第5話 おっとり聖女と可愛い弟
キッチンに満ちていたのは、コトコトと静かに煮立つ鍋の音と、乳白色の湯気に溶け込んだ濃厚なシチューの香り――それだけではなかった。
背後から肌を刺すように伝わってくるのは、『剣聖』アリアの闘気。燃えるような紅の髪とルビーレッドの瞳が、獲物を逃すまいと獣のように細められている。
対する『大賢者』ルナの周囲では、青髪が揺れるたび、紫の瞳の奥で理性と独占欲が冷たく光り、濃密な魔力が火花のように弾けていた。
二人のSランク冒険者が、俺という「獲物」を挟んで、一歩も引かずに睨み合っている。
ここは俺の新しい家であり、フェルゼン王国の辺境の町にある、ささやかな平穏の象徴だったはずだ。だが今、その空間は明らかに戦場と化している。
「ユキはパーティのポーターだ。お前個人の専属になどさせんと言っているだろう、ルナ!」
アリアの声は怒気を帯びながらも真っ直ぐだ。剣を握らずとも、彼女の全身が戦意を放っている。
「……非論理的。ユキの料理は、私の生活……生存に関わる。私の傍に置くのが、最も合理的……」
ルナは淡々と告げるが、その足元に広がる魔力の圧は洒落にならない。理詰めの声音とは裏腹に、譲る気は皆無だ。
空気が軋む。
常人なら立っているだけで膝を折る重圧。レベル1の冒険者など、意識を保てるはずがない。
――表向きは、俺もそのレベル1だ。
俺は《偽装》の強度を維持しながら、ゆっくりと息を吐いた。レベル1600の実力を塗り潰し、ただのポーターとして振る舞うための仮面。その綻びを、決して見せるわけにはいかない。
(勘弁してくれ……。こんなところで暴れられたら、ハウスが物理的に崩壊する。俺のスローライフ計画が瓦解するのは御免だ)
亡国の王子――ルキーユ・ルド・アルトリア。
その名も力も捨て、俺はここで静かに生きるはずだった。アルトリア王国を滅ぼしたリゼルド帝国の影から身を隠し、誰にも気づかれず、目立たず、ただ穏やかに。
だが現実は、この有様だ。
緊張が臨界点に達しようとした、その瞬間。
「あらあら。二人とも、キッチンで何をそんなにムキになっているんですか?」
凛としていながら、春の陽だまりのように柔らかな声が、張り詰めた空気をすっと撫でた。
ふわり、と香りが変わる。
鉄と魔力の匂いに満ちていた空間が、清潔な石鹸と、干したてのシーツのような陽光の匂いに塗り替えられていく。
アリアの闘気が緩み、ルナの魔力の火花が静まる。
まるで高位の浄化魔法を浴びたかのように、場の殺気が霧散した。
「あ……フィーナ。おかえり……」
「……帰ったか」
振り返った先に立っていたのは、緩く編まれたプラチナブロンドの金髪を揺らし、サファイアブルーの瞳を細めて微笑む女性。
純白の聖職者服が、その豊満な肢体を淑やかに包み込み、清廉さと母性を同時に漂わせている。
Sランクパーティ『白銀の乙女』、最後の一人――『聖女』フィーナ。
「ただいま戻りました。あら、いい匂い。……もしかして、そちらの方は、アリアが連れてきた新しいポーターさん?」
優雅な足取りで近づく彼女に、俺は慌てて頭を下げようとする。だがその前に、フィーナは俺の手から、アリアが掴んでいたギルドカードをそっと取り上げた。
【ユキ:レベル1】
【職業:ポーター】
「……レベル、1……」
小さく呟いたその声に、明確な震えが混じる。
碧眼がゆっくりと潤み、彼女は壊れ物に触れるような眼差しで、俺を見つめた。
「まぁ……なんてことでしょう。こんなに若いのに、レベル1でポーターのお仕事を……。今まで、きっとお辛い思いをたくさんされてきたのですね」
次の瞬間、俺の視界は白に包まれた。
フィーナはためらいなく、俺をその胸の中へ抱き寄せる。
柔らかな感触と、聖女特有の温もり。甘やかな香りが、肺の奥まで満ちていく。
――危険だ。
敵の殺気よりも、刃よりも、この「無垢な庇護欲」のほうが、よほど厄介だと本能が告げる。
守られる立場を捨て、力を隠し、孤独に生きると決めたはずの俺の心が、じわりと緩む。
重すぎる母性が、警戒心を溶かしていく。
「大丈夫ですよ、ユキくん。もう安心です。このパーティは、みんな強くて優しいですからね」
指先が髪を撫でる。その仕草に、計算はない。ただ純粋な慈しみだけがある。
「これからは、私がお姉さんとして、あなたを精一杯可愛がって、守ってあげますから」
逃げ場がない。
アリアの直情的な守護とも、ルナの合理的な独占とも異なる、柔らかなのに抗えない包囲網。
「わっ、こらフィーナ! ユキにベタベタするな! 彼は私の護衛対象だ!」
「……違う。彼は私の『生存インフラ』。独占権は私にある」
二人が慌てて俺を引き離そうとするが、フィーナは微笑みを崩さず、穏やかに視線を向ける。
「あらあら。二人とも、ユキくんが困っていますよ。ねぇ、ユキくん? お腹が空きましたね。続きは食べながらにしましょう」
その一言に宿る聖女の「圧」。
理屈でも力でもない、絶対的な包容の力に、アリアもルナも毒気を抜かれたように黙り込んだ。
俺は解放され、再び鍋の前に立つ。木製の匙でシチューをすくい、三人分を丁寧に器へ注いでいく。湯気が立ちのぼり、部屋の空気がようやく日常へと戻っていく。
(……俺の計画では、目立たず、平穏に生きるはずだった)
最強の剣を振るい、世界を救う力を持つ彼女たち。
だがその実態は、料理一つで生活基盤が揺らぐポンコツ集団だ。
そして、その三者三様の好意が、ことごとく俺に集中している。
器を受け取った三人が、嬉しそうにシチューを頬張る。
紅の瞳が細まり、紫の瞳が満足げに瞬き、碧眼が幸せそうに微笑む。
その光景は、確かに穏やかだ。
だが同時に、俺にとっては世界で最も過酷な戦場でもある。
最強の力を隠した王子が、無自覚な三人の「お姉さん」に溺愛される日々。
湯気の向こうで笑う彼女たちを眺めながら、俺は胸の奥で静かに息を吐いた。
俺の望んだスローライフは、今日という日を境に、確実に別の形へと姿を変えたらしい。




