第1部 第8話 九日後、灰は王都を覆う
九日間、王都は眠らなかった。
石の塔は夜ごとに脈動し、屋根の上を青白い筋が走る。
俺は各門の封印石に“第三の目”──《灰視》の小さな瞳孔を据え付けて回った。
目は眠らない。灰を見分け、灰を尺度にし、灰を“光の材料”に還元する。
(灰は終わりじゃない。燃え尽きた証であり、次の燃焼の種にもなる)
手の甲に針の痕が増える。微細な血の契約。
術師が世界に署名するために払う、最低限の代価。
眠気は石灰の匂いのように重く、しかし剥がせる。剥がせば下に、焦げ跡と熱が赤く残っている──生きている証拠だ。
王は俺に全権を委ね、セリーヌは書記隊を率い、膨大な儀式文の調律を回した。
彼女の筆圧は毎夜少しずつ強くなり、誤字が減り、言葉の隙間に迷いが消える。
貴族たちの反発は火に油だったが、燃料は尽きない。俺は燃やした。燃やして灰にし、灰を束ねて“新しい石”に変えた。
(旧い秩序の“死骸”を積み直して、城の礎にする──それが、第二の死の骨格だ)
夜の端を歩く。インクの匂いが指に染みている。
リュシアンの背は、いつも少し先にある。追いかける距離が、過去と今の差分だと思っていた。
違う。あの背は、私に“並べ”と言っている。
王女の冠は軽くない。けれど、彼の杖よりは軽いのだと今はわかる。
九日間、眠りの代わりに“目録”を数えた。封印石、巡礼路、詠唱者、欠員。
私の仕事は、祈ることでも、縋ることでもない。
“選んだ言葉で世界を縫い留める”こと。
彼が刃を振るう瞬間に、私の言葉がその刃を正しく鞘に納められるように。
明日、王都は二度死ぬ。
私は、その二度目の死に、名を与える。
“生まれ直し”。
九日目の黄昏、音が変わった。
城下の井戸はいつもより一拍遅れて水面が揺れ、廃鐘が鳴らぬはずの音を吐いた。
空の色が薄く撓み、鳥が輪を描いて降りてくる。
境界は、開く前に“咳”をする。今日の咳は長い。肺の底まで乾いていて、少し血が混じる音だ。
俺は塔の踊り場で目を閉じ、石の目を借りるように街の脈を視た。
南門、良好。西門、微かな滲み。北塔、強い圧。
ヘルムの森側──あの裂け目の残滓が、まだ空の縁を擦っている。
(来い。来るなら、全部だ)
最初の揺れは王都上空から。
次の脈は森から遅れて届く。
二正面の合奏。狙いは“視線の分断”。どちらかを救えば、どちらかが薄くなる。
秤を片手で持て、と声が囁く。
俺は首を振る。秤ごと造り替える、と決めた。
「セリーヌ! 第三層、起動!」
「灰視、反転。詠唱、流します!」
塔の頂で円環が回り、書記隊の声が幾つも重なって一つの低いうねりになる。
王都の空に細い線が走り、網の目がやがて瞳孔の模様を結んだ。
《灰視の瞳 起動》
石が目を開き、灰を“見た”。
灰は魔でも厄でもない。履歴だ。
履歴を読めるなら、侵入の“意図”を反転できる。
最初の死は、血の反復だった。
上空から降ったものは火ではない。灰の膜を被った“過去”だ。
戦で失われた名もなき者たちの、未消化の呻き。
それが街路に手を伸ばす。家の縁、井戸のふち、幼い頃の影。
兵も市井も、ひととき“思い出の重さ”に膝を折る。
(立て。立て、ここは墓場じゃない)
俺は胸の内で言い、詠唱の“間”に呼吸を挟んだ。
「過去を読む。過去を祓わない──過去を、使う」
《灰視》が履歴を抜き出し、網の目が街路に薄い符牒を刻む。
灰の手が、その符牒に触れた瞬間、手は形を変えた。
握るでも、抑えるでもない。
“支える”形へ。
第一の死はやり過ごされた。
血の反復は、骨組みへ組み替えられる。
灰は礎になり、礎は橋になる。
次が来る。
空が白くなる。
光が、殺す。
それは火ではない。秩序の定義のほうが、こちらの“今”より古いと宣言する光。
旧い憲章、古い祈り、古い王冠。
すべてが光に照らされ、影として削ぎ落とされる。
(これが“二度目の死”の正体……“古いままの正しさ”の死)
俺は頷いた。恐れは、不思議と消えている。
これを殺さないと始まらない。
俺は杖を肩に担ぎ直し、言葉を選ぶ。
「宣言する。
王都は古い秩序に殺されない。
古い秩序は、王都のために死ぬ」
セリーヌが短く笑い、詠唱をつなぐ。
「宛名:王都。差出人:王都」
光が流路を見失い、瞳孔の網に絡め取られる。
第二の死は、殺意の方向を変えられた。
古きは古きの席へ。儀礼は儀礼の席へ。
“今”に牙を向ける権利は剥がされ、“今”のための土台だけが残った。
塔が鳴る。
街の至るところの瞳が同時に“瞬き”し、深部が開く。
俺は視界の奥で、王都が“自分を見る”瞬間を視た。
都市が自己紹介をやり直し、血統ではなく、呼吸で名乗る。
《王都は“今”として在る》
その一文が儀式文に現れ、光の死は役目を終える。
肩が軽くなる。だが、終わりではない。
森から、踏音。低い、重い、知った歩幅。
北の空が僅かに沈み、城壁の影が長く伸びる。
塔の縁に立った俺の前に、影が一つ現れ、風にほどけるように男の形を結んだ。
「九日、間に合ったか。見事だ、リュシアン」
アルガス。
フードの陰、声は乾いているのに、目だけが湿っている。
師の目だ。弟子の成長を喜ぶ目。
その喜びが、いちばんの毒だ。
「終わりにしよう」
俺はそう言った。
終わりはいつも始まりを孕む。だからこそ、言葉にして刃の向きを決める。
「終わりは良い言葉だ」
アルガスが一歩近づく。
彼の足音は、昔から、森の動物に似ていた。地面を傷つけず、しかし確かに踏む。
「問おう。お前は“外”を恐れるか」
「恐れる」
「ならば、お前はまだ“内”にいる。内から外を制すのは、内を殺すことだ」
「違う。内を編み直す」
風が塔の針金を鳴らす。
遠くで、子供の泣き声が一つ、すぐに止む。
街は生きている。生きているものは音を立てる。
「見ろ」
アルガスが指した空に、微かな裂け目。
先刻抑えたヘルムの森の“余韻”。そこに、細い糸が何本も結び目を作る。
糸は王都の上にも延び、第三の目の網に絡み、そこからさらに“上”へと続いている。
「お前の網は美しい。だが美しいものは、捕らえたものを飾るだけだ。
生かしはしない」
「飾らない。位置を与える。
居場所のないものを、居場所のある“構造”へ戻す」
俺は杖を斜めに構え、踵をひとつ引いた。
アルガスの肩が僅かに緩む。彼は知っている。この姿勢から放つ術は、雷ではない。
言葉だ。
術が言葉になるのではない。言葉が術になる。
「師よ。あなたは、私の“最初の境界”だった」
舌の先に重い味が乗る。懺悔にも似た塩味。
「あなたを越えられない限り、私はずっと『内側の子』だ。
だから、私は越える。
師のために越える」
アルガスは笑った。それは昔、難問を解いた俺に向けた微笑の形に酷似していた。
「来い」
世界が細る。
塔の先端、足元の石の目が開く。
俺は詠唱を開始した。声は低く、街路の石の脈拍に調子を合わせる。
「灰は、終わりではない」
第一句。
街の瞳孔が同じ言葉を反芻する。寂れた倉庫、古い井戸、戦の記憶。
すべての灰が小さな灯になり、点が線へ、線が円へ。
「灰は、光の素材だ」
第二句。
第三の目が、瞳の中心にもうひとつの“孔”を結ぶ。
灰視の瞳の瞳。
そこは“外”でも“内”でもない。間だ。
境界の間。
俺が追放の夜にずっと立っていた、あの薄い端の足場。
「灰は、帰る場所」
第三句。
アルガスの眼が揺れる。
彼が一歩踏み込む。指先に“灰の刃”。
来る。
俺は一文字だけ飲み込み、代わりに息を吐いた。
息は言葉になる。言葉は術になる。術は構造になる。
杖先がわずかに下がり、塔の縁に触れる。
「……ただいま」
刹那、王都が答えた。
《おかえり》
灯が一斉に点く。屋根の連なりが、空の裂け目の“裏側”を写し取る。
写し取られた“裏側”は、こちらの“表”の真似をして、裂けることを忘れる。
アルガスの刃が、空気の“間”で鈍った。
俺は踏み込んだ。
杖の影が彼の胸骨をかすめ、灰の刃に“位置”を与える。
刃は刃であることをやめ、“境界の栓”に変わる。
栓は孔を塞ぎ、裂け目は閉じ、灰は静かに沈殿する。
アルガスの膝が落ち、呼吸が一度止まる。
師の目が、やっと真正面から俺を見る。
そこには怒りも嘲りもない。ただ、評定の光。
「……戻ったな、リュシアン」
「戻った。私の王都へ」
「私の、ではなく?」
「師の王都は、師の時代に属する。
俺の王都は、今に属する。
だから、あなたの王都を殺さずに、こちらに席を作った」
アルガスは短く笑い、うつむく。
「美しい勝ち方だ。だからこそ、その美しさを憎む者が出る」
「知っている」
遠雷が鳴り、どこかで子どもが泣き止む。
街は生きている。生きているものは、理解できないほど複雑に鳴る。
「師よ。あなたは来るのか、去るのか」
「私は灰だ。
灰は、どこにでも積もる。
だが今日は、お前の上ではなく、お前の横に積もろう」
アルガスの輪郭が薄れ、風の中へ砂のように散った。
残ったのは、焼き印の熱だけ。
掌で触れると、熱は痛みに変わり、痛みは記憶に変わった。
塔を降りる途中、膝が笑った。
疲労は“正しい痛み”だ。俺はそれを嫌わない。
大広間でセリーヌが待っていた。
目が合うと、彼女は頷き、紙束を差し出す。
「第二の死の議事録。最後の一行、空けてあります」
「書いてくれ。王都自身の言葉で」
セリーヌは筆を取る。躊躇はない。
紙の上で、ひとつの文が息をした。
《王都は二度死んだ。二度目は“いま生きるため”に死んだ》
読み上げる彼女の声は、儀式の終わりを告げる鐘のようだった。
俺は笑った。やっと、笑えた。
夜更け、第三の目は静かに瞬きを繰り返す。
塔の窓に黒い影が載り、羽音がひとつ残る。
小さな筒には封蝋が押されていた──“聖灰会・評議”の紋。
羊皮紙には、短く。
《“再会”を。次は海で》
海。
境界の“平らな場所”。
砂は灰に似ている。
俺の掌が、少しだけ熱くなった。
(まだ終わらない。終わらせ続けて、生まらせ続ける)
第三の目がゆっくり閉じ、夜が深くなる。
王都は呼吸を合わせ、眠り方を思い出す。
俺は杖を壁に立てかけ、空いた手で心臓の上に触れた。
そこには、戻ってきた拍動が確かにあった。
「ただいま」
誰にも聞こえない声で、もう一度。
夜が、やわらかく頷いた。