しらないところ
あやめは、ママに朝早く起こされて目をこすった。
ママが申し訳なさそうに言った。
「ごめんね。今日から保育園に行くから。」
「ほいくえん?」
「お友達がいっぱいいるところ。」
服を着せられながら、あやめは「ふーん」と言った。
……
あやめは、A型のベビーカーに乗っていた。2歳年下の弟「勇人」を背中から抱きかかえるようにして座っている。本当なら、お姉ちゃんのあやめは歩かなければならないのだが、ママはいつも勇人と一緒に乗せてくれる。
「あやめは勇人の面倒を見てくれてるもんね。」
ママはいつもそう言う。「めんどう」という意味はわからないが、ほめてくれているのはわかった。
…ママは黙ってベビーカーを押しながら歩いている。
いつも行く大型スーパーが見えた。
(おともだちがいっぱいいるところって、あそこかな。)
あやめはそう思い、うれしくなった。スーパーに行くたびに、ボールがいっぱいあるところで遊ぶ。今日も行くんだと思った。
だが、ママはそのスーパーの前を通り過ぎた。
「ママ?」
あやめは不思議に思い、ママに振り返りながら言った。
ママが「うん?」と言って、あやめに微笑んだ。
「あそこじゃないの?」
「あー…スーパーじゃないの。保育園ってとこ。」
「ほいくえん…」
「うん。もうすぐ着くよ。」
あやめは前を向いて、きゃっきゃとはしゃいでいる勇人を抱きしめ直した。
…あやめの心に何か、嫌な気持ちが広がっていた。
……
あやめは、勇人を抱くママに手を引かれ、大きな建物の中に入った。
あやめと同じような子どもたちがたくさんいる。皆、大人の人に手を引かれていた。
泣いている子がいる…。表情のない子もいる。嬉しそうにしている子もいた。
(ここがほいくえん…)
あやめはそう思った。知っている子は誰もいなかった。
…ママが「おはようございます」と言って、教室に入った。
「おはようございまーす!あやめちゃんねー!」
1人の女の人がそう言って、あやめに駆け寄ってきた。
「今日からよろしくね。ゆり先生です。」
「ゆり先生」はそう言って、手を握ってきた。あやめはとりあえず「にこっ」とした。
「じゃぁね。あやめ。お友達と仲良くね。」
ママは抱いていた勇人を横に降ろしてそう言うと、あやめを抱きしめた。
「後で迎えに来るからね。」
「???」
ママは、まだ何もわかっていないあやめに微笑むと、勇人を抱き上げて、背を向けて去って行った。
「!!」
あやめは体が動かなくなった。
「さ、あやめちゃん、こっちおいでー」
ゆり先生がそう言って、あやめの手をぎゅっと握った。
……
あやめは声を上げて泣いていた。
ママがあやめだけ独り置いて、どこかに行くなんて事は今までなかった。
(ママ、あやめを嫌いになったんだ!!)
あやめはそう思った。…だから勇人だけを連れて行ったんだ…そう思った。
「あやめちゃん、大丈夫よ。みんなもいるからね!」
あやめの周りに、子ども達が集まっていた。何か心配そうにあやめを見ている。
1人の男の子が、いきなりあやめの手を引いた。あやめはびっくりして男の子の顔を見た。
「あそぼ。」
男の子はそう言って、あやめをおもちゃ箱のところまで連れて行ってくれた。
……
お昼ご飯は、色とりどりだった。あやめはいっぱい泣いたため、お腹がぐうぐう鳴っていた。
「はい!お手手合わせて「いただきます!」」
ゆり先生のその声と共に、皆が「いただきます!」と言った。
あやめは、まわりを見渡した。皆、スプーンを持って、争うように食べている。
あやめもスプーンを取り、お味噌汁をすくって飲んだ。
美味しかった。
……
「はい、じゃぁお昼寝しましょうねー!」
ゆり先生が言った。あやめがぼーっとしていると、ゆり先生が駆け寄ってきた。
「あやめちゃんも、ママが持ってきてくれたふとんを引いてね。ほらこっち。」
ゆり先生は、あやめのかばんのあるところまで連れて行った。
あやめは、先生の取り出したふとんを持たされた。あやめが抱きしめると「こっちよ」と言って、あやめの背中をそっと押した。皆がもうふとんの上で寝ていた。あやめはゆり先生と一緒にふとんを置いた。そして自分もねころんだ。ふとんから、ママの匂いがした。…ゆり先生が毛布をかけてくれた。
あやめは、すぐに眠りに落ちた。
……
「あやめー」
目を開くと、ママの顔が見えた。
「ママ!」
(どこに行ってたの!?どうしてあやめを独りにしたの!?)
そう言いたかったが、何も言葉が出ずにママの顔を見上げていた。
…すると、ママの笑顔が怖い顔に変わっていった。
あやめは怒られると思い、ぎゅっと目を閉じた。
……
あやめは目を覚ました。皆の寝息が聞こえる。ゆっくり頭を傾けて周りを見渡した。
保育園の中だった。
あやめの目に、また涙があふれ出てきた。でも今度は声を出さなかった。涙があやめの頬を何度も濡らした。
……
「さ、皆、園庭に出てー!」
ゆり先生がそう言うと、皆「わーー!」と声を上げて園庭に飛び出した。
あやめも、ゆり先生に手を引かれて、ゆっくりと出た。
スコップを持っている子もいる。ボールを持っている子もいる。…だが、あやめはどうやって遊べばいいのかわからなかった。
「!!」
あやめは、園庭にぞろぞろと出てきた小さな子供たちを見て、目を見開いた。
「はやと!!」
勇人がいた。別の先生に手を引かれて、歩いている。
「はやと!はやと!」
あやめがそう言いながら勇人に駆け寄ると、勇人がうれしそうに目を大きく見開いた。
「あやめ!」
勇人が「ママ」「パパ」以外に言えるたった一つの言葉だった。
思わずあやめは勇人に抱きついていた。勇人もあやめの体を抱きしめている。
先生達がおかしそうに笑っていた。
……
あやめと勇人は2人きりで、砂遊びをしていた。
「はやと、じょうずじょうず!」
あやめは、お姉さんらしく勇人をほめた。勇人は嬉しそうに、あやめを見た。
勇人の頬に筋が入っているのが、あやめの目に見えた。
(はやとも泣いたのかな…)
あやめはそう思った。
(…大丈夫だよ、はやと。ママがいなくても、おねえちゃんがはやとと一緒にいるからね!)
あやめは、そう心の中で勇人に言った。
……
「さぁ、1歳児さん達はお帰りですよー!」
先生の1人がそう声を上げた。
そして、あやめと遊んでいた勇人の体を抱き上げた。
「はやと!?」
あやめは驚いて立ち上がった。その時、ゆり先生があやめの手をそっと引いた。
「さ、3歳児さんもお帰りですよ。」
「いやっ!はやと!」
「あやめ!」
先生に抱きかかえられた勇人が、あやめに泣きながら両手を差し出している。
「はやと!」
「あやめ!」
お互いそう泣きながら呼び合った。先生たちは何か笑いながら、勇人とあやめの距離を離していく。
(はやとが連れて行かれる!!)
だが、あやめもゆり先生に抱き上げられて、教室の中へ連れ込まれた。
……
あやめは、座り込んで泣いていた。勇人がどこに連れて行かれたのか、全くわからなかった。
ゆり先生は傍にいない。
…さっき遊んでくれた男の子が心配そうに自分を見つめている。
すると、違う男の子があやめのところに駆け寄って来た。
あやめが濡れた目を上げた。
「泣くなっ!」
男の子はそう言って、突然あやめの体を突き飛ばした。
「!!」
あやめはひっくり返り、床に頭を打ち付けた。
「たーくん!!!」
ゆり先生の声がした。あやめは打った頭を抱えて、声を上げて泣いた。
……
外が暗くなってきていた。
あやめは、ぼんやり大人の人に手を引かれて帰って行くお友達を見ていた。
…1人1人、少なくなっていく。
その時、勇人が先生に抱かれて入って来たのが見えた。
「!?はやと!」
あやめは思わずそう言って、床に降ろされた勇人の傍に駆け寄った。
「あやめ!」
勇人がそう言って、あやめに手を伸ばした。あやめは抱きしめた。
……
あやめと勇人は、2人で積み木遊びをした。
遊んでいる間、一生懸命積み木を重ねる弟の頭を何度もなでた。
「あやめちゃーん!はやとくーん!ママが来たよー!」
そんなゆり先生の声がして、あやめは驚いてドアを見た。
ママがいた。そして息を切らせながら、あやめ達のところへ駆け寄ってきた。
「ごめんねーあやめ、勇人!いい子だった?」
ママはそう言って、あやめの体を先に抱いた。
あやめは泣き出しそうになった。…だが、勇人の前で泣いたらダメだと思った。
勇人が「ママ!ママ!」と手を差し出している。
ママは、あやめからゆっくり離れると、勇人を抱き上げた。
「さっお家に帰ろう!あ、その前にスーパーで買い物しようね!」
ママはそう言うと、立ち上がりながらあやめの手を取った。
あやめは「うん!」と言って、ママの手を強く握り返した。