星の遺言
海に着いたのは、日が沈みはじめた頃だった。
昼間の熱をわずかに残した砂浜には、私たちのほかに人影がなく、波打ち際に沿って伸びる足跡も、寄せては返す波に少しずつ輪郭を崩されていた。水平線の近くでは、太陽が薄い雲の向こうに沈もうとしていて、海面には橙色の光が長く引き延ばされ、その光の端を、風に乱された波が細かく砕いていた。
「お母さん、海って、空の色になるんだね」
灯里が言った。
私は娘の指さす先を見た。空はまだ西の端に赤みを残していたが、頭上から東へ向かうにつれて青みを深め、海もまた、その色を映しながら、岸に近いところでは砂の色を透かした淡い緑に変わっていた。ひとつの海の中に、いくつもの時間が沈んでいるように見えた。
「空が海に映ってるんだよ」
「じゃあ、夜になったら、海も夜になるの?」
「そうだね」
答えると、灯里は納得したように頷き、波が足元まで来るのを待ってから、逃げるように後ろへ駆けた。濡れた砂に小さな足跡が残り、次の波がその半分を消した。娘はそれを面白がって、もう一度、波のほうへ走っていった。
私はその後ろ姿を眺めていた。七歳の子どもにとって、世界はまだ、見たものをそのまま信じていい場所なのだろう。海は空の色になり、足跡は波に消され、沈んだ太陽は明日の朝になればまた昇ってくる。そこに疑う理由はなく、疑う必要もない。
灯里がしゃがみ込んだのは、三度目に波から逃げたあとだった。
「お母さん、これ、なに?」
娘は濡れた砂の上から、黒い石を拾い上げていた。
手のひらに収まるほどの大きさで、丸みを帯びた表面には、夕日の光がほとんど映らなかった。周囲に散らばる石にも濡れたものはあったが、それらは薄い橙色や灰色の光を鈍く返していたのに、その石だけは、海の底から切り取られてきた夜の一片のように、光を吸い込んでいるように見えた。
「石じゃない?」
「でも、これだけ真っ黒だよ」
灯里は石を傾け、裏返し、指先で表面をなぞった。夕日を背にした娘の髪が、縁だけ金色に透けていた。私は石を受け取ろうとして手を伸ばしたが、娘は何か大切なものを見つけたときの顔で、それを両手に包み込んだ。
「持って帰っていい?」
私は足元の波を見た。潮が引いた砂浜には、細かな貝殻や流木が残されていたが、石の周囲には、これといって目を引くものはなかった。どこから流れ着いたのか、もともとこの浜にあったのか、私には分からなかった。
「危ないものじゃなければね」
そう答えると、灯里は嬉しそうに頷き、石を上着のポケットにしまった。
そのとき、水平線の太陽が雲の向こうへ沈みきった。
海に残っていた光は、波の動きに合わせて少しずつ細くなり、やがて岸辺から遠いところへ溶けていった。空にはまだ明るさが残っていたが、私たちの足元には、もう夕暮れの影が伸びはじめていた。
帰り道、灯里は何度もポケットの上から石を確かめていた。
私はその仕草を見ながら、娘が何かを拾って帰ることなど、これまでにも何度もあったと思った。貝殻や、形の変わった流木や、名前の分からない小さな生き物。子どもは大人が気にも留めないものを見つけ、それを宝物にする。
あのときの私は、黒い石もそのひとつにすぎないと思っていた。
娘が熱を出したのは、その三日後だった。
最初は風邪だと思った。小学校で感染症が流行していると聞いていたし、季節の変わり目には体調を崩す子もいる。けれど、灯里の熱は三日経っても下がらず、血液検査にも原因らしい異常は見つからず、精査目的に入院となった。その後も検査は続けられたが、医師の説明は次第に慎重になり、私は診察室で交わされる言葉よりも、説明を終えた医師がカルテを閉じるまでの時間から、事態が思わしくないことを読み取っていた。
灯里は七歳になったばかりだった。
「お母さん、これ、宇宙から来たのかな」
私は天文学者として、太陽系外縁天体の軌道と長周期彗星の運動を研究している。地球に落ちてくる天体についても、一般の人よりはいくらか知識があるつもりだったが、石を一目見て隕石だと判断できるほどの経験はなかった。
入院してからも、灯里は海岸で拾った黒い石を大事に持っていた。枕元に置いていたそれを、私に差し出しながら聞いた。
「これ、宇宙から来た石なのかな」
私は手のひらに載せられた石を見た。丸みを帯びた黒い表面には、光を吸い込むような鈍い艶があった。
「調べてみようか」
そう答えると、灯里は枕に頭を預けたまま、私の顔を見た。
「宇宙から来たって分かる?」
「調べてみないと分からないよ」
「綺麗な石だからきっと宇宙から来たよ。分かったら教えてね」
灯里は小さくうなずき、石を私に預けた。
研究室へ送った石は、地質学を専門とする同僚に分析された。元素組成や微量元素の分布、同位体比を調べた結果、地球上の既知の岩石とは異なる特徴が確認された。追加の検討を経て、地球外由来であることは確かめられたものの、既知の隕石群には明確に分類できず、どの天体から来たのか、その起源を特定するには至らなかった。
地球外由来であることが分かっても、それだけでは何も始まらない。母天体が分からなければ、どのような環境で形成され、どのような経路をたどって地球へ到達したのかを知ることもできない。比較できる試料が少ない以上、組成から推定できることにも限界があった。
分からないことを分からないままにしておくのは、科学の基本だ。
けれど、病室のベッドで眠る灯里を見ていると、その基本を守ることがひどく難しいものに思えた。
石を拾ったことと、熱を出したことのあいだに、何か関係があるのではないか。
そう考えるたび、私はその可能性を検討しようとした。けれど、三日という時間の近さは因果関係の証拠にはならない。石に触れたことが原因なのか、海岸で別の何かに感染したのか、それともまったく無関係なのか、いまの段階では判断できなかった。
地球外由来であることが分かった石も、母天体は特定されていない。どのような環境で形成され、どのような経路をたどって地球へ到達したのか、組成から推定できることには限界があった。
私は以前から取り組んでいた長周期彗星の研究を再開した。約二千五百年前、地球に何らかの影響を及ぼす天体現象が起きていた可能性を調べるためだった。
その年代に注目したのは、以前、共同研究者から送られてきた地中海沿岸の遺跡に関する報告書がきっかけだった。遺跡の近くで採取された堆積物の一部には、周囲とは異なる特徴を持つ層が確認され、年代測定では約二千五百年前という値が得られていた。ただし、局地的な洪水や火災、地形の変化などでも形成され得るもので、天体衝突を示す決定的な証拠はなかった。
報告書に記された微量元素の分布は、石の分析結果と似ているようにも見えた。だが、採取された地域も試料の条件も異なり、両者を直接比較することはできない。私は報告書の著者に連絡し、保存されている試料の追加分析が可能かどうかを尋ねた。
返事を待つあいだ、長周期彗星の軌道を数千年単位で遡る計算を進めた。観測期間の短さや軌道要素の誤差、彗星が太陽に接近した際に生じる非重力効果を考慮し、条件を変えながら複数のモデルを比較したが、特定の年代に地球へ接近したと断定できる天体は見つからなかった。
過去の軌道を復元するには不確実性が大きい。仮に彗星が物質を放出し、その一部が地球へ到達していたとしても、それだけで堆積層の形成や古代の災厄を説明できるわけではなかった。
私は計算結果を保存し、古代の記録に関する資料を開いた。
黒い石。それが隕石を指すのか、別の物質なのか、あるいは宗教的な象徴なのか、記述だけでは判断できない。記録の成立年代も、堆積層や灯里の拾った石との関連を裏づけるほど正確には定まっていなかった。
私は解釈の異なる論文をいくつか開き、問題の一節について研究者たちがどのような訳語を採用しているのかを比較した。ある研究者は物質としての石を指すと考え、別の研究者は、空から授けられたものという宗教的な表現に注目していた。欠けた箇所をどう補うかによって、文章の意味は変わってしまう。
そこに書かれているものが何であれ、現代の私たちが手にしているのは、長い時間を経て残った断片にすぎなかった。
私は画面を閉じた。
何かを知りたいと願うことと、何かを知るための根拠があることは違う。研究をしていれば、偶然に見つけたものに、類似した意味を与えたくなる。だが、類似は証明ではないし、説明できないものを説明できないままにしておくことも、研究の一部だ。
気がつくと、灯里は眠っていた。
額に触れると、まだ熱があった。枕元には、病院へ持ってきた絵本が開いたまま置かれている。最後に読んでやったページには、海の怪物と戦う英雄の絵が描かれていた。
灯里は、こうした物語が好きだった。
「お母さん、怪物って、本当にいたのかな」
石を拾った日の夜、寝る前に絵本を読んでいたとき、灯里はそう尋ねていた。
私は、昔の人々が見たものや聞いたことをもとに、さまざまな物語を作ったのだと答えた。空に現れた珍しい星や、海を襲った嵐、突然の病や洪水。理解できない出来事に名前を与え、後の世へ伝えようとしたのだろうと。
灯里は、絵本の怪物を指でなぞっていた。
「じゃあ、怪物は怖いものだったの?」
「そういうこともあったでしょうね」
「助けてくれる怪物もいた?」
私は少し考えてから、物語のなかには、最初は恐ろしいものとして現れても、最後には人を助ける存在になるものもいると答えた。
灯里は満足したように頷き、絵本を閉じた。
私はその会話を思い出しながら、病室の椅子に腰を下ろした。
アンドロメダとケートスの神話には、海岸に鎖でつながれた王女と、彼女を救う英雄が登場する。海の怪物が王国を脅かし、ペルセウスが現れて怪物を退ける。伝承には複数の異同があり、その成立過程をひとつに定めることはできない。
人間の力では抗いがたい脅威が現れ、それを退ける存在が語られる。似た構図はほかの神話にも見いだせたが、それが同じ出来事の記憶であるとは限らない。洪水や疫病、戦争の記憶からも、似た物語が生まれることはある。
灯里の熱が下がらない。
私は病室の椅子に座り、眠っている娘を見つめた。額に触れると、皮膚はまだ熱を帯びていた。呼吸に合わせて胸が小さく上下している。その動きを確かめているあいだだけ、私はほかのことを考えずにいられた。
けれど、目を離すと、考えが戻ってくる。
石を拾ったこと。熱が出たこと。研究室から届いた分析結果。古い堆積層と、断片的な記録。私はそれらを結びつけようとしていた。何かひとつでも原因が分かれば、灯里に起きていることを理解できるのではないか。そう考えている自分を、もう一人の自分が見ていた。
これは仮説ですらない。ただの妄想だ。
そう言い切れば、考えるのをやめられるはずだった。
私は椅子の背にもたれ、息を吐いた。空調の風が腕を撫でていったが、指先は冷えていた。背中には汗が浮き、シャツが肌に張りついている。眠れていないことも、食事をまともに取っていないことも、身体の不調を説明する理由にはなった。
それでも、身体のどこかが、何かを拒んでいた。
何かがおかしい。
その考えが浮かんだ瞬間、私は自分の思考を打ち消した。
何がおかしいのか、何を根拠にそう判断したのか、答えられるものはなかった。私は測定値を確かめるように自分の感覚を疑ったが、恐怖は数値に置き換えられず、疑ったからといって消えるものでもなかった。
女の勘、とでも呼べばいいのだろうか。
そう考えた自分に、私はわずかに顔をしかめた。母親だから分かるのだと考えれば、自分の恐怖に意味を与えることができる。けれど、そう名づけたところで、何かを確かめたことにはならない。
私は両手を握り、指先に力を込めた。
灯里が熱を出してから、私は何度も医師の説明を聞き、検査結果を確かめ、次に何をすべきかを考えてきた。研究なら、分からないことを切り分け、確かめられるものから手をつければいい。けれど、娘の病気を前にすると、分からないという事実を受け入れることさえ、何かを見捨てることのように感じられた。
私はノートを開き、確認された事実と推測を書き分けた。
地球外起源、確認済み。
母天体、未特定。
堆積層の形成要因、未確定。
古代の記録との関連、未証明。
神話との関連、未証明。
灯里の発熱との関連、根拠なし。
書き終えても、何も変わらなかった。
根拠がないことと、関係がないことは同じではない。けれど、関係がないと証明できないからといって、関係があると考えていいわけでもない。
そのあいだに、私が立っていた。
科学者としての私は、そこから一歩も進めなかった。
母親としての私は、そこから動くことができなかった。
窓の外で、夜が深くなっていた。
研究を続けるには、私の仮説を信じてくれる人ではなく、それを疑い、間違いがあれば指摘してくれる人が必要だった。
夜の病院のロビーで、私は、直人に電話をかけた。
自分の声がやけに響く。
彼は元夫であり、私と同じ研究者だった。結婚していたころ、彼は私の計算を何度も検証し、私も彼の論文を読んでは見落とした条件を指摘した。研究については互いの判断の甘さを見過ごせなかったが、研究を理解し合えることと、一緒に暮らし続けられることは違うと感じた相手だった。
電話がつながると、私は挨拶もそこそこに、石の分析結果から彗星の軌道計算、堆積層の報告、古代の記録と神話の比較まで、調べたことと考えている仮説を話した。
直人は途中で口を挟まずに聞いていた。
娘の発熱についても伝えた。石が地球外由来であることは確認されたものの、どの天体から来たのかは分からず、医学的にも石と発熱を結びつける根拠はない。それでも、私はその可能性を完全には捨てられずにいる、と。
「君は、その可能性を証明したいのか」
私はすぐには答えられなかった。
「分からない。ただ、何かを見落としている気がする」
問い返され、私は言葉に詰まった。
石の起源を知ることなのか。過去に何が起きたのかを確かめることなのか。それとも、灯里の熱に原因があるのなら、それを見つけ出すことなのか。
突拍子もない考えだということは、充分にわかっていた。それでも、私はただ自分の考えに固執しているだけなのだろうか。否定してほしいのか、それとも同意してほしいのか、自分でもわからなかった。
「灯里に、何が起きているのかを知りたい」
ようやくそう口にすると、直人はしばらく黙っていた。
「資料を送ってくれ。君の仮説を裏づけるためじゃない。何が分かっていて、何が分かっていないのか、最初から整理する。違う可能性も検討するし、必要なら君の考えを否定することになる」
「ありがとう」
測定結果と計算条件、まだ確かめられていない可能性。その境界を越えて、推測を事実として扱わないようにしてきたつもりだった。
けれど、灯里のことを考えると、何も分からないという言葉だけでは、手を離す理由にならなかった。
「私が間違っているなら、そう言ってほしい」
「わかった。灯里の熱は?」
「まだ下がらない」
答えながら、私はベッドに横たわる娘を見た。額にかかった髪を払ってやると、灯里は眠ったまま、わずかに顔を動かした。小さな手に触れれば、まだ熱が残っている。
「俺もそっちに行くよ」
直人の声に、私は返事をしなかった。
来てほしいと思った。病室にもう一人、灯里を知っている人間がいてくれたら、私は少しだけ眠れるかもしれない。けれど、彼がここへ来たところで、熱が下がるわけではなかった。
「感染するかもしれないから、今は研究してほしい」
電話の向こうで、直人が息を吐くのが聞こえた。
「研究よりも大事なことなのか?」
私はすぐには答えられなかった。灯里の手を握り、その小さな指が私の指に触れているのをみて、ふと思い出したことがあった。
「感染……。そういえば、二〇二五年にアテナイの疫病を再検討した論文が発表されていたわ。肺ペストの可能性も論じられていたけれど、原因はまだ確定していない。あの時代の地層と年代が近いの。もし、当時も未知の病原体が関わっていたとしたら……」
直人は何も言わなかった。
彼が求めているのは、研究への参加だけではない。灯里のそばにいることも、何もできない時間を一緒に過ごすことも、彼にとっては父親であることの一部なのだろう。私はそのことを理解していたつもりだった。それでも、彼に何をしてほしいかを考えるとき、私はいつも、彼が何を望んでいるかよりも、何をしてもらうべきかを先に考えてしまう。
「……ごめん。あなたの気持ちを無視しているわけじゃないわ」
ようやく、そう言った。
「まだ何も分かっていない。でも、もし私の考えていることに少しでも根拠があるなら、今のうちに確かめたいの。過去の天体現象と、そこに残された厄災の記録。それから、今、灯里に起きていること。どれも無関係なのかもしれない。でも、どうしても切り離して考えられないの」
口にしてみると、自分がどれほど乏しい根拠の上に立っているのかが分かった。私はそれ以上、何も言えなかった。
灯里の発熱。自分の発熱。黒い石。古代の記録。年代の近い堆積層。アテナイの厄災。
それらが同じ原因によるものだと示す証拠は、まだなかった。個々の事実を並べることはできても、それらをひとつの出来事として結びつける根拠はない。まして、二千年以上も隔たった過去の災厄と、いま目の前で起きている娘の病気とのあいだに、因果関係があるなどと主張できるはずもなかった。
「君は、何を隠している?」
それまで私の話に相槌を打っていた直人が、静かに尋ねた。電話の向こうで、わずかな沈黙があった。彼は私の話を遮らず、最後まで聞いてくれたが、それは私の考えを肯定しているという意味ではない。研究者として、確かめずにはいられないのだろう。
「石が地球外から来たこと。過去の堆積層に、通常とは異なる特徴が見つかっていること。古代の記録に黒い石が登場すること。それにアテナイの厄災を無理やりこじつけたにすぎない。それだけよ」
言葉が途切れた。自分で口にしてみると、どれも確かな事実として扱える段階には達していない。石の起源も、堆積層に残された物質の由来も、古代の記録が何を指していたのかも、まだ分かっていない。それでも、無関係だと切り捨てることができなかった。
直人の声は静かだった。
「でも、君はどうしても無視できないんだろう? 君が実際に目にしたことから生まれた疑念まで、切り捨てる必要はないと僕は思うよ」
「本当に?」
思いがけず、問いが口をついて出た。
電話の向こうで、直人が小さく笑った。
「Have the courage to follow your heart and intuition(自分の心と直感に従う勇気を持ちなさい).とジョブズも言ってるだろ?」
英語の言葉を引用する彼の声には、どこか照れくさそうな響きがあった。研究の話をしているときの直人なら、直感を根拠に結論を急ぐことを決して許さない。けれど、いま彼が言っているのは、直感を事実として信じろということではないのだろう。疑いを抱いた自分まで、証拠がないという理由だけで否定する必要はない。そう伝えようとしているのかもしれなかった。
その言い方が、少しくすぐったかった。かつての私たちなら、こんな言葉を引用するまでもなく、互いの考えのどこに根拠があり、どこに飛躍があるのかを確かめ合っていた。それでも、いまの直人は、研究者としての私だけでなく、娘の病気を前にして平静ではいられない私のことも見ている。
「僕は僕で、できることをするよ。だから、灯里のことも、何か分かったら連絡してくれ」
「分かった」
通話を終える前に、私は送付する資料の一覧をもう一度確認した。石の分析結果、堆積層についての報告、古代の記録に関する資料。いずれも、私の考えを裏づけるためではなく、何が分かっていて、何がまだ分かっていないのかを確かめるために送るのだ。
そう自分に言い聞かせながら、私は送信するファイルをひとつずつ選んだ。
「直人」
「何?」
呼び止めたものの、次に何を言うつもりだったのか、自分でも分からなくなった。
研究の話なら、まだいくらでも続けられた。石の分析についても、堆積層の年代についても、検証してほしいことは残っている。けれど、それ以外の何を伝えればよいのか、すぐには言葉が見つからない。
ただ、これが最後の通話になる予感がした。
「……ありがとう」
「礼を言われるようなことは、まだ何もしていないよ」
「そうね。でも、ありがとう」
私は小さく笑おうとしたが、うまくいかなかった。画面には送信を待つファイルの一覧が並んでいる。そこにあるものなら、名前を挙げることも、必要な理由を説明することもできるのに、いま口にしたいことには、どんな名前をつければいいのか分からなかった。
「澪……。君と灯里のことは」
直人はそこで言葉を切った。続きを待っていると、彼は何かを言い直すように、わずかに息をついた。
「……大事に思っているよ」
「ごめん。私も、あなたのことは大事に思っている。でも、妻としての役割を碌にに果たせない自分が嫌なの」
「そんなこと、する必要はなかったのに」
「そう思えたら、よかったんだけどね」
私は送信するファイルから目を離した。直人が何を言いたかったのかは分かっている。彼は、私に研究をやめてほしかったわけでも、灯里より自分を優先してほしかったわけでもない。少なくとも、そう言葉にしたことはなかった。それなのに私は、自分が彼の優しさに応えられていないと感じるたび、その埋め合わせをする代わりに、彼から少しずつ距離を取ってきた。
「いつまでも自分のことばかりで、ごめんね」
電話の向こうで、直人はしばらく黙っていた。
「……そうだったかな」
その問いかけに、私はすぐに答えた。
「そうだったよ」
電話の向こうで、直人が息をついた。
「充分、大事にしてくれていたよ」
私は顔を上げた。
「ただ、君はもっと僕を頼ってくれればよかったのに。いや、僕がそうさせなかったのかもしれないな」
彼の言葉を、私はすぐには受け取れなかった。
直人は、私に何かを諦めてほしいと言ったことはなかった。研究をやめてほしいとも、灯里より自分を優先してほしいとも、一度も口にしなかった。それどころか、私が研究に没頭しているときも、灯里のことで手いっぱいになっているときも、彼はそれを理解しようとしてくれていた。
それでも私は、妻として彼を支えられていないと感じていた。
仕事と灯里には、惜しみなく時間を使うことができた。二人のためなら、疲れていても、眠る時間を削っても、できることを探そうと思えた。けれど、直人に対しては、同じようにはできなかった。彼を大切に思っていなかったわけではない。むしろ、大切だからこそ、自分が彼に返せるものの少なさが、いつまでも心に引っかかっていた。
愛情は無限ではない。
あのとき私は、そう考えていた。仕事と娘に注いでいるものを、直人にも同じように分け与えることはできない。ならば、彼の人生を私の不足に巻き込むべきではないのだと。直人がそれを望んでいるかどうかを確かめるより先に、私は自分で答えを出してしまった。
「直人、私……」
言いかけて、口を閉じた。
あのとき告げた言葉を、いまさら撤回できるわけではなかった。仕事と灯里にしか愛情を注げない。あなたを大切に思っていても、妻としてあなたを支えることはできない。そう告げたのは私自身だった。
「今は灯里のことを考えよう」
直人はそう言った。
彼が何を思っているのか、電話越しの声だけでは分からなかった。それでも、私を責めようとしているのではないことだけは分かった。私が自分を責め続けていることも、彼が望んだわけではない理由で私が離れていったことも、直人は知っているのだろう。
それでも彼は、私を引き留めようとはしなかった。
私は目を閉じた。許されたのだとは思わなかった。彼が何を考えているのか、今度こそ分かったとも言えなかった。ただ、彼は私の言葉を待っていたのに、私は最後まで話せなかった。
「うん」
「資料が届いたら連絡する」
「お願い」
電話を切ると、病室には空調の音だけが残った。
私はしばらく、手にした携帯電話を見ていた。直人に何かを話そうとしたのに、最後まで言葉にできなかった。いまさら何を言えばよかったのか、私には分からなかった。彼が来てくれたらと思ったことも、来なくていいと思ったことも、どちらも嘘ではなかった。
私は携帯電話を伏せ、資料の整理に戻った。
石の分析結果には、測定条件と比較試料の限界を記した。堆積層については、年代測定の誤差と、天体現象以外で形成された可能性を添えた。古代の記録は原文の写真と既存の解釈を分け、神話の比較については、類似点だけでなく、伝承ごとの相違も記載した。
研究を誰かに託すというのは、答えを託すことではない。自分が正しいと信じた道筋を、別の人間に検証してもらうことだった。
直人が調べれば、私の仮説は否定されるかもしれない。石は地球外由来であっても古代の天体現象とは無関係かもしれないし、堆積層は地上の自然現象によって形成され、星座の物語は長い時間をかけて人々が作り上げたものにすぎないのかもしれない。
それでも、私は結果を知りたかった。
非常灯しかない病院のロビーで、資料の送信を終えると、私は椅子から立ち上がった。
病室に戻ると、ベッドの中では、灯里は眠っていた。
額に触れると、まだ熱があった。私は椅子をベッドのそばへ寄せ、娘の手を握った。小さな指が、私の指に触れたまま動かなかった。
窓の外は暗くなっていた。
夜空にあるものの正体を知るために、私たちは光が届くまでの時間を計算し、天体の軌道を推定し、残された物質から遠い過去を読み取ることができる。けれど、天体の位置を知ることと、それを見た人間が何を経験したのかを知ることは同じではなかった。
古代の人々が見たものを、彼らはどのように理解したのだろう。説明できない災厄に、怪物という名を与え、それを退けたものを英雄と呼んだのだろうか。伝承のなかで形を変えたものが、実際に起きた出来事の記憶を残しているのか、それとも人間が似た恐怖から似た物語を生み出しただけなのか、私には分からなかった。
私はもう一度、灯里の額に手を当てた。
熱はまだ下がっていなかった。
直人のもとへ送った資料から、何かが分かるかもしれない。私の考えが否定され、石も堆積層も古代の記録も、互いに無関係だったと判明するかもしれない。それでも、いま目の前にいる娘の苦しさが、私の理解を待ってくれるわけではなかった。
灯里が小さく身じろぎし、苦しそうに喉を鳴らした。私は身を屈め、額にかかった髪を払った。娘をそっと抱き寄せ、背中をゆっくり撫でていると、灯里は私の胸元に顔を寄せ、やがてまた静かに眠り始めた。
肩や膝の関節には、鈍い違和感があった。ときおり背筋を冷たいものが這い上がるような悪寒が走る。疲れが溜まっているだけでは説明できないと感じながら、私はその感覚に名前をつけることを避けていた。
名前をつければ、少なくとも自分が何を恐れているのか、分かったような気になれるのかもしれない。
私は娘を抱いたまま、窓の外の夜空を見上げた。
人々が理解できない災厄に、英雄と怪物という名前を与えただけだったのかもしれない。




