もどかしい二人と、もどれない二人
第一章 最悪の告白
三崎みさきは、人生がわりと運任せでできている人間だと思っている。
テストは山が当たるかどうかで決まり、部活は先輩に誘われたから入っただけで、進路も「なんとなく」で決めた。
そんな自分が、まさか――。
「……縁談、って何?」
夕食後のリビングで、みさきは箸を持ったまま固まっていた。
向かい側に座る父は、新聞を畳みながら淡々と言う。
「そのままの意味だ。将来を見据えた付き合いをしてほしい相手がいる」
「いやいやいや、令和だよ? 今」
思わず声が裏返る。
母は困ったように笑いながらお茶を注いだ。
「昔からのお友達の娘さんなの。お互いの親同士で話してね」
「勝手すぎない?」
「そう言うと思った」
父はため息をついた。
「だから条件を出す」
嫌な予感しかしない。
「一年以内に、自分で結婚したい相手を見つけてこい。それができたら、この話は白紙にする」
「……は?」
みさきは完全に思考停止した。
一年で結婚相手?
彼女すらいたことないのに?
「無理だって!」
「無理だと思うなら、縁談を受けろ」
即答だった。
母まで頷いている。
「みさき、案外モテるかもしれないわよ?」
「ないから!」
断言できる。
自分は地味だし、目立たないし、クラスでも空気寄りだ。
なのに一年で人生決めろとか、無茶にもほどがある。
「……わかったよ」
気づいたら、そう言っていた。
意地だった。
ここで引いたら、一生親の言いなりになる気がした。
「やってやるよ。一年で見つければいいんだろ」
「言ったな?」
「言った」
その瞬間、父は満足そうに笑った。
――この時点で、もう負けていたのだと後で気づく。
翌日。
みさきは教室の席で、深いため息をついていた。
「はあ……」
「重っ。朝からどうした?」
声をかけてきたのは、親友のはるとだった。
「聞いてくれ。俺、人生詰んだかもしれん」
「重いな」
事情を説明すると、はるとは腹を抱えて笑った。
「縁談!? 昭和かよ!」
「笑い事じゃない」
「でも一年猶予あるならチャンスじゃん」
「俺に?」
「うん」
はるとは腕を組んで考える。
「狙いは誰?」
「……考えてなかった」
「そこからかよ」
ため息をつかれた。
「まずは候補だろ。莉子、まほ、ミミあたりじゃね?」
みさきの脳裏に三人の顔が浮かぶ。
清楚で人気者の莉子。
明るくて距離が近いまほ。
帰国子女で美人なミミ。
どれも、自分には高嶺の花すぎる。
「無理だろ……」
「やらなきゃ終わりだぞ」
はるとの言葉は正論だった。
放課後。
みさきは勇気を振り絞って莉子に話しかけた。
「し、白石……」
「なに?」
笑顔が眩しすぎて直視できない。
結局、世間話で終わった。
まほには軽く流され、ミミには英語で返されて撃沈した。
帰り道、みさきは完全に折れていた。
「無理ゲーだろ……」
数週間が過ぎた。
努力はした。
話しかけた。
誘った。
でも、結果は惨敗だった。
しかも最近、気づいてしまった。
三人とも、別の誰かを見ている。
――七海だった。
成績優秀、容姿端麗、男女問わず人気者。
近寄りがたい存在。
「そりゃ勝てんわ……」
みさきは机に突っ伏した。
期限の日。
家のリビング。
みさきは正座させられていた。
「で?」
父が腕を組む。
「彼女は?」
「……いない」
沈黙。
「約束だな」
「……はい」
母が席を立つ。
「じゃあ、連れてくるわね」
「誰を?」
答えはなかった。
数分後、扉が開く。
「失礼します」
現れたのは、一人の少女だった。
ショートヘアで、凛とした雰囲気。
どこか見覚えがある。
いや、ありすぎる。
「……七海?」
クラスの人気者。
七海だった。
「紹介する」
父が言う。
「彼女がお前の婚約相手だ」
「は?」
脳が停止した。
七海は静かに微笑んだ。
「はじめまして……じゃないね。三崎くん」
その視線だけが、妙に熱を帯びていた。
みさきはまだ知らない。
この出会いが、地獄みたいな恋愛戦争の始まりだということを。
ここまでで、第1章としてしっかり使える構成になってる。
続きも書くなら、
第二章 「許嫁は、幼なじみだった」
三崎みさきは、朝からずっと落ち着かなかった。
昨日、両親から突然告げられた「許嫁がいる」という事実。その衝撃が、まだ頭から離れない。
(……ありえないだろ。令和だぞ)
ベッドの上で仰向けになりながら、何度目かわからないため息をつく。
恋愛経験はほぼゼロ。告白したことも、されたこともない。そんな自分に、いきなり結婚前提の相手がいるなんて、現実味がなさすぎた。
スマホを見ると、時刻は七時半。
「やば……」
慌てて布団から飛び起き、制服に袖を通す。
朝食をほとんど口にしないまま家を出ると、冬の空気が頬に刺さった。
通学路を歩きながらも、頭の中は許嫁のことでいっぱいだった。
(相手って、誰なんだよ……)
親は「そのうち会えばわかる」としか言わなかった。
はぐらかされているようで、余計に不安になる。
学校に着くと、すでに校舎は生徒たちでにぎわっていた。
「おーい、みさき」
背後から声をかけられ、振り向く。
親友のはるとだった。
「顔死んでるぞ。徹夜した?」
「いや……ちょっとな」
「ちょっとって顔じゃないけどな」
はるとは呆れたように笑う。
「どうしたんだよ。悩みなら聞くぞ?」
一瞬、言おうか迷ったが、結局黙って首を振った。
「いや、今はいい」
「なんだそれ。信用ねえな」
「そのうち話す」
そう言って、話題を切り上げた。
教室に入ると、いつも通りの光景が広がっている。
友達同士で騒ぐ声、机を叩く音、誰かの笑い声。
なのに、今日はどこか遠く感じた。
席に着いても、集中できない。
ぼんやり窓の外を眺めていると、前の席の女子が振り返った。
「みさき、おはよう」
七海ななみだった。
肩まで伸びた黒髪を、きれいにまとめている。整った顔立ちで、成績もよく、先生からの信頼も厚い。
クラスでも目立つ存在だ。
「あ……おはよう」
反射的に返事をする。
七海は、幼稚園からの幼なじみだった。
家も近く、小学生の頃はよく一緒に帰っていた。
けれど、中学に入ってからは自然と距離ができ、最近はほとんど話していなかった。
「今日、放課後ちょっと時間ある?」
七海は、周囲を気にしながら小声で言った。
「え?」
「大事な話があるの」
その表情は、どこか緊張しているように見えた。
「……うん、いいけど」
「じゃあ、屋上で」
そう言って、七海は前を向いた。
(なんだよ、大事な話って……)
胸の奥がざわつく。
嫌な予感と、妙な期待が入り混じっていた。
授業は、ほとんど頭に入らなかった。
チャイムが鳴るたびに、心臓が少しずつ速くなる。
そして放課後。
みさきは、一人で屋上へ向かった。
冬の屋上は寒く、人影はほとんどない。
すでに、七海はフェンスのそばに立っていた。
「……来てくれたんだ」
「約束したし」
近づくと、七海は一度、小さく息を吸った。
「ねえ、みさき」
「なに?」
「昨日……お母さんから連絡、なかった?」
その言葉に、心臓が跳ねた。
「え……?」
「やっぱり」
七海は、苦笑した。
「知らないんだよね。全部」
「え、何の話……?」
七海は、しばらく黙ったあと、ゆっくりと口を開いた。
「……私ね。みさきの許嫁なの」
世界が、止まった気がした。
「……は?」
「驚くよね。でも、本当」
七海は視線をそらしながら続ける。
「小さい頃に、親同士で決めたらしくて。ずっと前から」
「ちょ、ちょっと待って……」
頭が追いつかない。
「七海が? 俺の?」
「うん」
静かな肯定。
みさきは、言葉を失った。
(よりによって……幼なじみ……?)
確かに、昔はよく一緒にいた。
けれど、それはただの友達で。
そんな関係が、いきなり結婚相手になるなんて。
「……嫌?」
七海が、小さく聞いた。
「え?」
「私と……許嫁なの、嫌?」
その声は、わずかに震えていた。
「いや……そういうわけじゃ……」
慌てて否定する。
嫌、というより、混乱しているだけだ。
「ただ……急すぎて」
「……だよね」
七海は、少し寂しそうに笑った。
「私も、正直戸惑ってる。でも……」
そこで言葉を切り、みさきを見つめる。
「逃げたくないって、思ってる」
真っ直ぐな視線だった。
冗談でも、気まぐれでもない。
本気の目だった。
みさきは、胸の奥が締めつけられるのを感じた。
知らなかった。
七海が、こんな表情をするなんて。
「……俺は」
言葉を探しながら、続ける。
「まだ、どうしていいかわからない。でも……」
一度、深呼吸する。
「ちゃんと向き合うよ。逃げない」
七海の目が、わずかに見開かれた。
「……ほんと?」
「うん」
「……ありがとう」
小さな声でそう言って、七海は微笑んだ。
その笑顔を見て、みさきは思う。
(もう、普通じゃいられないんだな……)
昨日までの平凡な日常は、確実に終わっていた。
許嫁という名の関係が、二人の間に生まれた瞬間だった。
第三章 「仮恋人という名の距離」
七海が許嫁だと告げてきた、あの日の屋上から三日が経った。
けれど、みさきの生活は、まるで現実感を取り戻せずにいた。
授業を受けていても、ノートを取っていても、頭のどこかで七海の言葉が反響している。
『私ね。みさきの許嫁なの』
何度思い出しても、夢みたいだった。
(いや、夢ならよかったんだけどな……)
現実は、逃げ場なしで続いている。
教室に入ると、いつも通り七海は前の席に座っていた。
背筋を伸ばし、静かに教科書を開いている。
横顔を見るたび、妙に意識してしまう自分がいた。
(前は、こんなことなかったのに……)
今までなら、幼なじみとして気軽に話しかけられた。
でも今は違う。
「将来結婚するかもしれない相手」というフィルターが、勝手にかかってしまう。
結果、声をかけるタイミングを失う。
「……おはよう」
結局、出てきたのは小さな挨拶だけだった。
七海は振り返り、少し驚いたように目を瞬かせる。
「おはよう。珍しいね、みさきから」
「そ、そう?」
「うん。最近ちょっと距離あるし」
図星だった。
「……悪い」
「別に責めてないよ」
七海は微笑んだが、その笑顔はどこか控えめだった。
休み時間になっても、二人は以前のように話せなかった。
話題を探しては、途中で途切れる。
沈黙が増える。
(気まず……)
そんな様子を、はるとは見逃さなかった。
「なあ、お前ら、なんかあった?」
昼休み、購買パンをかじりながら聞いてくる。
「いや、別に」
「絶対ウソ」
はるとは七海にも視線を向ける。
「七海も元気ないしさ」
「……そんなことないよ」
七海は曖昧に笑った。
だが、はるとは納得しない。
「お前らさ、前もっと仲よかっただろ」
みさきは、内心ぎくっとする。
(言えない……よな、さすがに)
許嫁なんて、簡単に話せる内容じゃない。
「まあ、色々あるんだよ」
「ふーん?」
はるとは疑わしげだったが、それ以上は突っ込まなかった。
放課後。
みさきは、校門前で七海を待っていた。
今日は七海から「少し話したい」と言われていたのだ。
やがて、七海が友達と別れて歩いてくる。
「待たせた?」
「いや、今来たとこ」
二人で並んで歩き出す。
家の方向は同じなのに、こんなふうに一緒に帰るのは久しぶりだった。
「ねえ、みさき」
「ん?」
「最近……私たち、変だよね」
七海は、ぽつりと言った。
「……うん」
否定できなかった。
「前みたいに話せなくなってる」
「……俺のせいだ」
「え?」
「俺が、変に意識してるから」
正直に打ち明ける。
「七海のこと、急に『許嫁』って思ったらさ……どう接していいかわからなくて」
七海は、しばらく黙って歩いていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……私もだよ」
「え?」
「私も、ずっと意識してる」
足を止め、みさきを見る。
「前は友達だった。でも今は……違うでしょ」
その言葉に、胸が締めつけられた。
「だからね、考えたの」
七海は、少し照れたように視線を逸らす。
「私たち……仮でいいから、付き合ってみない?」
「……は?」
「仮恋人」
みさきは、思わず立ち止まった。
「な、なんでそうなる……」
「ちゃんと向き合うって言ってくれたでしょ?」
「言ったけど……」
「だったら、中途半端よりいいと思う」
七海の声は、静かだが強かった。
「逃げないで、ちゃんと知りたいの。みさきのことも、自分の気持ちも」
真正面から向けられる想い。
逃げ道はなかった。
(ずるいだろ……こんなの)
断れるわけがない。
「……期間は?」
「え?」
「仮ってことは、期限あるだろ」
七海は少し考えてから言った。
「……三か月」
「三か月……」
「その間に、無理だと思ったらやめよう」
「……わかった」
気づけば、頷いていた。
「ほんと?」
「うん。やるなら、中途半端にしない」
七海の表情が、一気に明るくなる。
「……ありがとう」
その笑顔に、胸が熱くなる。
(俺、何してるんだろ……)
でも、不思議と後悔はなかった。
翌日から、二人の関係は少しずつ変わり始めた。
朝は一緒に登校。
休み時間は自然と隣。
放課後も並んで帰る。
周囲もすぐに気づき始めた。
「え、みさきと七海って付き合ってんの?」
「いつから?」
「まじで?」
噂はあっという間に広がる。
ゆうたが、面白そうに寄ってきた。
「いやー、意外なカップル誕生だな」
「うるさい」
「でもお似合いだよ?」
七海は、少し照れながらも否定しなかった。
みさきは、その様子を見るたび、胸がざわつく。
(……これ、仮だよな?)
なのに。
七海と並んで笑う時間が、思った以上に心地よくて。
離れるのが、少しずつ怖くなっていく自分がいた。
三か月。
その期限が、やけに重く感じられ始めていた。
第四章 「広がる噂、揺れる日常」
みさきと七海が「付き合っているらしい」という噂は、思っていた以上の速さで学校中に広まっていった。
きっかけは、ほんの些細なことだった。
朝、並んで登校しているところを見られた。
昼休みに一緒に弁当を食べていた。
放課後、二人で帰る姿を写真に撮られた。
それだけで十分だった。
「ねえねえ、あの二人って本当なの?」
「もう公認でしょ」
「七海ってモテるのに意外だよね」
廊下や教室のあちこちで、そんな声が聞こえてくる。
みさきは、そのたびに居心地の悪さを感じていた。
(……目立ちすぎだろ)
今まで、クラスの中でも空気寄りだった自分が、急に注目される。
正直、落ち着かなかった。
一方、七海は比較的落ち着いていた。
噂話を向けられても、曖昧に笑って流す。
だが、時々見せる疲れた表情を、みさきは見逃していなかった。
「……大丈夫か?」
昼休み、人気の少ない場所で二人きりになったとき、みさきは小声で聞いた。
「うん。ちょっとだけ、疲れるけど」
「無理してない?」
「してない……って言ったら嘘かな」
七海は苦笑する。
「でも、覚悟はしてたから」
その言葉に、胸がちくりとした。
(俺は……覚悟できてたか?)
正直、流れに乗っただけだった気もする。
「ごめん」
思わず口に出た。
「え? なんで?」
「俺のせいで、余計に目立って」
七海は少し驚いたあと、ふっと笑った。
「優しいね。でも、私も選んだんだよ」
「選んだ?」
「仮でも、付き合おうって決めたのは私」
はっきりした声だった。
「だから、みさきだけの責任じゃない」
その言葉に、少し救われた気がした。
その日の放課後。
二人で帰ろうとすると、声をかけられた。
「七海」
振り向くと、そこに立っていたのは莉子だった。
長い髪をゆるく巻き、いつも完璧に整えた制服姿。
クラスでも人気の高い女子だ。
「……なに?」
七海は警戒気味に答える。
「ちょっと話せる?」
視線が、みさきにも向けられる。
「三崎くんも、一緒でいいよ」
「え、俺も?」
戸惑いながらも、断れずについていった。
場所は、中庭のベンチだった。
「単刀直入に聞くね」
莉子は腕を組みながら言う。
「二人って、本当に付き合ってるの?」
空気が、一気に張り詰める。
「……付き合ってるよ」
七海が先に答えた。
少しだけ、声が強い。
「そうなんだ」
莉子はにっこり笑った。
だが、その目は笑っていなかった。
「意外だな。三崎くんって、もっと優柔不断だと思ってた」
「……どういう意味?」
七海が問い返す。
「だってさ」
莉子は、みさきをちらりと見る。
「前、私とよく話してたよね?」
みさきは、ぎくっとした。
(あ……)
確かに、以前は莉子とよく話す時期があった。
特に深い意味はなかったが。
「それに、まほとも仲いいし、ミミとも連絡してるし」
「ちょっと待て……」
思わず声が出る。
「誤解だって」
「誤解かどうかは、本人次第でしょ?」
莉子は肩をすくめる。
「七海、大丈夫なの?」
試すような視線。
七海は、一瞬黙った。
だが、すぐにみさきを見て言った。
「……私は、信じてる」
はっきりとした声だった。
「みさきは、そんなことしない」
その言葉に、胸が熱くなる。
「……ありがとう」
小さくつぶやく。
莉子は、その様子を見て、つまらなそうに笑った。
「ふーん。仲いいんだ」
「用件それだけ?」
七海が冷たく聞く。
「うん、まあね」
莉子は立ち上がる。
「でもさ、覚えといたほうがいいよ」
「なにを?」
「三崎くん、意外と人気あるから」
そう言い残して、去っていった。
しばらく沈黙が続いた。
「……ごめん」
みさきが先に言った。
「俺、誤解されるようなことしてた」
「してないよ」
七海はすぐに否定する。
「話してただけでしょ?」
「でも……」
「私が信じるって言ったんだから」
その言葉は、思った以上に重かった。
(信じられるって……こんなに重いんだな)
帰り道。
二人は並んで歩いていた。
夕焼けが、街を赤く染めている。
「ねえ、みさき」
「ん?」
「仮恋人だけどさ……」
七海は、少し照れたように言う。
「ちゃんと、大事にしてほしい」
「……うん」
迷わず答えた。
「大事にする」
その約束が、どこまで守れるのか。
まだ、自分でもわからない。
けれど。
噂と視線に囲まれながら、二人の関係は少しずつ、本物に近づいていっていた。
第五章 「近づく影、揺れる想い」
四章での出来事以来、みさきは妙に周囲の視線を意識するようになっていた。
廊下を歩けば、ひそひそ声。
教室に入れば、ちらちらと向けられる視線。
(……完全に有名人じゃん、俺)
もちろん、いい意味でではない。
「七海の彼氏」という肩書きが、一人歩きしているだけだ。
当の七海は、相変わらず冷静だった。
噂に振り回されることもなく、勉強も委員会も手を抜かない。
その姿を見るたび、みさきは尊敬と同時に、申し訳なさを感じていた。
ある日の昼休み。
みさきが購買のパンを抱えて戻ろうとしたとき、後ろから声をかけられた。
「みさきー」
振り向くと、まほが手を振っていた。
明るい茶色の髪を揺らしながら、全力で走ってくる。
「久しぶりじゃん!」
「……そうだな」
まほとは、中学の頃に同じ部活だった仲だ。
距離感が近く、誰にでもフレンドリーなタイプ。
「最近さー、全然話してくれないよね」
「忙しくて」
「うそ。七海でしょ?」
即答だった。
「……まあ」
「やっぱりー」
まほは、むっとした顔をする。
「ねえ、今日放課後ヒマ?」
「え?」
「久々にゲーセン行こうよ」
「いや、今日は……」
七海と帰る約束がある。
そう言おうとした瞬間。
「彼女さん優先?」
にやっと笑われる。
「……うん」
「ふーん」
まほは腕を組んだ。
「変わったなあ、みさき」
「そうか?」
「うん。前はもっとフラフラしてた」
「ひどいな」
苦笑する。
「でもさ」
まほは急に真剣な顔になる。
「それ、幸せ?」
「え?」
「無理してない?」
思わぬ問いだった。
「してない……と思う」
正直、即答できなかった。
まほは、それを見逃さない。
「ほら。迷ってる」
「……」
「ねえ、たまには私とも話してよ」
少し拗ねた声だった。
「友達でしょ?」
「……そうだな」
約束するように頷いた。
その様子を、遠くから見ている人物がいた。
ミミだった。
帰国子女で、どこか浮いた雰囲気を持つ少女。
みさきとは、SNSでつながっている程度の関係だ。
放課後。
昇降口で七海を待っていると、声をかけられた。
「Yo」
「……誰?」
「ひど」
ミミは肩をすくめる。
「ミミだよ。忘れた?」
「あ……いや、忘れてない」
「ほんと?」
疑うような目。
「最近さ、既読スルー多くない?」
「……ごめん」
返す言葉がなかった。
「七海のせい?」
「違う」
即答する。
「ただ……忙しくて」
「ふーん」
ミミは腕を組んだ。
「ねえ、聞いていい?」
「なに?」
「七海と、本気?」
直球だった。
「……仮だけど」
「仮?」
ミミは眉をひそめる。
「なにそれ。中途半端」
「仕方ないだろ」
「よくないよ」
はっきり言われた。
「誰かと付き合うなら、覚悟持ちなよ」
胸に刺さる言葉だった。
そのとき、七海がやってきた。
「みさき」
「七海」
ミミは二人を見比べる。
「……なるほどね」
「なにが?」
「いや、なんでも」
ミミは軽く手を振った。
「じゃ、またね」
そう言って去っていった。
帰り道。
二人はしばらく無言だった。
「……さっきの子」
七海が切り出す。
「ミミだよ」
「仲いいの?」
「そこまでじゃ……」
歯切れが悪くなる。
七海は、少し黙ったあと、言った。
「最近、みさきの周り、女の子多くない?」
「……そうか?」
「うん」
声が低かった。
「正直、不安」
初めて聞く弱音だった。
「……ごめん」
「責めてない」
七海は首を振る。
「ただ、怖いだけ」
「なにが?」
「私だけが、本気になってたらどうしようって」
胸が締めつけられる。
「そんなことない」
思わず強く言った。
「俺だって……ちゃんと考えてる」
「……ほんと?」
「うん」
七海は、少しだけ安心したように笑った。
その夜。
みさきはベッドの上で天井を見つめていた。
まほの言葉。
『それ、幸せ?』
ミミの言葉。
『覚悟持ちなよ』
七海の言葉。
『怖いだけ』
頭の中で、何度も繰り返される。
(俺……何やってんだ)
誰も傷つけたくない。
だから、はっきりしない。
でも、その優柔不断さこそが、一番誰かを傷つけるのかもしれない。
三か月という期限が、少しずつ近づいている。
その重みを、みさきはようやく実感し始めていた。
第六章 「すれ違いと、決定的な誤解」
期末テストが近づき、校内の空気はどこか張りつめていた。
放課後の教室には、残って勉強する生徒の姿が増えている。
みさきも、その一人だった。
「……わからん」
数学の問題を前に、頭を抱える。
「はあ……」
ため息をついたとき、隣の席に誰かが座った。
「ここ、こうやって解くんだよ」
低く落ち着いた声。
顔を上げると、そこにいたのは淳だった。
同じクラスで、成績優秀、運動もできる。
女子人気も高い、いわゆる“完璧タイプ”だ。
「あ、ありがとう」
「最近、勉強してないだろ」
「……バレた?」
「顔に出てる」
淡々とした口調だった。
淳とは、そこまで親しいわけではない。
だが、なぜか最近よく話すようになっていた。
「七海と付き合ってから、浮かれてるんじゃない?」
さらっと言われ、むせる。
「ち、違うって」
「冗談」
淳は小さく笑った。
その様子を、教室の入口から見ている人物がいた。
七海だった。
(……なに、あれ)
楽しそうに話す二人。
みさきの、今まで見たことのない表情。
胸の奥が、ひりつく。
声をかけようとして、足が止まった。
(……邪魔かな)
そう思ってしまった自分が、悔しかった。
結局、何も言えずにその場を離れた。
その夜。
七海は、ほとんど眠れなかった。
ベッドに入っても、昼の光景が頭から離れない。
(あんな顔、私にはあんまり見せないのに……)
スマホを手に取り、みさきのトーク画面を開く。
「何してる?」と打っては消す。
「さっきの誰?」と打っては消す。
結局、何も送れなかった。
一方、みさきはそのことに気づいていなかった。
翌日。
昼休み、みさきはゆうたに呼び止められた。
「なあ、聞いた?」
「なにを?」
「七海、最近ちょっと機嫌悪くない?」
「……そうか?」
「昨日さ、淳と話してたって噂、流れてるぞ」
「は?」
耳を疑った。
「誰がそんな……」
「知らんけど、写真まで出回ってる」
「写真?」
スマホを見せられる。
そこには、放課後の教室で、みさきと淳が並んで座っている姿が写っていた。
距離が近く、笑っているようにも見える。
「……これだけで?」
「十分だろ」
ゆうたは肩をすくめる。
「七海の耳にも入ってると思うぞ」
胸がざわつく。
(やばい……)
放課後。
みさきは七海を探して校内を歩き回った。
だが、なかなか見つからない。
ようやく見つけたのは、図書室だった。
窓際の席で、一人本を読んでいる。
「七海」
声をかけると、びくっと肩が揺れた。
「……なに?」
視線を合わせない。
明らかに様子がおかしい。
「昨日のこと、聞いた?」
「……聞いたよ」
「誤解だって」
「誤解?」
七海はゆっくり顔を上げる。
「楽しそうだったね」
「違う」
「私より?」
その一言に、言葉を失う。
「そんなわけないだろ」
「でも……」
七海の声が震える。
「最近、私といるときより、他の人といるほうが楽しそうに見える」
「それは……」
否定したいのに、うまく言葉にできない。
沈黙が流れる。
七海は立ち上がった。
「……もういい」
「よくない」
みさきも立ち上がる。
「ちゃんと話そう」
「話したって、わからない」
「なんでだよ」
「信じたいのに……怖いの」
涙が、目に浮かんでいた。
「また、置いていかれそうで」
胸が締めつけられる。
「俺は、そんなことしない」
「証拠ある?」
「……」
答えられなかった。
七海は、鞄を持つ。
「少し、距離置こう」
「え……」
「頭冷やしたい」
そう言って、図書室を出ていった。
取り残されたみさきは、呆然と立ち尽くす。
(……最悪だ)
その日の夜。
七海から、短いメッセージが届いた。
『しばらく、連絡しないで』
画面を見つめたまま、指が動かない。
返したい言葉は山ほどあるのに。
何も、打てなかった。
三か月の期限が、初めて「終わり」に見えた瞬間だった。
第七章 「独占と、涙の告白」
七海から「連絡しないで」と言われてから、三日が過ぎた。
たった三日。
なのに、みさきには三週間くらいに感じられた。
朝、一緒に登校しない。
休み時間も話さない。
放課後も別々。
教室にいるのに、まるで別の世界にいるみたいだった。
(……きつい)
正直、想像以上だった。
七海がいないだけで、こんなに落ち着かなくなるとは思わなかった。
話しかけたい。
謝りたい。
誤解だって伝えたい。
でも、拒まれている以上、踏み込めない。
そんな状態が続く中、事件は起きた。
昼休み。
みさきが一人で弁当を食べていると、まほが隣に座ってきた。
「ねえ」
「……なに?」
「最近、元気ないね」
「まあな」
「七海と、喧嘩したんでしょ」
図星だった。
「……なんで知ってるんだよ」
「見てればわかるよ」
まほはため息をつく。
「みさきってさ、ほんと鈍いよね」
「悪かったな」
「悪口じゃないって」
そう言ってから、少し真剣な顔になる。
「七海、泣いてたよ」
「……え?」
心臓が跳ねた。
「昨日、トイレで。友達に慰められてた」
「……」
頭が真っ白になる。
(俺のせいだ……)
「ねえ」
まほが続ける。
「ちゃんと話しなよ。逃げないで」
その言葉は、胸に強く刺さった。
放課後。
みさきは意を決して、七海を探した。
昇降口、図書室、委員会室。
どこにもいない。
ようやく見つけたのは、体育館裏だった。
一人でベンチに座り、スマホを見つめている。
「……七海」
声をかけると、びくっと肩が揺れた。
ゆっくり振り向く。
「……なに?」
冷たい声だった。
「少し、話させて」
「話すことない」
立ち上がろうとする。
「待って」
反射的に、手首をつかんだ。
「……離して」
「ごめん。でも……聞いてほしい」
七海は、しばらく黙っていたが、やがて力を抜いた。
「……五分だけ」
「ありがとう」
二人はベンチに並んで座る。
沈黙が流れる。
先に口を開いたのは、みさきだった。
「淳とは、なんでもない」
「……知ってる」
「え?」
「頭では、わかってる」
七海は俯いたまま言う。
「でも、感情がついてこないの」
震える声。
「怖くて、不安で……どうしていいかわからなかった」
「……」
「私さ」
七海は、ぎゅっと拳を握る。
「みさきのこと、好きすぎるんだよ」
その言葉に、息をのむ。
「仮とか、期限とか……本当は嫌だった」
「七海……」
「でも、嫌われたくなくて、我慢してた」
涙が、ぽろりと落ちる。
「他の子と話してるだけで、胸が苦しくなる」
「笑ってるだけで、取られる気がして」
「……独占欲、強すぎだよね」
自嘲するように笑う。
みさきは、胸が締めつけられた。
(俺、何もわかってなかった)
「……ごめん」
深く頭を下げる。
「俺、七海の覚悟に甘えてた」
「……」
「仮だからって、逃げ道作って」
「本気になるの、怖かった」
顔を上げる。
「でも……今は違う」
七海を真っ直ぐ見る。
「俺も、七海のこと好きだ」
はっきり言った。
逃げずに。
「……え?」
七海が目を見開く。
「好きだよ。ずっと」
「今まで、言えなかっただけで」
胸が熱くなる。
「七海が泣くくらいなら、俺は何でもする」
「独占したいなら、していい」
「俺は、七海の彼氏だ」
七海の目から、涙があふれ出す。
「……ずるい」
「なにが」
「そんなこと言われたら……」
声を詰まらせる。
「離れられなくなる」
「離れるつもりない」
即答だった。
七海は、しばらく泣いたあと、ようやく笑った。
「……じゃあ、条件」
「条件?」
「もう『仮』は禁止」
「……え」
「期限もなし」
じっと見つめてくる。
「それでも、いい?」
胸が高鳴る。
「……いいに決まってる」
「ほんと?」
「うん」
七海は、小さく息を吸い、宣言するように言った。
「じゃあ、みさきは私の」
「誰にも渡さない」
真剣な表情だった。
「……独占宣言?」
「そう」
少し照れながらも、はっきり言う。
みさきは、思わず笑ってしまった。
「なに?」
「いや……可愛いなって」
「もう……」
頬を赤らめて、軽く腕を叩く。
夕暮れの体育館裏で、二人は並んで座っていた。
すれ違いも、不安も、完全には消えない。
それでも。
逃げずに向き合う覚悟だけは、確かに生まれていた。
二人の関係は、この日から「本物」になったのだった。
第八章 「約束の記憶」
七海は、久しぶりに穏やかな気持ちで朝を迎えていた。
カーテンの隙間から差し込む光が、部屋をやわらかく照らしている。
(……ちゃんと、話せてよかった)
昨夜のことを思い出し、胸がじんわり温かくなる。
体育館裏での言葉。
『俺も、七海のこと好きだ』
何度思い返しても、夢みたいだった。
ベッドから起き上がり、鏡の前で髪を整える。
いつもより、少しだけ丁寧に。
(今日は……一緒に行けるかな)
スマホを見ると、みさきからメッセージが届いていた。
『おはよう。一緒に行こう』
短い文なのに、心臓が跳ねる。
『うん、行く』
すぐに返信した。
家を出ると、いつもの電柱の前に、みさきが立っていた。
「おはよう」
「おはよう」
ぎこちないけれど、どこか照れくさい空気。
二人で並んで歩き出す。
「……昨日、ちゃんと眠れた?」
みさきが聞く。
「うん。久しぶりに」
「俺も」
笑い合う。
その瞬間、七海の胸に、懐かしい感覚がよみがえった。
(……あの頃と、同じだ)
まだ何も知らなかった、幼い日の記憶。
七海とみさきは、同じ幼稚園に通っていた。
家も近く、親同士も仲が良かった。
自然と、一緒に過ごす時間が増えた。
「みさき、まってー」
小さな七海は、いつも後ろを追いかけていた。
「おそい」
ぶっきらぼうに言いながらも、必ず立ち止まって待ってくれた。
二人のお気に入りは、近くの小さな公園だった。
古いブランコと、低い滑り台しかない場所。
でも、二人にとっては宝物だった。
「ななみ、ここすわろ」
「うん」
砂場の縁に並んで座り、お菓子を分け合った。
「これ、あげる」
「ありがとう」
そんな何気ないやり取りが、楽しくて仕方なかった。
ある日、突然、雨が降り出した。
傘を持っていなかった二人は、公園の東屋に逃げ込んだ。
「かえれない……」
泣きそうになる七海。
「だいじょうぶ」
みさきは、自分のハンカチを差し出した。
「これ、かぶろ」
二人で頭に乗せ、くっつくようにして雨をしのいだ。
小さな肩が、頼もしく見えた。
(……あのときから)
七海は、ずっとみさきを特別だと思っていた。
小学生になると、二人は同じクラスになった。
席も近く、毎日のように話していた。
だが、七海は内気で、友達づくりが苦手だった。
クラスになじめず、一人でいることも多かった。
そんなとき。
「七海、いっしょにやろ」
みさきは、当たり前のように声をかけてくれた。
ドッジボールでも、図工でも、掃除でも。
いつも隣にいた。
ある日、男子にからかわれたことがあった。
「ななみって地味じゃね?」
「しゃべんないし」
陰で聞いてしまい、七海は泣きそうになった。
そのとき。
「うるさい」
みさきが、前に出た。
「七海は、やさしいし、すごいんだぞ」
真剣な顔だった。
周りは驚き、黙り込んだ。
七海は、その背中を一生忘れないと思った。
(……守ってくれた)
中学に入ると、少しずつ距離ができた。
クラスも別れ、友達も増えた。
みさきは明るいグループに入り、七海は勉強中心の生活になった。
話す機会は減った。
それでも、遠くから見てしまう。
楽しそうに笑う姿を。
(好きだって……言えなかった)
怖かった。
関係が壊れるのが。
だから、気持ちを胸にしまい続けた。
許嫁だと知ったとき。
正直、驚いた。
でも同時に、少しだけ嬉しかった。
(……運命、なんて信じてないけど)
それでも。
もう一度、近づくきっかけをもらえた気がした。
現在。
通学路の角で、二人は立ち止まった。
「どうした?」
みさきが聞く。
「……ねえ」
七海は、少し迷ってから言った。
「私、ずっと前から好きだった」
「……え?」
「幼稚園のころから」
みさきは、言葉を失う。
「そんな……全然気づかなかった」
「でしょ」
苦笑する。
「鈍すぎ」
「……ごめん」
「いいよ」
七海は、そっとみさきの袖をつかむ。
「でも、今は伝えられた」
「それで、十分」
みさきは、照れながらも言った。
「……俺もさ」
「七海がそばにいるの、当たり前すぎて」
「失いかけて、やっと気づいた」
七海は、胸がいっぱいになる。
長い時間をかけて、やっとたどり着いた場所。
二人の過去は、今につながっていた。
そして、これからの未来へと、静かに続いていくのだった。
第九章 揺れる選択と真実の行方
夜の風は、思っていたよりも冷たかった。
みさきは駅前のベンチに座り、両手でコートの袖を握りしめていた。街灯の光が、濡れたアスファルトに反射して、ぼんやりと揺れている。
あの日から、もう三日が経っていた。
はるとの言葉を聞いて以来、みさきの心はずっと落ち着かなかった。
「全部、俺のせいなんだ」
そう言ってうつむいた彼の横顔が、頭から離れない。
ゆうたや健介、ななみ、淳、ミミ、まほ、莉子。みんなが関わったあの出来事。その中心にいたのが、はるとだったという事実。
そして、それを知らずに過ごしてきた自分。
みさきは、深く息を吸い込んだ。
「……逃げてばかりじゃ、だめだよね」
小さくつぶやく。
今日は、はるとと話すと決めていた。
スマートフォンを取り出し、メッセージ画面を開く。
『今から会える?』
送信ボタンを押すまでに、数秒かかった。
既読がつくまで、さらに長く感じられた。
——既読。
すぐに返信が来た。
『……駅前? 行く』
短い言葉だったが、その裏に迷いがあることは、みさきにも分かった。
十分ほどして、はるとが姿を現した。
以前より少し痩せたように見える。目の下には薄く影ができていた。
「……久しぶり」
「うん」
二人は向かい合ったまま、しばらく黙っていた。
先に口を開いたのは、はるとだった。
「……ごめん。俺、本当は……」
「うん。全部、聞きたい」
みさきは、はっきりと言った。
逃げないと決めたから。
はるとは一瞬、驚いたように目を見開き、それからゆっくりとうなずいた。
「最初は、軽い気持ちだったんだ。淳に頼まれて……ちょっと手伝っただけのつもりで。でも、だんだん大きくなって……」
彼は言葉を選びながら、過去を語り始めた。
裏で動いていた計画。情報の隠蔽。ミミやまほを巻き込んでしまったこと。莉子を傷つけたこと。
「止めようと思った。でも、怖くて……」
声が震える。
「全部失うのが、怖かった」
みさきは黙って聞いていた。
胸が苦しくなる。
怒りよりも、悲しさのほうが大きかった。
「……私ね」
みさきは、ゆっくりと口を開いた。
「信じてた。はるとを」
はるとは唇をかみしめた。
「うん……」
「でも、今でも……嫌いになれないの」
その言葉に、はるとは顔を上げた。
「みさき……?」
「許せない部分もある。正直、すごく悩んだ。でも……一人で抱え込んでたんだって思うと……」
みさきは、視線を夜空に向けた。
星はほとんど見えない。
それでも、どこかで確かに光っている。
「私は、逃げないで向き合いたい」
はるとの目に、涙が浮かんだ。
「……俺、そんな資格ないよ」
「資格とかじゃない」
みさきは、首を振った。
「これからどうするか、でしょ」
そのとき、背後から声がした。
「やっと話してるじゃん」
振り向くと、ゆうたと健介が立っていた。少し離れたところに、ななみと莉子の姿も見える。
「みんな……」
「心配だったんだよ」
ななみが苦笑する。
「はると、一人で潰れそうだったし」
健介が腕を組みながら言った。
「過去は消せない。でも、責任は取れる」
ゆうたも静かに続ける。
はるとは、仲間たちを見回した。
「……俺、全部話す。逃げない。ちゃんと向き合う」
その声には、以前の弱さはなかった。
みさきは、そっと微笑んだ。
「それでいい」
少しずつでいい。
間違えたなら、やり直せばいい。
その覚悟があれば、人は変われる。
帰り道、みさきは一人で歩きながら考えていた。
未来はまだ不安定で、何が起こるか分からない。
それでも。
誰かと向き合い、傷つきながらでも進んでいくこと。
それが、自分の選んだ道だ。
スマートフォンが震えた。
はるとからのメッセージだった。
『ありがとう。ちゃんと生き直す』
みさきは、画面を見つめてから返信した。
『一緒に、前に進もう』
夜風は冷たいままだった。
それでも、胸の奥には、確かな温もりがあった。
第十章 それぞれの未来へ
春の訪れは、思っていたよりも早かった。
校舎の裏に並ぶ桜は、まだ満開には遠いが、淡いピンク色のつぼみを膨らませている。
みさきは、その下をゆっくりと歩いていた。
あの夜から、一か月が過ぎていた。
はるとは、すべてを公にした。
淳と共に関わっていた不正の件も、情報操作のことも、隠していた事実も、すべてを正直に話した。
当然、代償は小さくなかった。
活動停止。責任追及。周囲からの厳しい視線。
それでも、彼は逃げなかった。
「全部、自分で背負うって決めたから」
そう言って、真正面から向き合っていた。
みさきは、その姿を遠くから見守ってきた。
支えることしか、できなかったけれど。
それでも、それでいいと思えた。
今日、すべてが一区切りつく。
そう聞かされていた。
体育館では、関係者を集めた説明会が行われる予定だった。
事実の最終報告と、処分の発表。
はるとにとって、最大の試練の日だ。
入口の前で、みさきは立ち止まった。
胸が締めつけられる。
「……大丈夫」
自分に言い聞かせるようにつぶやく。
そのとき、背後から声がした。
「みさき」
振り返ると、ななみと莉子がいた。
「一緒に入ろ」
ななみが、そっと腕を引く。
「うん」
三人で体育館に入ると、すでに多くの人が集まっていた。
前方には、はると、淳、ゆうた、健介、ミミ、まほが並んで座っている。
はるとは、みさきを見つけると、小さくうなずいた。
それだけで、十分だった。
説明会は、重苦しい空気の中で始まった。
責任者が淡々と事実を読み上げていく。
不正の経緯。隠蔽の過程。被害の範囲。
一つひとつが、はるとの胸に突き刺さっていくのが分かった。
そして、最後に処分が告げられた。
「……はるとは、当面の活動停止および、資格停止とする」
ざわめきが広がる。
はるとは、静かに立ち上がった。
「……はい」
その声は、震えていなかった。
続いて、淳にも処分が下される。
重い結果だった。
すべてが終わり、解散が告げられたあとも、多くの人が席を立てずにいた。
みさきは、しばらく動けなかった。
胸がいっぱいで、息が詰まりそうだった。
外に出ると、春の風が吹き抜けた。
はるとは、体育館の裏に立っていた。
一人で、桜の木を見つめている。
みさきは、ゆっくり近づいた。
「……終わったね」
「うん」
はるとは、少し笑った。
「正直、怖かった。でも……逃げなくてよかった」
「うん」
みさきも、うなずく。
「これから、どうするの?」
しばらく沈黙したあと、はるとは答えた。
「一から、やり直す。時間かかっても」
「そっか」
みさきは、桜のつぼみを見上げた。
「私もね、自分の道、ちゃんと考えたい」
「みさきは、もう十分頑張ってるよ」
「……まだ足りない」
二人は、並んで歩き出した。
校舎の外れまで来たとき、ゆうたたちが待っていた。
「やっと来た」
健介が、軽く手を振る。
「一区切りだな」
ゆうたが言う。
「これで終わりじゃないけどね」
ミミが笑う。
「ここからだよ」
まほも、うなずいた。
淳は、少し離れたところで立っていた。
みさきは、一瞬迷ってから、声をかけた。
「……淳」
彼は顔を上げた。
「ごめん」
短い一言だった。
それだけで、十分だった。
夕方、みんなで河川敷に向かった。
オレンジ色の空が広がっている。
川面がきらめいていた。
「昔さ」
莉子が言った。
「こんなふうに集まって、何でも話してたよね」
「懐かしいな」
ななみが笑う。
「あの頃に戻れたらって、思ってた。でも……」
はるとは、ゆっくりと言った。
「戻れなくても、前には進めるんだな」
みさきは、その言葉にうなずいた。
「うん」
沈黙が流れる。
でも、それは心地よい沈黙だった。
やがて、みんなが帰り始めた。
最後に残ったのは、みさきとはるとだった。
夕焼けは、もう薄紫に変わっている。
「みさき」
「なに?」
「……ありがとう。最後まで、そばにいてくれて」
みさきは、少し照れながら答えた。
「当たり前でしょ」
はるとは、深く息を吸った。
「俺さ……もう一度、ちゃんと好きって言っていい?」
みさきは、驚いて目を見開いた。
そして、静かに笑った。
「……逃げないなら、いいよ」
「逃げない」
即答だった。
二人は、そっと手をつないだ。
遠くで、電車の音が響く。
世界は何も変わらないようでいて、確実に動いている。
失敗も、後悔も、涙も。
すべてを抱えながら、人は前に進む。
みさきは、はるとの手の温もりを感じながら、心の中でつぶやいた。
ここからが、本当のスタートだ。
二人の未来は、まだ白紙だ。
でも、その白紙に、これからたくさんの物語を書いていける。
そう信じていた。




