えた声で答えた。
「やりました。彼のパイロットになった理由、そしていま委員長になっている理由、その二つを聞き出すことに成功しました」
『すごいじゃないか! うん、これはすごい、いい記事になるぞ』
「ありがとうございます。それで、一つだけお聞きしたいのですが――」
『今なら何でも答えるよ』
上司が調子よく言った。
「なぜ、私がこの記事の取材に選ばれたのでしょうか。もっと適切な人材ならいくらでも……」
『嫌だった?』
「いえ、嬉しかったです。彼は私の――目標ですから。でも、そういうことではなくて」
分かってるよ、と上司は軽いため息とともに言った。
『向こうの指定なんだ』
「え?」
『最初はなんども断られたんだが、何かのタイミングでお前の話が出て、そうしたら向こうから食いついてきた。名前を何度も確認されたよ。その名前になにか思い出でもあるんだろうなぁ』
「…………」
手が自然と力を失って、垂れ下がった。
――彼は彼女があのときの少女だと知っていた。そして、知っていてなお、まだ待っているのだ。
『おい、どうした?』
垂れ下がった手の先で、上司の困惑した声が聞こえた。
彼女はすっとそれを持ち上げ耳に当てる。
「あ、いえなんでもないです。ありがとうございました」
『あ、いや――』
早口で言うと、そのまま電話を切った。そしてそのまま電源も切る。
操作を行うその手は、小刻みに震えていた。それは、武者震いだった。ああ、いいだろう。待たれる側の心構えを、見せてあげようではないか。
彼女はビルへ向かってお辞儀をしてから、歩き出した。
――その一ヶ月後。
ケイレンス委員長のインタビュー記事は、大々的に報道され、世間で大きな反響を呼んだ。
その影で、インタビューを担当した若い女性記者が会社をやめていったことは、もちろん誰の知るところでもなかった。
《Fin》
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。もしよろしければ、一言でもコメントを残していただけると、飛び上がって喜びます。
週一と言いつつ、結局こんなにもズレこんでしまいました。
来週こそはきちんと期限を守って書いて行きたいです。