第1部 第7話 灰の予言
空に走った亀裂が、じわりと広がる。
月光を飲み込み、夜空そのものが裏返るように。
風が渦を巻き、森がざわめき、枝葉が軋んだ。
アルガスはフードを外し、額の汗を拭った。
その顔に浮かんでいるのは、狂気ではなく、妙に澄んだ確信だった。
「九日後では遅いと思っているだろう、リュシアン。
だから今夜、前倒しで門を開く」
胸が冷たくなる。
間に合わない──そう思った瞬間、心臓が跳ねた。
(いや……間に合わせる。間に合わせてみせる)
杖を構える。
足元に魔力陣が浮かび、雷光が皮膚を走る。
裂け目から、異形の魔物が一体、また一体と這い出してくる。
骨のような四肢、灰の膜に覆われた目。
夜の闇にまぎれ、まるで森そのものが歩いているようだった。
「──《雷槍》!」
雷光が走り、最初の魔物を貫く。
だが次の瞬間、もう二体が左右から迫る。
地面を蹴り、後方へ跳ぶ。
息が白くなり、心臓が焼けるように速くなる。
(落ち着け……呼吸を合わせろ。俺はこの森の脈を知っている)
村の復興で掘り返した地脈の記憶がよみがえる。
魔力の流れを読み、足場を選び、次の詠唱に入る。
「《雷嵐》!」
空から雷が連続して落ち、森全体が白く照らされた。
異形たちが悲鳴を上げ、焦げた匂いが立ちこめる。
雷光の中、アルガスは動じなかった。
むしろ、その瞳は愉悦で光っていた。
「いいぞ……それだ。
お前がその力を解き放てば解き放つほど、“境界”はお前の形を覚える」
意味深な言葉。
眉間にしわが寄る。
「……俺を“器”にするつもりか」
アルガスは笑った。
「器ではない。境界そのものだ。
お前は追放され、名誉を奪われ、全てを失った。
だからこそ、世界の“外”に立てる」
胸がざわつく。
怒りか、あるいは、ぞっとするほどの納得か。
(そうか……追放は罠でもあった。
だが同時に、俺を“この場所”まで導いた道でもある)
歯を食いしばる。
運命の皮肉が、胸に重くのしかかる。
裂け目がさらに広がり、空気が重くなる。
アルガスが両手を広げ、声を上げた。
「灰は降り、王都は二度死ぬ!
一度目は血で、二度目は光で!」
耳の奥で響く声。
まるで森全体が予言を囁いているようだ。
(光で死ぬ……?)
意味を探る前に、魔物の群れが一斉に飛びかかってきた。
雷撃、跳躍、回避。
息が荒れ、額から汗が流れる。
(俺は……まだ選んでいない)
頭の片隅に、村の笑い声と、王城の重苦しい広間の景色が交互に浮かぶ。
(王都を守るか、村を守るか──そんな二択はごめんだ)
牙を食いしばる。
胸の奥で、何かが形を変える。
恐怖でも怒りでもない、純粋な意思。
「なら、両方だ!」
叫びと共に、杖を地面に突き立てる。
足元の魔法陣が拡張し、森全体が震える。
「《雷環結界》!」
雷の輪が広がり、魔物たちを押しとどめる。
裂け目からの瘴気が押し返され、夜空が一瞬だけ澄んだ。
アルガスは一歩下がり、口元に笑みを浮かべる。
「やはり面白い。
九日後が楽しみだ……リュシアン」
次の瞬間、影に溶けるように姿を消した。
残されたのは、灰を踏みつける音と、まだ煙を上げる魔物の死骸。
杖を地面に突き、深く息を吐く。
胸の中で、心臓がまだ荒く鳴っている。
(選ばなかった……選ばずに済んだわけじゃない。
次はもっと大きな選択を迫られる)
空を見上げる。
裂け目は閉じたが、残滓が月光を濁らせている。
「……必ず終わらせる。俺の形で」
その声は夜風に溶け、森に響いた。
王都へ戻る道すがら、胸の中にひとつの言葉がこだました。
《王都は二度死ぬ》
その意味を考えるたび、背筋が冷える。
だが同時に、炎のような決意が湧き上がる。
(なら二度目の“死”を、俺の手で意味あるものに変えてやる)
遠く、王都の灯りが見えた。
(次は──宮廷そのものを作り変える)
歩を進めるたび、杖の先が土を叩き、決意を刻んだ。