第1部 第9話 渚の聖灰会
王都の再編から三日後。
海沿いの街リミエへ向かう街道は、朝もやの中で湿っていた。
馬車の車輪が砂を弾き、潮風が頬を撫でる。
王都の重苦しい石の匂いとは違い、ここは塩と海藻の匂いが混じる。
少しだけ、息がしやすい。
(けれど、今度の会談は“空気”を読めば終わる話じゃない)
鴉の持ってきた羊皮紙──《再会を。次は海で》──を思い出す。
アルガスは、死ななかった。
むしろ、あの塔の夜で、俺を“門”として認めたのだろう。
王からは「交渉せよ」と命じられた。
武力ではなく、言葉で決着をつけろと。
(俺にとって、これが一番の戦いかもしれない)
リミエの港町は、朝から賑わっていた。
魚の匂い、干物の匂い、遠くで響く波の音。
村で暮らした日々の感覚が少し戻る。
だが同時に、胸の奥でざらつく感覚があった。
この海は、美しいだけじゃない。
かつて、北方戦役の折に、千の死体を呑んだと聞く。
潮は記憶を消さない。
海もまた、灰のように“履歴”を溜め込む。
(海は境界だ。大地と大地のあいだ。
そして今日、俺はその境界に立つ)
浜辺に着くと、すでに彼らは待っていた。
灰色の外套、顔を隠したフード。
十人。円を描くように立ち、波打ち際の砂に足跡を残している。
その中央に、アルガスがいた。
フードを脱ぎ、潮風に髪を揺らしている。
「来たか、リュシアン」
声は落ち着いていた。
だがその瞳は、あの日よりさらに深い灰色をしていた。
「呼んだのはお前だろう。用件は」
アルガスが顎を動かすと、周囲の外套の者たちが一斉に膝をついた。
潮風が止まり、世界が少し狭くなる。
「我らは、境界を“引き直す”議を開いている。
王国は古い。枠組みは腐り、祈りは形骸化した。
お前はその証人であり、鍵でもある」
彼らの提案は単純だった。
王都を、古い秩序ごと沈めろ。
第三の目で見た“今”を基に、新しい王都を“海の上に”築け。
心臓が一瞬止まった。
「沈める……?」
「そうだ。過去は灰になった。
灰は礎になるが、古い礎に積み重ねればまた腐る。
ならば、一度すべてを流せばいい」
海の匂いが強くなる。
頭の奥で、王都の灯がよぎる。
再編で汗を流した人々の顔、エリナの笑顔、セリーヌの誓い。
(全部、無駄にしろというのか)
胸の奥で怒りが広がるが、同時にほんの一瞬、魅力を感じた。
すべてを流せば、確かに均一で美しい“白紙”になる。
(だが、それでは村も、あの焚き火の夜も、俺が積み重ねてきた時間も、全部消える)
指先が震えた。
怒りとも、恐怖とも、惜しさともつかない感情。
アルガスが一歩踏み出す。
「リュシアン。
秤を壊すと言ったな。
ならば、我らと共に“海の秤”を作れ」
俺は目を閉じた。
脳裏に第8話の決戦で見た第三の目が浮かぶ。
都市が自分を見た瞬間。
あれは、死ではなく、誕生だった。
「秤は作る。だが沈めはしない」
瞼を開く。
風が戻り、波が音を立てる。
「海は境界だ。だが、王都はすでに境界を学んだ。
今度は海を、王都と繋ぐ。
沈めるのではなく、橋をかける」
円陣の外套の者たちがざわめき、砂に印を刻み始める。
海が不自然に静まり、引き潮のように後退する。
「拒むなら、力ずくで通す!」
アルガスが叫び、灰色の波が押し寄せる。
俺は杖を掲げ、詠唱を開始する。
「灰視、展開! 街路の記憶、海に接続!」
第三の目が空に開き、光が海面へと伸びる。
砂に刻まれた印を一つずつ“読み換え”、意味を反転させる。
波が止まり、灰が光に変わり始める。
脳裏に、村人たちの声、王都の喧騒、セリーヌの笑顔が次々に流れる。
そのすべてが俺の背中を押す。
(これはもう、復讐ではない。
守るための戦いだ)
「──王都も、海も、両方生かす!」
叫びと同時に杖を突き立てる。
海面が眩い光を放ち、灰の波が凍るように止まる。
灰は砂となり、砂は浜へ戻る。
外套の者たちは膝をつき、やがて静かに立ち去った。
アルガスだけが残り、潮風の中で笑った。
「……やはり面白い。
次は“深海”だ。お前の目がどこまで届くか、見せてもらおう」
彼は波間に消えた。
俺は浜に座り込み、海を見つめた。
(まだ終わらない。だが、今は──)
潮風が頬を撫でる。
どこか遠くで、子供の笑い声が聞こえた気がした。